4月のフィールドワーク予定 2022【変更・追記】

年度初めの今月は少なめ。

青年団の支援会は、ラインアップを何度見てもオリザ作品は一作のみで他に食指が動くものは見当たらず(知らないだけだろうが)今年度は入会しなかった。ただ『S高原から』を一般で入手後『日本文学盛衰史』(1998)が来年1月に追加されたのを知る。

BCJの『マタイ受難曲』でハナ・ブラシコヴァ(チェコ)の歌声を久し振りに聴ける。何年ぶりだろう。特に前田リリ子のフラウト・トラヴェルソと共演のアリア「愛ゆえに」はとても楽しみだ。

オーボエ奏者 吉村結実の生演奏を初めて聴いたのは、N響ではなく新日フィルのゲストで(2021.3)。鈴木秀美の指揮するベートーヴェン交響曲第五番は凄まじい速さで疾駆したが、自然の、運動の法則に従っているとも思わせた。第一楽章のオーボエソロも勢いのまま飛び出すが、自然の法則ですーっと消えていく感じ。針のように細く鋭い音圧が後を引いた。その後、N響定期で何度か聴いたが、今月はリサイタルホールで聴ける。

2日(土)18:00 青年団 第92回公演『S高原から』(1991)作・演出:平田オリザ/出演:島田曜蔵 大竹 直 村田牧子 井上みなみ 串尾一輝 中藤 奨 南波 圭 吉田 庸 木村巴秋 南風盛もえ 和田華子 瀬戸ゆりか 田崎小春 倉島 聡 松井壮大 山田遥野/舞台美術:杉山 至/舞台監督:中西隆雄/舞台監督補:三津田なつみ/照明:西本 彩/衣裳:正金 彩 中原明子/宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子/宣伝写真:佐藤孝仁/宣伝美術スタイリスト:山口友里/制作:金澤 昭 赤刎千久子 @こまばアゴラ劇場

3日(日)14:00 新国立劇場オペラ《ばらの騎士》全3幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉作曲:リヒャルト・シュトラウス/台本:フーゴ・フォン・ホーフマンスタール/指揮:サッシャゲッツェル/演出:ジョナサン・ミラー/美術・衣裳:イザベラ・バイウォーター/照明:磯野 睦/再演演出:三浦安浩/舞台監督:髙橋尚史/「キャスト」元帥夫人:アンネッテ・ダッシュ/オックス男爵:妻屋秀和/オクタヴィアン:小林由佳/ファーニナル:与那城 敬/ゾフィー:安井陽子/マリアンネ:森谷真理/ヴァルツァッキ:内山信吾/アンニーナ:加納悦子/警部:大塚博章/元帥夫人の執事:升島唯博/ファーニナル家の執事:濱松孝行/公証人:晴 雅彦/料理屋の主人:青地英幸/テノール歌手:宮里直樹/帽子屋:佐藤路子/動物商:土崎 譲/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/児童合唱:多摩ファミリーシンガーズ/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

【4日(月)16:55 映画『ドライブ・マイ・カー』監督:濱口竜介/原作:村上春樹脚本:濱口竜介 大江崇允/[キャスト]家福悠介:西島秀俊/渡利みさき:三浦透子/家福 音:霧島れいか/イ・ユナ:パク・ユリム/コン・ユンス:ジン・デヨン/ジャニス・チャン:ソニア・ユアン/ペリー・ディゾン/アン・フィテ/柚原:安部聡子/高槻耕史:岡田将生/製作代表:中西一雄 定井勇二/共同製作:川村岬 松下幸生 奥村景二 中部嘉人 鈴木仁行 久保田修 五老剛/プロデューサー:山本晃久/アソシエイトプロデューサー:近藤多聞/撮影:四宮秀俊/照明:高井大樹/録音:伊豆田廉明/美術:徐賢先/装飾:加々本麻未/スタイリスト:纐纈春樹/ヘアメイク:市川温子/編集:山崎梓/音楽:石橋英子/監督補:渡辺直樹 大江崇允/助監督:川井隼人 久保田博紀/リレコーディングミキサー:野村みき/VFXスーパーバイザー:小坂一順/制作担当:中川聡子 @イオンシネマ板橋】←昨年 8月に見て以来 2回目

【7日(木)19:20  映画『偶然と想像』監督・脚本:濱口竜介/プロデューサー:高田聡/撮影:飯岡幸子/整音:鈴木昭彦/助監督:高野徹/深田隆之/制作:大美賀均/カラリスト:田巻源太/録音:城野直樹 黄永昌/美術:布部雅人 徐賢先/スタイリスト:碓井章訓/メイク:須見有樹子/エグゼクティブプロデューサー:原田将 徳山勝巳/キャスト:古川琴音(芽衣子)中島歩(男性)玄理(つぐみ)渋川清彦(瀬川)森郁月(奈緒)甲斐翔真(佐々木)占部房子(夏子)河井青葉(あや)@Bunkamura ル・シネマ】←昨年 12月に見て以来 2回目

8日(金)19:00 新国立劇場 演劇『アンチポデス』作:アニー・ベイカー/翻訳:小田島創志/演出:小川絵梨子/美術:小倉奈穂/照明:松本大介/音響:加藤 温/衣裳:髙木阿友子/ヘアメイク:高村マドカ/演出助手:渡邊千穂/舞台監督:福本伸生/出演:白井 晃 高田聖子 斉藤直樹 伊達 暁 富岡晃一郎 亀田佳明 草彅智文 八頭司悠友 加藤梨里香(新型コロナウィルス感染のためキャンセル)→万里紗 @新国立小劇場「公演関係者1名に本日発熱の症状が見られ、PCR検査を受検することとなり… 4/8(金)、9(土)、10(日)、11(月)の公演…は、お客様ならびに出演者・スタッフの安全・安心を最優先し、公演中止」(4/7)

15日(金)18:30 BCJ #148 定演 J. S. バッハ《マタイ受難曲BWV 244/指揮:鈴木雅明エヴァンゲリストテノール):トマス・ホッブスソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、中江早希/アルト:ベンノ・シャハトナー、青木洋也/テノール:櫻田 亮/バス:加耒徹、渡辺祐介バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)@東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

16日(土)14:00 新国立劇場オペラ《魔笛》全2幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉作曲:ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト/台本:エマヌエル・シカネーダー/指揮:オレグ・カエターニ/演出:ウィリアム・ケントリッジ/美術:ウィリアム・ケントリッジ、ザビーネ・トイニッセン/衣裳:グレタ・ゴアリス/照明:ジェニファー・ティプトン/プロジェクション:キャサリン・メイバーグ/再演演出:澤田康子/舞台監督:村田健輔/[キャスト]ザラストロ:河野鉄平/タミーノ:鈴木 准/弁者・僧侶Ⅰ・武士Ⅱ:町 英和/僧侶Ⅱ・武士I:秋谷直之/夜の女王:安井陽子/パミーナ:砂川涼子/侍女I:増田のり子・侍女Ⅱ:小泉詠子/侍女Ⅲ:山下牧子/童子I:前川依子/童子Ⅱ:野田千恵子/童子Ⅲ:花房英里子/パパゲーナ:三宅理恵/パパゲーノ:近藤 圭/モノスタトス:升島唯博/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

19日(火)19:00 「B→C バッハからコンテンポラリーへ 吉村結実 オーボエリサイタル」F.クープラン:《趣味の融合または新しいコンセール》第7番 ト短調 **/ラヴェルソナチネ */ペクー:オーボエソナタ(1985)*/エルサン:シェーナイ(2016)/ジョリヴェ:オリノコ川の丸木舟を操る人の歌(1953)*/メシアン:ヴォカリーズ・エチュード */ギュドファン:白鳥の歌(2014)*/J.S.バッハ:パルティート短調 BWV1013(原曲:無伴奏フルート・パルティーイ短調)/𠮷村結実(オーボエ)/大堀晴津子(ピアノ)*/桒形亜樹子(チェンバロ)** @東京オペラシティ リサイタルホール

【22日(金)19:00 新国立劇場 演劇『アンチポデス』作:アニー・ベイカー/翻訳:小田島創志/演出:小川絵梨子/美術:小倉奈穂/照明:松本大介/音響:加藤 温/衣裳:髙木阿友子/ヘアメイク:高村マドカ/演出助手:渡邊千穂/舞台監督:福本伸生/出演:白井 晃 高田聖子 斉藤直樹 伊達 暁 富岡晃一郎(体調不良により降板 4/11)→チョウ ヨンホ 亀田佳明 草彅智文 八頭司悠友 加藤梨里香 @新国立小劇場】←初日の公演中止に伴い取り直した

30日(土)14:00 新国立劇場バレエ団『シンデレラ』振付:フレデリック・アシュトン/監修・演出:ウェンディ・エリス・サムス/マリン・ソワーズ/音楽:セルゲイ・プロコフィエフ/美術・衣裳:デヴィッド・ウォーカー/照明:沢田祐二/[主要キャスト]シンデレラ:小野絢子/王子:福岡雄大 @新国立劇場オペラハウス

新国立劇場オペラ《椿姫》2022

《椿姫》再演の初日を観た(3月10日 木曜 19:00/新国立劇場オペラハウス)。このプロダクション初演は2015年5月(指揮:イヴ・アベルヴィオレッタ:ベルナルダ・ボブロ)。その後17年11月(リッカルド・フリッツァ/イリーナ・ルング)、19年11月(イヴァン・レプシッチ/ミルト・パパタナシュ)と続き、今回が4回目。

初演のブサール演出が大変気に入り、毎回期待して見てきたが、初演ほどの満足感は得られず。いずれも指揮者やタイトルロール等が演出の意図と意義をさほど共有(共感)しているようにはみえなかった。が、今回は初演に次ぐ好舞台だったと思う。以下、簡単にメモしたい(演出についての解釈は、初演メモ17年の再演メモを参照)。

作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)/台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810-76)/原作:アレクサンドル・デュマ・フィス(1824-95)『椿を持つ女』(小説:1848年/戯曲:1849年・初演:1851年/オペラ《ラ・トラヴィアータ(道を踏み外した女》初演:1853年)

指揮:アンドリー・ユルケヴィチ/演出・衣裳:ヴァンサン・ブサール/美術:ヴァンサン・ルメール/照明:グイド・レヴィ/ムーブメント・ディレクター:ヘルゲ・レトーニャ/再演演出:澤田康子/舞台監督:斉藤美穂/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団コンサートマスター:グレブ・ニキティン)

[キャスト]ヴィオレッタ:アニタ・ハルティヒ(「直前のスケジュール及び入国制限=入国後の待機義務により十分なリハーサル期間を確保できないことから降板」)→中村恵理/アルフレード:マッテオ・デソーレ/ジェルモン:ゲジム・ミシュケタ/フローラ:加賀ひとみ/ガストン子爵:金山京介/ドゥフォール男爵:成田博之/ドビニー侯爵:与那城 敬/医師グランヴィル:久保田真澄/アンニーナ:森山京子/ジュゼッペ:中川誠宏/使者:千葉裕一/フローラの召使い:上野裕之

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ウクライナ人の指揮者ユルケヴィチが登場すると大きな拍手が。前奏曲はとても繊細な響き(オケは東フィルではなく東響)。その間、幕には原作のモデルとなったアルフォンシーヌ・プレシ(マリー・デュプレシ)の墓碑銘が浮かび、背後に彼女の肖像画がうっすらと滲み出る。その後、快速で一気にパーティ会場へ。

第1幕。ヴィオレッタの中村はまだ声の響きが十分でない。アルフレードのデソーレは、歌唱が未完成の印象。ソロの不安定さは緊張のせいか。「乾杯の歌」はいつ聴いても難しいなと思う。特にあの小節をきかせるようなフレーズ(初演時のボルロは律儀にかつ綺麗に歌った)。正確にやりすぎると場の雰囲気に合わないし。今回はその中庸をねらったか。ヴィオレッタは例の「ああ、きっとあの方なのね」のアリアでカミテの端に座った。そこまで端っこに座ったのは初めて。まだ声がよく鳴っていない。ラストはスコア通りハイトーンにせず(18年に藤木大地とのデュエットコンサートで歌ったときはチャレンジした)。それでいいと思う。

第2幕第1場。アルフレードはアリア「燃える心を」では少し持ち直したが、歌のつくり方はまだ荒削りの印象。若いのかも。ヴィオレッタ中村とジェルモン父ミシュケタの遣り取りは聴き応えがあった。ミシュケタの歌唱は朗々として雄弁。芝居もいい。次第に人のよさ(たぶん役ではなく本人の)が滲み出てくる。二人の掛け合いはオケの伴奏と相まって緊迫感が漲り、引き込まれた。中村の真面目さ、ミシュケタの情の厚さ。

息子を諭すジェルモン父のアリア。カモメの飛翔とパラソルをあしらった第2幕のセットは、二人の住むパリ近郊の自然を表すが、このアリアでは、歌が喚起する親子の故郷「プロヴァンスの海と地」や「輝くばかりの太陽」の表象ともなる。

シモテ奥の入口から漏れる光が、前半のホワイト(午前)から後半はブルー(午後)に変わった。これはヴィオレッタとアルフレードの心情の変化も表すのだろう。

ここで30分休憩。

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第2幕第2場。再び舞台はパリ、フローラ邸での舞踏会。アルフレードは、ヴィオレッタのパトロン ドゥフォール男爵とカードの勝負で得た札束をヴィオレッタに投げつけ侮辱する。このときガルニエのフォワイエを描いた背景の壁が崩壊。ここから人々はこの「道を踏み外した女」に同情し始め、神話化が可視化されてくる。迫力ある合唱付八重唱の幕切れでヴィオレッタ(プレシ)はカミテ近くの、手前に少し食み出した場所へ歩み出る。19世紀の人々から切り離され、現代の〝われわれ〟にぐっと近づく演出だ。今回カミテ側の英語字幕は出さないとの掲示があった。演出効果が損なわれるからだろう。

第3幕。間奏曲。ユルケヴィチの棒に〝気〟がこもり、オケが敏感に呼応する。弦の生な感触が、悲痛な響きを際立たせた(死の床にあるヴィオレッタの心情と、ウクライナ人指揮者の想いがダブって聞こえた)。幕の中央には円形の大きな〝窓〟が開き、その上部は三分の一ほど閉じており、臙脂色のカーテンが描かれている。窓から見えるヴィオレッタはベッドならぬピアノの上。死の床に横たわるヴィオレッタは、19世紀に作られたピアノ(音楽=芸術)に支えられ、神話化されていく。観客はそのプロセスを目撃する仕掛け。すでに中村の歌唱は第1幕とは別次元。「さようなら、過ぎし日の…」では二番の歌詞も歌った(その分、過去2回の再演より終演が5分延びたが初演時に戻っただけ)。声の響きと歌詞に込められた想いが見事に融合した素晴らしい歌唱。アルフレード登場。やっと。だが、すでに彼女は他の人物と薄い膜で区切られ、切り離されている。もう彼女は半ば神話(文学=音楽)上の人物なのだ。すでにそれぞれ別世界に所属する二人のデュエット「パリを離れて」。まずはアルフレードが歌う。デソーレはとても誠実な声。アルフレードにぴったりだ。それを聴いたヴィオレッタは少しテンポを落として歌う。二人が声を合わせるときは、また元のテンポ。まるでアルフレードとの再会でヴィオレッタが「また元気を取り戻した」かのよう。だが、もちろんそれは束の間だ。彼女と他を隔てる薄い膜の上部には、ずっとプレシの面影が亡霊のように浮かんでいる。まるでその魂が、神話化していくさまを見守っているかのよう。あるいは、死の床にあるヴィオレッタ(マルグリット=デュプレシ=プレシ)の魂が身体から離脱しはじめているのか。円形の窓が次第に下へ閉じ始めると、彼女はこの窓の外(手前)に出て、語り始める「不思議だわ!……」ニキティンのヴァイオリンソロ。震えるような美しさ。「私の中に、いつにない力が生まれ……/はたらいているの!」「力」は、ここでは音楽(文学/芸術)の力だと思う。つねに舞台でヴィオレッタを支えてきたピアノがその象徴だ。「わたし生きるんだわ!」*1。たしかにアルフォンシーヌ・プレシは死んだし、ヴィオレッタも死ぬが、芸術の力で、彼女はヴィオレッタとして、再び生き始める…。

今回、ウクライナ生まれの指揮者アンドリー・ユルケヴィチの下、ロシア生まれのコンサートマスター グレブ・ニキティンがオケを牽引し、素晴らしい演奏で劇場を満たした。ユルケヴィチの指揮は内省的で、華美なものは削ぎ落とす印象(スタニスラフスキー演出の舞台に基づいた2019年の《エフゲニー・オネーギン》もそうだった)だが、ツボは絶対に外さない。この志向は、プレシの生と死が神話化され、再生されるプロセスを描こうとした(と思われる)プロダクションのコンセプトとよく合っていた。中村恵理のヴィオレッタ造形は、高級娼婦の華やかさより、傷つきやすさや真面目さが優るあり方。結果、第1幕よりも第2幕、とりわけ第3幕にフィットした。トータルでは、とても感動的な舞台に結実した。

新国立劇場は、11日に、ユルケヴィチ氏がウクライナ人であることに言及し、「戦火に苦しむウクライナの人々を支援」する旨の声明文を出し、劇場内に募金箱を設けたとのこと。大賛成だし、大変よいことだと思う。

同時に、なぜ初日の翌日なのか、なぜ、初日より前にこれができなかったのか、というのも偽らざる気持ちだ。そもそも、ユルケヴィチ氏のリハーサル参加を知らせる3月2日の劇場ツイートは、彼がウクライナ人であることにまったく触れていなかった。波風(どんな?)を立てたくないのは分からないでもない。が、子供や女性を含む民間人が連日殺害されていくウクライナの状況を見るにつけ、新国立劇場のサブスクライバーとして、ヒューマニティの危機にもっと敏感であって欲しいと率直に思う。劇場内にもそうした声が出ていたのかもしれない。やはりインテンダントが存在しない劇場組織では限界があるのだろう。3月10日の初日当日、芸術監督の大野和士氏が《椿姫》開幕に寄せたメッセージをネット発信したのは本当に救いだった。

11日の声明文は「オペラ・ヨーロッパの宣言」にある次の言葉を支持するという。「芸術は常に人道的価値の最前線にあり続ける。芸術は、政治的プロパガンダに媚びることなく、批判的思考を養い、対話を促進するために活用されるべきである。*2

これは「オペラ・ヨーロッパ」によれば、ウクライナの芸術家と文化活動家の言葉らしい。新国立劇場には、この言葉を支持するのみならず、実践する劇場であり続けるよう、こころから願っている。

*1:海老沢敏訳/名作オペラ ブックス

*2:原文は次の通り。‘Art has always remained at the forefront of humanitarian values.  We strongly believe that art cannot be subservient to political propaganda; instead it should be utilised for developing critical thinking and promoting dialogue’. 「あり続ける」ではなく「あり続けてきた」か。後段は意訳により、ウクライナ人芸術家の当事者性が少し薄まっているようにみえる。

3月のフィールドワーク予定 2022【追加】【更新】【濱口映画11作を追加】

2月24日(木)13時からシアターコモンズの『吊り狂い』を Shibaura House で見た。その後、広州市場で食事中にロシアのウクライナ侵攻を知った。27日(日)シアターコモンズの最終日『オバケ東京のためのインデックス 第一章』終了後、ステージを降りた佐藤朋子は、ポーランドの女性詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)の「終わりと始まり」(1993)全文を朗読した。詩はアーティストの小林清乃から教わったという。

戦争が終わるたびに/誰かが後片付けをしなければならない/物事がひとりでに/片づいてくれるわけではないのだから

誰かが瓦礫を道端に/押しやらなければならない/死体をいっぱい積んだ/荷車が通れるように〔……〕

それは写真うつりのいいものではないし/何年もの歳月が必要だ/カメラはすべてもう/別の戦争に出払っている〔……〕

朗読を聴きながら、ウクライナの苦境と今後に思いを馳せた。だが後半では、むしろこの国の敗戦(終わり)と戦後(始まり)から現在までの道のりが想起された。苦々しく。

誰かがほうきを持ったまま/いまだに昔のことを思い出す/誰かがもぎ取られなかった首を振り/うなずきながら聞いている/しかし、すぐそばではもう/退屈した人たちが/そわそわし始めるだろう

誰かがときにはさらに/木の根元から/錆ついた論拠を掘り出し/ごみの山に運んでいくだろう

それがどういうことだったのか/知っていた人たちは/少ししか知らない人たちに/場所を譲らなければならない そして/少しよりもっと少ししか知らない人たちに/最後はほとんど何も知らない人たちに

原因と結果を/覆って茂る草むらに/誰かが寝そべって/穂を噛みながら/雲に見とれなければならない  (沼野充義訳)

新国立劇場で《椿姫》を振るアンドリー・ユルケヴィチ Andriy Yurkevych ウクライナ人だ。現在はモルドヴァ国立オペラ・バレエ劇場の首席指揮者らしい。直前にワルシャワで《リゴレット》を指揮したようだが、祖国がこんな状況下に来日できるのだろうか。

【ル・シネマ「濱口竜介監督特集上映」のほぼ全作11作品を見ることにした。】

3日(木)19:00 天使館ポスト舞踏公演『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』構成・演出・振付:笠井 叡/出演:浅見裕子 上村なおか 大森政秀 笠井久子 笠井瑞丈(新型コロナウィルス感染のため降板「他の出演者は、保健所からの指針をもとに、3 月 1 日の劇場入り前日に行ったPCR 検査の結果、全員陰性が確認され、濃厚接触者には該当しないことが確認され…全公演実施すること」に 3/3) 笠井禮示 鯨井謙太郒 齋田美子 桜井郁也 定形まこと 杉田丈作 寺崎 礁 野口 泉 原 仁美 山崎広太 山田せつ子 笠井 叡/ピアノ演奏:島岡多恵子 @世田谷パブリックシアター

4日(金)19:00 芸劇リサイタル・シリーズ「VS」 Vol.2 山下洋輔 × 鈴木優人J.S.バッハ平均律クラヴィーア曲集より/コズマ:枯葉 */モーツァルト:ロンド イ短調 KV511 **/山下洋輔 オリジナル曲/ビル・エヴァンス:ワルツ・フォー・デビイ/ガーシュウィン:3つの前奏曲ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー/*山下Solo **鈴木Solo @東京芸術劇場コンサートホール←公演関係者に濃厚接触の可能性があるため中止しとなり 3月31日(木)19:00 に振替(3/4)

5日(土)18:00 日本バレエ協会 ユーリ・ブルラーカ版『ラ・エスメラルダ』全幕/振付指導:ユーリ・ブルラーカ/振付補佐:フョードル・ムラショフ/照明:沢田祐二/舞台監督:森岡 肇/音響:矢野幸正/衣裳・装置協力:NBAバレエ団・法村友井バレエ団[キャスト]エスメラルダ:米沢 唯/フェブ:中家正博グリンゴワール:木下嘉人/フロロ:遅沢佑介/カジモド:奥田慎也/ディアナ:飯塚絵莉/アクテオン:牧村直紀 @東京文化会館 大ホール

10日(木)新国立劇場オペラ《椿姫》指 揮:アンドリー・ユルケヴィチ/演出・衣裳:ヴァンサン・ブサール/美術:ヴァンサン・ルメール/照明:グイド・レヴィ/ムーブメント・ディレクター:ヘルゲ・レトーニャ/再演演出:澤田康子/舞台監督:斉藤美穂[キャスト]ヴィオレッタ:アニタ・ハルティヒ(「直前のスケジュール及び入国制限=入国後の待機義務により十分なリハーサル期間を確保できないことから降板」)→中村恵理/アルフレード:マッテオ・デソーレ/ジェルモン:ゲジム・ミシュケタ/フローラ:加賀ひとみ/ガストン子爵:金山京介/ドゥフォール男爵:成田博之/ドビニー侯爵:与那城 敬/医師グランヴィル:久保田真澄/アンニーナ:森山京子/ジュゼッペ:中川誠宏/使者:千葉裕一/フローラの召使い:上野裕之/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団 @新国立劇場オペラハウス

【14日(月)19:00 都響 #945 定演 ショスタコーヴィチ交響曲第13番変ロ短調《バービイ・ヤール》他/指揮:エリアフ・インバル独唱:妻屋秀和(Bs)/合唱:新国立劇場合唱団サントリーホール←追加(←「エリアフ・インバルは来日に向けた検査で新型コロナウィルスの陽性判定となり」「公演中止」「インバル氏は現在のところ特段の症状はなく、健康上の問題はないとのこと」3/9)

17日(木)13:30 文学座3月アトリエの会『コーヒーと恋愛』原作:獅子文六/脚色・演出:五戸真理枝/出演:原 康義 大原康裕 藤川三郎 沢田冬樹 西岡野人 山森大輔 釆澤靖起 本山可久子 吉野実紗 牧 紅葉/美術:乘峯雅寛/照明:阪 美和/音響:丸田裕也/衣裳:宮本宣子/舞台監督:寺田修/制作:友谷達之、田中雄一朗/助成:文化庁文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)/独立行政法人 日本芸術文化振興会信濃町文学座アトリエ

18日(金)18:30 劇団銅鑼 創立50周年記念公演 第1弾 No.56『泣くな研修医』原作:中山祐次郎(「泣くな研修医」幻冬社刊)/脚本:シライケイタ/演出:齊藤理恵子/[キャスト]横手寿男 鈴木正昭 館野元彦 庄崎真知子 野内貴之 鶴田尚子 池上礼朗 山形敏之 齋藤千裕 早坂聡美 大竹直哉 川口圭子 北畠愛美 宮﨑愛美 青木七海 齊藤美香・鈴木裕大/助成:文化庁文化芸術振興費補助金舞台芸術創造活動活性化事業)独立行政法人 日本芸術文化振興会/後援:一般社団法人 未来の会議 @東京芸術劇場シアターウエス

20日(日)13:05 映画『ハッピーアワー』(2015/317分)監督:濱口竜介/脚本:はたのこうぼう(高橋知由、野原位、濱口竜介/撮影:北川喜雄/照明:秋山恵二郎/録音:松野泉/音楽:阿部海太郎/出演:田中幸恵、菊池葉月、三原麻衣子、川村りら ほか @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

21日(月・祝)15:00 BCJ #147定演「バッハの誕生日を祝って」〈フランチェスコ・コルティ(チェンバロ)とドミニク・ヴェルナー(バス)は入国制限緩和の見通しが立たず出演を断念。ヴェルナーの代わりに加藤宏隆(バス)。さらに鈴木優人のオルガン独奏を加え曲目を一部変更〉S. バッハ:3 台のチェンバロのための協奏曲 第1番 ニ短調 BWV 1063/2 台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調 BWV 1060/3 台のチェンバロのための協奏曲 第2番 ハ長調 BWV 1064/プレリュードとフーガ ト短調 BWV 535*/カンタータ第30番《喜べ、贖われた者たちの群れよ》BWV 30/指揮:鈴木雅明チェンバロ鈴木雅明、鈴木優人、大塚直哉/ソプラノ:松井亜希/アルト:久保法之/テノール:櫻田 亮/バス:加藤宏隆/オルガン:鈴木優人*/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアル

【24日(木)10:50 ドキュメンタリー映画『なみのおと』(2011/142分)監督:濱口竜介、酒井 耕/撮影:北川喜雄/整音:黄永昌 @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

【24日(木)13:50 ドキュメンタリー映画『なみのこえ 気仙沼』(2013/109分)監督:濱口竜介、酒井 耕/実景撮影:北川喜雄/整音:黄永昌 @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

【24日(木)16:15 ドキュメンタリー映画『なみのこえ 新地町』(2013/103分)監督:濱口竜介、酒井 耕/実景撮影:北川喜雄/整音:鈴木昭彦BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

【24日(木)18:35 ドキュメンタリー映画『うたうひと』(2013/120分)監督:濱口竜介、酒井 耕/撮影:飯岡幸子、北川喜雄、佐々木靖之/整音:黄永昌 @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

【25日(金)13:30 映画『PASSION』(2008/115分)監督・脚本:濱口竜介/撮影:湯澤祐一/照明:佐々木靖之/録音:草刈悠子/編集:山本良子/出演:河井青葉、岡本竜汰、占部房子岡部尚、渋川清彦 ほか @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

【25日(金)16:00 映画〈中編三作〉『永遠に君を愛す』(2009/58分)監督:濱口竜介/脚本:渡辺裕子/撮影:青木 穣/照明:後閑健太/録音:金地宏晃、上條慎太郎/編集:山崎 梓/音楽:岡本英之/出演:河井青葉、杉山彦々、岡部 尚、菅野莉央、天光眞弓、小田 豊 ほか//『不気味なものの肌に触れる』(2013/54分)監督:濱口竜介/脚本:高橋知由/撮影:佐々木靖之/音響:黄 永昌/音楽:長嶌寛幸/振付:砂連尾理/出演:染谷将太、渋川清彦、石田法嗣、瀬戸夏実、村上 淳、河井青葉、水越朝弓 ほか//『天国はまだ遠い』(2016/38分)監督・脚本:濱口竜介/撮影:北川喜雄/録音:西垣太郎/整音:松野 泉/音楽:和田 春/出演:岡部 尚、小川あん、玄理 @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

【26日 土曜 14:00 スターダンサーズ・バレエ団「Dance Speaks 2022」『セレナーデ』振付:ジョージ・バランシン/音楽:P.I. チャイコフスキー “弦楽セレナーデ”/演出・振付指導: ベン・ヒューズ/特別録音による音源使用//『Malasangre』(日本初演、貞松・浜田バレエ団との共同制作作品)振付:カィェターノ・ソト/音楽:ラ・ルーペ/演出・振付指導:新井美紀子/特別録音による音源使用/出演:加地暢文 久野直哉 関口啓 冨岡玲美 フルフォード佳林 切通理夢* 名村空* 水城卓哉* 宮本萌*(*貞松・浜田バレエ団)//『緑のテーブル』台本・振付:クルト・ヨース/作曲:フリッツ・A・コーヘン/美術:ハイン・ヘックロス/マスク・照明:ハーマン・マーカード/舞台指導:ジャネット・ヴォンデルサール/舞台指導助手:クラウディオ・シェリーノ/照明再構成:ベリー・クラーセン/ピアノ:小池ちとせ、山内佑太//照明:足立 恒/舞台監督:森岡 肇/バレエ・ミストレス:小山恵美/総監督:小山久美 @東京芸術劇場プレイハウス】←追加

【27日(日)13:30 映画『親密さ』(2012/255分)監督・脚本:濱口竜介/舞台演出:平野 鈴/撮影:北川喜雄/編集:鈴木 宏/整音:黄永 昌/劇中歌:岡本英之/出演:平野 鈴、佐藤 亮、田山幹雄、伊藤綾子、手塚加奈子、新井 徹、菅井義久、香取あき ほか @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

【27日(日)18:30 映画『THE DEPTHS』(2010/121分)監督:濱口竜介/脚本:大浦光太、濱口竜介/撮影監督:ヤン・グニョン/照明:後閑健太/録音:金地宏晃/編集:山崎梓/音楽:長嶌寛幸/出演:キム・ミンジュン石田法嗣、パク・ソヒ、米村亮太朗村上淳 ほか @BUNKAMURA ル・シネマ】←追加

30日(水)17:00 東京春祭 ワーグナー・シリーズ vol.13《ローエングリン》全3幕(演奏会形式/字幕付)指揮:マレク・ヤノフスキローエングリンテノール):ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー/エルザ(ソプラノ):マリータ・ソルベルグ(健康上の理由により降板)→ヨハンニ・フォン・オオストラム/テルラムント(バス・バリトン):エギルス・シリンス/オルトルート(メゾ・ソプラノ):エレーナ・ツィトコーワ(「出演者の都合により」キャンセル 3/27)→アンナ・マリア・キウリ/ハインリヒ王(バス):タレク・ナズミ/王の伝令(バリトン):リヴュー・ホレンダー/ブラバントの貴族:大槻孝志、髙梨英次郎、後藤春馬、狩野賢一/小姓:斉藤園子、藤井玲南、郷家暁子、小林紗季子/管弦楽NHK交響楽団/合唱:東京オペラシンガーズ/合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩/音楽コーチ:トーマス・ラウスマン @東京文化会館 大ホール

【31日(木)19:00 芸劇リサイタル・シリーズ「VS」 Vol.2 山下洋輔 × 鈴木優人J.S.バッハ平均律クラヴィーア曲集より/コズマ:枯葉 */モーツァルト:ロンド イ短調 KV511 **/山下洋輔 オリジナル曲/ビル・エヴァンス:ワルツ・フォー・デビイ/ガーシュウィン:3つの前奏曲ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー/*山下Solo **鈴木Solo @東京芸術劇場コンサートホール】←3月4日の振替公演

[オペラ]新国立劇場オペラ 新制作《アルマゲドンの夢》2020(書きかけメモ)

昨日(2022.2.25)《アルマゲドンの夢》の無料配信を見た(配信は2月28日まで)。これを機に書きかけのメモを完成させるつもりだったが、ちょっと無理そう。続きは再演時に改めてトライしたい。とりあえずそのままアップする。

初日、3日目、楽日を観た(11月15日 ,21日 ,23日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

事前にH. G. ウェルズの原作短篇「世界最終戦争(ハルマゲドン)の夢」A Dream of Armageddon (1901) を読む。面白い!  まずはこの作品を選んだ藤倉大氏に感謝。もちろん彼に委嘱した大野和士氏にも。

まず原作を文学として味わった後、オペラの初日を観た。舞台は初めから終わりまで、原作を読んだ感触とは驚くほど異なっていた。

台本:ハリー・ロス(H. G. ウェルズの同名小説による)

作曲:藤倉 大

指揮:大野和士

演出:リディア・シュタイアー

美術:バルバラ・エーネス

衣裳:ウルズラ・クドルナ

照明:オラフ・フレーゼ

映像:クリストファー・コンデク

ドラマトゥルク:マウリス・レンハルト

[キャスト]

クーパー・ヒードン:ピーター・タンジッツ

フォートナム・ロスコー/ジョンソン・イーヴシャム:セス・カリコ

ベラ・ロッジア:ジェシカ・アゾーディ

インスペクター:加納悦子

歌手/冷笑者:望月哲也

兵士(ボーイソプラノ ソロ):原田倫太郎(11/15)長峯佑典(11/18, 21)関根佳都(11/23)

合唱:新国立劇場合唱団 

管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

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舞台は、とにかくヴィジュアル情報が多すぎて、ごちゃごちゃ感が半端ではない。そこに分け入ろうとした分、肝心の音楽がじっくり聴けなかった。少なくとも初日は。それでも、無意味と感じる響きは皆無で、いわゆる現代音楽っぽいスノッブな印象もない。演出のシュタイアーが言うとおりだ。いわく、藤倉の「音楽には正直さがあり、人々の感情に語りかける勇気がある」。他方、多くの同時代作曲家にとって「聴衆の心に語りかけることは必ずしも優先事項ではない」のだと。初日では、奇妙な感じのワルツや弦の深い響き、気持ち悪い「柳の歌」などが印象に残った。合唱のア・カペラで始まり、ラストがボーイソプラノのレクイエムで終わる。これもいいと思った。が、同時にいろいろ疑問も湧いた。

原作では、夢のなかのヒードンは社会的責任と個人的な幸福追求との間で葛藤し、後者を自己欺瞞的に固執したため破滅に至る。この葛藤が現実のクーパーにまで及んでいる点は興味深い。一方オペラでは、この葛藤がヒードン・クーパーとベラ・ロッジアの男女に分割され、ヒードンには名前が示す快楽(ギリシャhēdonē = pleasure)を、ベラには社会的コミットメントを体現させた。だが、初日の舞台からは、二人の葛藤・対立が印象に残らなかった。

電車内から夢の世界への移行はまずまずか。ただ、場面転換後、鏡、カーテン、映像等を駆使して夢の世界を作り出すが、夢の感触はあまりない。合唱に不気味な白い仮面(マスク)を被せ(たぶん感染防止機能を兼用)個人性を消して暴徒化させ、カリスマ的指導者イーヴシャムの扇動で戦争へと駆り立てられていく。この演出はよいと思う。

 だが、演出に関わる最大の疑問は、クーパーとベラ(特に前者)の人物造形にある。クーパーは電車内では挙動不審の神経症まがいだし、夢の世界では変態気味のどうしようもない男で、ダンスホールの仮面舞踏会(?)でイヒヒ笑いを気味悪く連発する。これではタガの外れた狂人にしか見えない。

原作では、平凡な事務弁護士のクーパーは、夢のなかでは人々から信頼される国の指導者ヒードンだ。オペラでは、現実(列車内)のクーパーと夢の中のヒードンを〝クーパー・ヒードン〟として合体させた。となれば、現実の車内も夢の中も「平凡な男」(藤倉)のキャラに変化はないはずだ。が、実際の舞台では、前記の通り、いずれの位相でも「平凡」とはとてもいえない造形が施されていた。

そもそも、電車内の現実から夢の世界へ転換する最初の「愛の場面」(新婚生活)を、なぜあのように俗悪化したのか。鏡の部屋にピンクの回転ベッドとピンクのネグリジェ姿のベラ…。これでは〝ピンクサロン〟の風俗嬢にしか見えない。ウェルズの原作ではどうか。この女性を列車内のクーパーは次のように描写する。

「きれいな白い首筋」「そこにたれている小さな巻き毛や白い肩」「優美な身体」「ゆるやかで流れるよう」な「衣装」。その顔は「絵にかくこともできる」ほどリアルだが、それでも「夢の中の顔なのです。彼女はきれいでした。聖者の美しさのように、きびしくひややかで、おごそかなものではなく、光かがやくような美しさで、やさしいくちびるは微笑にほころび、おちついた灰色の目をしていました。動作はしとやかで、楽しく優美なものをすべてそなえているように思われました——」(阿部知二訳)

オペラの女性演出家は、男が夢に描く優美でロマンティックな女性像を解体したかったのか。そんな女は男の勝手な幻想にすぎず、現実にはどこにも存在しないと。理想化されたイメージの批判は理解できる。その根拠が、原作にも見出せるから。問題はそのやり方だが、この点はあとで触れよう。

車内で本を読んでいたフォートナムが、突然、乗客の首を折り、転換する夢の場面へと移っていく。やがて、クーパーとベラが風呂で泡を立てるシーンをほくそ笑みながら眺めたのち、奥へ姿を消す。……ダンスホールのシーン。奇妙な衣装を着けた人々。仮面舞踏会なのか。歌手が台の上で歌う。インスペクター、イーヴシャムの演説。……

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「世界最終戦争の夢」が出たのは1901年だが、夢を「無意識の欲望の成就」と見なすフロイトの『夢解釈』(1900)とほぼ同時期なのは興味深い。ウェルズがフロイトを読んだと言いたいわけではない(後に交流はあったようだが)。ウェルズの本作は〝願望充足としての夢〟の枠に収まりきらない。そこに彼の非凡さがある。この作家は、男の夢を、夢のロマンティックな象徴とも言えるあの恋人を、無残なまでに引き裂いていた。この短篇で最も驚かされたのはこの結末だった。原作を見てみよう。

ラグビー駅で客車に乗ってきた青白い男が、語り手の「私」に話しかける。「私」がフォートナム・ロスコーの『夢の状態』を読んでいたからだ(オペラではクーパーと電車に乗り合わせた「私」をこの著者名にしている)。男は連続夢、すなわち〝連ドラ〟のように夜ごと続いてゆく夢の話をする。その夢の世界で打ち砕かれ殺されたと。妻子持ちで53歳の事務弁護士クーパーは、列車がロンドンに到着するまで、「私」を相手に、この夢について語る。この趣向は『タイム・マシン』(1895)や「塀についたドア」(1906)「妖精の国のスケルマーズデイル君」(1903)にも見出せる。ウェルズお得意の構成らしい。

この男クーパーは夢の中ではヒードン(快楽)といい、北の国で信頼の厚い指導者だった。だが、陰謀や裏切りに満ちた「政治芝居」に嫌気がさし、地位も名誉も捨てて、相愛の若い女性とカプリ島に来ている。夢のなかで初めて目覚めたとき彼は海を見下ろすロッジア(開廊/涼み廊)のような所に居た(オペラでの女性の名はベラ・ロッジア)。島に造られた未来の〝遊楽都市 pleasure city〟には大きな朝食室や移動式通路まである。二人が豪華なダンスホールで踊っていると、北の国の使者が来て国の混乱ぶりを伝え、彼に助けを求める。ヒードンが去ったあと二番手の愚かなイーヴシャムが権力を握り、脅迫的に侵略を仄めかし、戦争の脅威が高まっていると。ヒードンには、彼を阻止できるのは自分だけだと分かっている。同時にそれが彼女との離別を意味することも。ゆえに、彼は使者の依頼を拒絶する。不安な表情を見せる恋人に、ヒードンは言う。自分はこの愛の生活を選んだ、イーヴシャムとかたをつけるのは自分ではない、どのみち戦争は起こらない、と。こうして彼は彼女を偽り、自分を偽る。これに対し恋人は「でも戦争が——」と繰り返し、愛の生活を犠牲にしてでも彼に戻るべきことを訴える。

ここで注目すべきは、控えめで優美なこの女性が、ヒードン自身の抑え込まれた良心(義務感)を担わされている点だ。オペラでは無名の彼女にベラ・ロッジアの名を与え、革命の闘志に改変したのは、この良心を舞台で明確に造形化したかったためだろう。ただ、その人物像が判然としなかった。

ヒードンは、彼女の不安を払拭するため、グロッタ・デル・ボヴェ・マリノで水浴し、戯れる(この洞窟での遊楽はフロイト的な解釈ができそうだ)。

彼女は泣きながら「あなたが送ってらっしゃるこの生活は『死』です。あの人たちのところへおもどりなさい。あなたの義務へおもどりなさい」と勧める。だが、彼は「どんなことがあっても、わたしは北へもどらない。わたしはもう道を選びました。わたしは愛を選んだのだから、世界は亡びなければならない。……あなたのために生きるのです!……もしあなたが死んでも……そのときは——私も死にます」。このように、何度も「まだ手遅れではない」と思いつつ愛の生活を続けた結果、戦争を食い止めるチャンスを逸する。

耳障りな軍歌が繰り返されるなか、二人の逃亡が始まる。人々はイーヴシャムのバッジをつけている。彼女がバッジをつけていないのを見とがめ、罵る女。まさに戦時の同調圧力だ。二人は結局は逃げ切れず、恋人は古代の遺跡近くで戦闘機(war things)の最新兵器により射殺される。ヒードンは彼女の死体をパエストゥム神殿へ運ぶが、そこで彼も、「未知の言語」をしゃべる「黄色い顔」の制服を着た「小さい」男たちの隊長に剣で刺殺される(小心のくせにすぐ威張るこの隊長は後の日本軍人像そのもの)。

クーパーがこう語る頃、「ユーストン」の駅名が聞こえる。列車はロンドンの街に入ったのだ。自分が刺し殺された後のありようを彼はこう語る。「暗黒が、洪水のような暗黒が口をあけてひろがり、すべてのものを飲み込んでしまったのです」。

オペラのラストで再び電車内に戻ったクーパーが、車内販売のワゴンを押す少年に怯えながらこの言葉を歌ったと思う。その直後に彼は床に倒れ、少年がレクイエムを歌い、アーメンで幕となる。

だが、原作のラストはこうだ。

語り手の「私」がそれでお終いだったのか尋ねると、ためらいながら彼は言う、「わたしは彼女のもとへ行くことができませんでした。彼女は神殿のむこう側にいたのですが——それにそのとき——」/「それで?」とわたしは問いつめた。「それで?」/「悪夢です」と彼は叫んだ。「たしかに悪夢です! なんということでしょう! 大きな鳥が争って引き裂いていたのです Great birds that fought and tore.」

それ以前に、彼女が死んだ後、クーパーは現実に目覚め、また夢を見ると、彼女は「きみのわるい死体」となっていた。腐敗していたのだ。ウェルズは、それだけでは慊らず、彼女の死体を大きな鳥に引き裂かせた。鳥葬の言葉が浮かぶ。それとも供犠なのか。パエストゥムには、古代ギリシャの女神ヘラを祀った神殿の遺跡がある。ヘラはゼウスの妻で既婚女性の守護神だ。そこで恋人の死体が鳥に食われたとは皮肉である。だが、そもそもクーパーは戦闘機の編隊を鳥に喩えていた(「カモメかミヤマガラスかそれに似た鳥の大群のように」)。すると、著者は、彼女が戦争の最新兵器に切り裂かれたと示唆したかったのか。

いずれにせよ、ウェルズは、クーパーが見た夢を、ロマンティックな夢の純化された女性像を、人間が作った「ばかげだ」「戦争の道具」で破壊した。ここで本作が「アルマゲドンの夢」と名付けられた意味を問わねばならない。『ヨハネの黙示論』を読んでみると ……

 

……プログラムに掲載の「演出家ノート」の翻訳で「フォートナム・ロスコーは、ウェルズの物語に最初に登場する人物です」とあるが、原文を見ると the first person(43頁)だから「…ウェルズの物語では一人称の人物です」の勘違いだと思われる(17頁)。

 

新国立劇場演劇「コツコツプロジェクト 第二期」3rd 試演会『夜の道づれ』2022

「こつこつプロジェクト -ディベロップメント- 第二期」3rd試演会の『夜の道づれ』初日を観た(2月17日 木曜 19:00/新国立小劇場)。席は『テーバイ』同様、最前列のさらに左寄り。やはり近すぎ。感想メモをだらだら記す。

作:三好十郎/演出:柳沼昭徳

御橋次郎:石橋徹郎/熊丸信吉:日髙啓介(理由は不明だが当初の発表から変更)→チョウ ヨンホ/洋服の男+警官2:林田航平/警官1+復員服の男/中年の農夫:峰 一作/若い女+戦争未亡人:滝沢花野

f:id:mousike:20220218200545j:plain敗戦後の夜更けに甲州街道を歩く男(石橋)。彼は別の見知らぬ男(チョウ)と道づれになり、道中いろんな人間と出くわしながら、ひたすら歩き、語っていく。

見る前は、二人が歩き続ける行為をどう舞台化するのか興味津々だった。回り舞台? 違う。開演時には、すでに御橋役の石橋が舞台中央で自然木のステッキを握ったまま大の字に横たわっていた。別の役者が舞台より低いシモテの袖で床をドンと叩くと、石橋はビクッと動き、続く音に呼応して体を動かし立ち上がる。やおら膝を高く上げ、音に(が)合わせて地面をドシドシ踏み始めたのだ。何もない空間のあっちへ行ったりこっちへ来たり…。カミテの袖からも何かを叩く音がする。まるで歌舞伎の「ツケ」のよう。黒衣が役者の足取りに合わせてツケ板を木で打ちつける、あれ。もしかして石橋の最初の大仰な足取りは「飛び六方」を模したのか。そこへ後から歩く道づれ男(チョウ)の駒下駄音が加わる。こうした動きや不規則な拍子に、初めは違和感を覚えた。が、次第にこの奇妙なリズムに巻き込まれ、気がつくと舞台にすっかり惹き込まれていた。

二人の歩行と〝浮世話〟のリズムは、警官(林田航平・峰一作)や復員服の男(林田)や半裸の女(滝沢花野)などと遭遇しながら、続いていく。二人の素性は警官の誰何で明らかに。ステッキ男は著述業(劇作家)の御橋次郎 45歳。終電過ぎまで(たぶん新宿で)酒を飲み、歩いて上祖師谷の自宅へ帰るところ(三好十郎の自宅は赤堤にあった)。道づれは会社員の熊丸信吉で、御橋より若い。彼は背広にネクタイを締め下駄履きでリュックを背負い、手に花を持つ。なんとも奇妙な出で立ちだが、行き先を問われても要領を得ない。いわくありげの彼は後半、御橋にポツポツ語り出す。…会社の集金で歩き周って帰宅し、疲れからうたた寝した。が、目覚めると、妙な気持ちに襲われる。それは悲しさや寂しさの感情ではない。物質のように「ズーンと、この、死が、すぐそこに来た」という。異変に気づいた隣室の妻(邦子)が部屋へ入って来る。

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邦子はわけがわからず、心配して毛布をはがそうとします。はがされまいと僕は毛布にしがみついていたんです。……今、これをどけて家内の顔を見たら、そのトタンに自分は家内を殺す。しめ殺すかなんか、とにかく、必ずやるにちがいないと思つた……思つたんじやない、知つた——というか、ハッキリ、わかつた。家内だけでなく、子供もです。そのほか、母親だとか、とにかくそこらに居る人間を、みんな、虫けらをひねりつぶすように。……わかりますか? わからんでしよう? ……僕にもわからん。今でもわかりません。しかし、そうだつた。それにちがいなかつたんです。……(かすかにニヤリとしたように見える)……恐ろしくて——その自分が恐ろしくて恐ろしくて、しかたがなかつたんです。……それで、とにかく、どうにもしようがないもんですから、毛布の下から家内に、熱が出たらしいから、すまんけど、大急ぎで氷を買つて来てくれといい、邦子はブツブツいつていましたけど、しかたがないもんで、氷を買いに出て行きました。しかし、まだ隣の部屋に子供が寝ています。飛びあがつて、そちらへ行つて、いきなり馬乗りになつて、とんでもない事をやりそうなんです。とても、そうしては居れない。……そいで、このリュックと——壁にかかつていたのをそのまま——と、——机の上の花びんに差してあつたこの花を抜き取つたのが、どういう気持ちだつたか、それが、自分にもわからないんですがね。飛び出したんです。

『三好十郎作品集』第2巻、河出書房、1952年(初出「群像」1950年2月号)

熊丸信吉は、二年後の『冒した者』(1952)で造形される須永像の素描のように見えなくもない。須永は劇作家の「私」の家を来訪し、死んだ恋人の義父や実母や米屋の配達人を殺した経緯を淡々と伝え、最後は投身自殺する。須永には、すでに一線を越えた〝超然さ〟を感じるが、熊丸はまだそこまでいかない。彼は御橋の本をたまたま読んでおり、それをデタラメだといい、御橋が開陳する「人生論ダイゼスト」を自分には役に立たないと退ける。それはこの世に耐えて行くために必要な「防御のタテ」だが、自分は「耐えて行くのやめちまつた人間で」「そんなものに用がなくなつた」からと。つまり、須永も熊丸も、作者の分身の考えを撥ね返し相対化する点では共通している。

だが、熊丸の場合、危機の原因が敗戦で日本がガタガタになったせいではと問う御橋に、ほどなく納得してしまうのだ。たしかに近頃「日本人が一人残らずイヤでイヤでしようがなかつた」。みんな「きたならしい、道理の聞きわけのない、それで欲ばかり深くて」「踏みつぶしてやりたくなる。……ツバを吐きかけたくなる。……腹の底から軽蔑していましたね、なるほどいわれて見ると」。さらに自分自身も同じで憎悪の対象だと。このやりとりの前、路上で横たわるピー(売春婦)の髪を、彼は踏みつけた。さらに幕切れで、熊丸はリュックから短刀を取り出し、御橋に貰ってくださいと渡す。人を殺して自死するつもりだったのか。二年後の須永はそうするのだ。いずれにせよ、熊丸の危機は、御橋の言葉がかろうじて届く範囲にある。

一方、須永の場合、彼の殺人の動機や理由は、本人の口から言語化されるが、それは「私」の理解を超えている。というか、『冒した者』で、作者は熊丸の投げ込まれた現実より、さらにのっぴきならない〝現実〟に須永を追い込んだのだろう(モモちゃんに象徴される原爆投下や核の脅威等々)。

劇作家の御橋を演じた石橋は、道中の変化に富む動きや長いセリフを見事にこなした。さすがだと思う(石橋は『Hello〜ピンター作品6選』『月の獣』の舞台も忘れ難い)。熊丸役のチョウは代役らしいが、ベテランの石橋相手に、無意識の領域を感じさせる自然なからだと声が印象的。熊丸のとぼけた感じは多少見られたが、自身をもてあます男の〝不気味さ〟や〝気味の悪さ〟がさらに出ればよい。彼は研修生時代から結構見てきたが、今回、大きな成長を感じだ。御橋が熊丸との間に友愛を感じるシーンでは、感情が動いた。必ずしも三好が意図したものではないかもしれないが。脇の三人も舞台にしっかり貢献していた。

出番を待つ役者らが両袖で控え、黒衣としてツケ打ちしたり、着替えやメイキャップのさまを見せていた。簡素な舞台を観客の想像力で補完する手法か。長塚圭史演出の『浮標(ブイ)』(2011)や『冒した者』(2013)もそうだった。

舞台の前方に家並みのミニチュア(紙細工のような)を設置し、シモテで役者が針金かなにかで手繰るように左右に動かしていた。景色を動かすことで二人の歩行を表す意図なのか。ただ、動きが歩行とシンクロせず、何より最前列の左からだと、効果は分からなかった。

本作は、管見の限り、これまで上演されていないのではないか。ただひたすら歩く行為をどうするかがネックになるのだろう。柳沼氏の試みは、上記の通り、うまくいったと思う。二人のやりとりから、熊丸は御橋の推論に納得したように読めるが、そこに作劇上の妥協というか、不徹底のようなものを少し感じる。熊丸はこのあとどうするのだろうか。舞台では、最後に御橋が空のウィスキーボトルを熊丸が去った方へ投げつけると、時間差で天井から照明器具が落ちてきた。これはなんのオチなのか。

 

新国立劇場演劇「コツコツプロジェクト 第二期」3rd 試演会『テーバイ』2022

「こつこつプロジェクト-ディベロップメント-第二期」3rd 試演会の『テーバイ』を観た(2月16日 水曜 19:00/新国立小劇場)。抽選のため席は選べず最前列の左寄り。近い席は苦手だが面白かった。簡単にメモする。

構成・演出:船岩祐太/原作:ソフォクレス(『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』より)
クレオン:植本純米/アンティゴネ加藤理恵/男①+コロノスの男①+ハイモン:木戸邑弥/神官+コロノスの男②+番人①:國松 卓/イオカステ+イスメネ:小山あずさ/テイレシアス+羊飼+テセウス:成田 浬/オイディプス+評議会の男:西村壮悟/使者+コロノスの男③+ポリュネイケス+番人②+アテナイの使者:藤波瞬平

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ソフォクレスの『オイディプス王』(前428-25)、『コロノスのオイディプス』(前401)、『アンティゴネ』(前441-42)はそれぞれ独立した悲劇だが、この三作を現代化(等身大化)し、合理的に繋ぎ、2時間にうまくまとめている。衣裳は現代服で、セットは机、椅子、乳母車、車椅子など。かつてのシェイクスピア・シアター(ジャンジャン)やイングリッシュ・シェイクスピア・カンパニーの『薔薇戦争』(ボグダノフ&ペニントン)と似た感触があった。アリストテレスが原作から読み取った「カタルシス」はない。むしろ、権力者(クレオン)のあり方にフォーカスしていた。〝平凡な人間がいかにして権力者(独裁者)となるのか〟——とてもアクチュアルな問題だ。冒頭で、国を治める仕事に向いていないと呟くクレオンはアヌイ版『アンチゴーヌ』のそれに近い。その彼が、様々な契機や状況を経ることで自分が統治者として神々に選ばれたと思い込み、いつの間にか独裁者になる。幕切れで、アテナイテセウスからの使者がクレオンを訪ね、放置されたアルゴス兵士の亡骸を埋葬してほしい旨のメッセージを伝える。アルゴスの女(兵士の妻)たちがテセウスにそう嘆願したと。この遣り取りで、テセウスが神々ではなく、アテナイの民に選ばれた王であることが明らかになる*1。この挿話は、両者の統治者としての対照的なあり方を際立たせた。その後、クレオンが統治者としての所信原稿を練り上げ、それを民衆たち(死んだアンティゴネらも含まれる)に演説する印象的な場面で幕となる。セットはシンプルで演出も悪くない。ただ、要所でいわゆる〝聖歌〟のようなカタルシスっぽい合唱曲が流れる度に、少し違和感を覚えた。

クレオンの植本は前半は少しとぼけた演技で権力者にはほど遠い役作りだが、最後は役の一貫性を保ちつつ独裁者となる。見事。アンティゴネの加藤はアヌイ版とはまた別の、とても自然な造形で気に入った。ハイモンの木戸は父クレオンの臣下であり息子として、またアンティゴネを愛する若者として相反する役柄を説得的に演じた。テセウスの成田は強度の高いセリフ回しと存在感で舞台を引き締めた。オイディプスの西村は、冒頭の成り上がり青年社長然とした役作りは面白いが、セリフの意味が少し飲み込みづらい。
古典の現代化は、どうしても原作の大きさや人智を超えた領域(運命、神々)への開かれ方が、矮小化されがちとなる。それはやむを得ないか。
テイレシアス(盲目の予言者)の仮面は〝くちばしマスク〟のように見えた。17世紀ヨーロッパでペスト医師が被ったというあれ。その意図はなにか。当時の予言者はパンデミック下の医者に近い?
盲目の老父オイディプスを世話するアンティゴネ。禁令を破ってまで兄ポリュネイケスの遺体を埋葬するアンティゴネアンティゴネはケアする女性だった。個別に読んだときは気づかなかったが。三週間前、ケアする人/される人のありようを描いたともいえる野原 位(ただし)の映画『三度目の、正直』を見たせいかもしれない*2。コロナ禍で「ケア階級」(エッセンシャルワーカー)の重要性と評価の不当な低さが注目されたが、彼女/彼らを蔑ろにする社会の風潮は、今も昔も変わらない。

*1:アリストテレスによれば、アテナイの国政変革は「テセウスのとき起こったもので…国政は王政からやや離れた」という(『アテナイ人の国制』)。先の挿話はこれをフィクション化したものか。

*2:この映画には、少なくともケアする女性が二人(介護職の月島春・4歳の息子とラッパーの夫をケアする月島美香子)と男性が二人(母を介護した月島生人=樋口明・心療内科の野田宗一郎)登場する。

新国立劇場オペラ《さまよえるオランダ人》2022

さまよえるオランダ人》の初日と千穐楽を観た(1月16日 水曜 19:00,2月6日 日曜 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

指揮者のデスピノーサはN響12月定期の代役で初めて聴いた。力みがちな組曲展覧会の絵》をふっくらした音楽に仕上げたのが印象的。こういうタイプの指揮者は日本にほとんど居ない(みな総じて振りすぎる上、音の〝色合い〟や〝香り〟をさほど顧慮しない)。デスピノーサはゼンパーオーパー(先の新制作《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のセットはこの劇場を模したもの)のコンマス代理から指揮者になったと知りオペラも聴きたいと思った。すると《オランダ人》で即実現。まず初日から。

指揮:ジェームズ・コンロン(入国制限措置により降板 1/5→ガエターノ・デスピノーサ/演出:マティアス・フォン・シュテークマン/美術:堀尾幸男/衣裳:ひびのこづえ/照明:磯野 睦/再演演出:澤田康子/舞台監督:村田健輔/[キャスト]ダーラント:妻屋秀和/ゼンタ:マルティーナ・ヴェルシェンバッハ(同前)→田崎尚美/エリック:ラディスラフ・エルグル(同前)→城 宏憲/マリー:山下牧子/舵手:鈴木 准/オランダ人:エギルス・シリンス(スィリンシュ)(同前)→河野哲平/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団

歌手も三人が代役になった。序曲や第1幕はオケの調子(特に金管)がいまひとつで、さほどワーグナーらしく響かない。やはりイタリア人指揮者には「合ってないのか」と思いきや(じゃあ日本人は…)、第2幕以降は歌手もオケもよくなった。

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第1幕は、ノルウェー船の甲板がシモテからカミテへ平行移動で現れる。そこで船員らが組み体操のように隊列を組むと、シャツの絵柄がジグソーパズル式に合わさり船の甲板が現出する仕掛け(衣裳:ひびのこずえ)。ただ今回は感染防止のためだろう、密に組めずはっきりしなかった(仕方ない)。第2幕では、娘らが糸車で糸を紡ぐ部屋が、第1幕同様、シモテからスライドして来る。とりわけ奥に設えたゼンタの糸車(spinning wheel)は舵輪(steering wheel)に見えるから面白い。男女の社会的な役割を視覚的に相対化させる趣向か(糸車を見るとウィーン・フォルクスオーパが2008年に上演したフロトーの《マルタ》(1847)を思い出す。第2幕で庶民に変装したハリエット(マルタ)が糸車の廻し方を教えられる場面だ。ここで歌われるのが例の「夏の名残のばら」(庭の千草)。ちなみにワーグナー(1813-83)とフリードリヒ・フォン・フロトー(1812-83)は一つ違いで没年は同じ)。

歌手で光ったのはゼンタ役の田崎尚美。田崎ゼンタはオランダ人だけでなく、公演そのものを「救済」した。頬が緩んだのは彼女の歌唱だけ。特に「ゼンタのバラード」は素晴らしかった。劇場の隅々まで響き渡る強音は圧倒的。ただ、初日はピウ・レントの弱音で「救済」を祈るフレーズにもっと表情や艶が出ればと感じた(が、楽日ではほぼ改善されていた。やはり初日の緊張は想像以上らしい)。

オランダ人の河野鉄平は難しい役を好演したと思う。ただ、時に動きが誇張的で多少コミカルに見える。ヴォータンから突然(ユダヤ人を模したともいわれる)アルベリヒやベックメッサーが顔を出す感じ。もっとゆったり動けばオランダ人の〝化け物性〟が出たかもしれない。それとも「さまよえる(永遠の)ユダヤ人」を意識した造形なのか(磔刑への途上にあるイエスを嘲笑したため、呪われて再臨の日まで地をさまようというユダヤ人伝説)。

ダーラントの妻屋秀和は声がよく出るし演技もこなれ安定している。ただ歌唱も演技もやや真っ直ぐすぎる印象も。

エリックの城宏憲ベルカントの感触をよく出していたが、ドイツ語の発音が少し気になった。

マリー役の山下牧子は、こくのある歌声と落ち着いた演技で舞台を引き締めた。

第3幕のラストでゼンタ自身が船に乗り込み、もろとも沈んでいく。すると、陸に残ったオランダ人は次第に苦しみ(喜びのうちに)死んでいき、幕となる。

だが、ワーグナーの台本では、ゼンタが岩礁から海に身を投げると「ものすごい音を立てて、オランダ人の船が沈没する」。やがて、水面から現れた岩礁の上で「ゼンタがオランダ人を抱き起こし、胸に抱きしめ、視線と片方の手で天を示す。その岩礁は音もなくどんどん立ち上がり、いつの間にか、雲の形となる。最後の3小節で、幕がさっと下りる」(井形ちづる訳)。

まるで昨秋の新制作バレエ『白鳥の湖』(1877初演/1895蘇演)の幕切れみたいだ。『白鳥』では、オデットとの永遠の愛の誓を我知らず破ったジークフリードは、湖に身を投げたオデットの後から、自分も身を投げる。すると、抱き合う二人の姿が彼方に現れる。《オランダ人》(1843)とは男女が逆だし、状況も異なるが、愛の誓いや入水自殺が絡む点は共通している。そもそもチャイコフスキーは、このバレエ音楽の主要動機を《ローエングリン》(1850)の「禁断の問い」から着想したのではなかったか。ジークフリードの名も《指環》の英雄と同じことを思えば、両者の浅からぬ関係が見て取れる。

初日の後、デスピノーサのインタビュー動画を見た。序曲のカット(知らなかった)について演出家とオンラインで遣り取りし復元した経緯や、この期のワーグナーベルカントなどイタリアオペラの影響が強い等々、知的にドイツ語で語るのを聞いた。なるほど、円熟期のいわゆるワーグナー的響きを本作に求めるのはアナクロだった。無性に公演を観(聴き)直したくなり、楽日の3階席を入手(その翌日はデスピノーサが連続で振る《愛の妙薬》の初日)。

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楽日は、マリー役の山下牧子が(ひとつ前の2月2日から)「都合により出演できなくなり」同役を金子美香が歌唱を、再演演出の澤田康子が演技を務めた。《カルメン》初日(2021.7.3)と同じ状況。澤田の演技は見事で乳母そのもの。ただ金子はシモテの袖(客席からは見えない)で歌ったせいか、歌声がやや細めで本体(澤田)に見合わず(失礼)。他は基本的には初日と変わらない。序曲は初日よりまとまりはあった。ただ、オケはホルンやトランペット(トップ以外)のソロが不安定。弦の中低音は悪くないが、ヴァイオリン群がいまひとつの印象だった。《愛の妙薬》との連続上演が影響したのか。それから、第3幕だったか、舵手の鈴木准が他の船員たちに遊びで小突かれるシーンは、初日と違い、鈴木以外マスクを付けていた(感染力の強いオミクロン株への用心だろう)。