新国立劇場演劇「コツコツプロジェクト 第二期」3rd 試演会『テーバイ』2022

「こつこつプロジェクト-ディベロップメント-第二期」3rd 試演会の『テーバイ』を観た(2月16日 水曜 19:00/新国立小劇場)。抽選のため席は選べず最前列の左寄り。近い席は苦手だが面白かった。簡単にメモする。

構成・演出:船岩祐太/原作:ソフォクレス(『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』より)
クレオン:植本純米/アンティゴネ加藤理恵/男①+コロノスの男①+ハイモン:木戸邑弥/神官+コロノスの男②+番人①:國松 卓/イオカステ+イスメネ:小山あずさ/テイレシアス+羊飼+テセウス:成田 浬/オイディプス+評議会の男:西村壮悟/使者+コロノスの男③+ポリュネイケス+番人②+アテナイの使者:藤波瞬平

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ソフォクレスの『オイディプス王』(前428-25)、『コロノスのオイディプス』(前401)、『アンティゴネ』(前441-42)はそれぞれ独立した悲劇だが、この三作を現代化(等身大化)し、合理的に繋ぎ、2時間にうまくまとめている。衣裳は現代服で、セットは机、椅子、乳母車、車椅子など。かつてのシェイクスピア・シアター(ジャンジャン)やイングリッシュ・シェイクスピア・カンパニーの『薔薇戦争』(ボグダノフ&ペニントン)と似た感触があった。アリストテレスが原作から読み取った「カタルシス」はない。むしろ、権力者(クレオン)のあり方にフォーカスしていた。〝平凡な人間がいかにして権力者(独裁者)となるのか〟——とてもアクチュアルな問題だ。冒頭で、国を治める仕事に向いていないと呟くクレオンはアヌイ版『アンチゴーヌ』のそれに近い。その彼が、様々な契機や状況を経ることで自分が統治者として神々に選ばれたと思い込み、いつの間にか独裁者になる。幕切れで、アテナイテセウスからの使者がクレオンを訪ね、放置されたアルゴス兵士の亡骸を埋葬してほしい旨のメッセージを伝える。アルゴスの女(兵士の妻)たちがテセウスにそう嘆願したと。この遣り取りで、テセウスが神々ではなく、アテナイの民に選ばれた王であることが明らかになる*1。この挿話は、両者の統治者としての対照的なあり方を際立たせた。その後、クレオンが統治者としての所信原稿を練り上げ、それを民衆たち(死んだアンティゴネらも含まれる)に演説する印象的な場面で幕となる。セットはシンプルで演出も悪くない。ただ、要所でいわゆる〝聖歌〟のようなカタルシスっぽい合唱曲が流れる度に、少し違和感を覚えた。

クレオンの植本は前半は少しとぼけた演技で権力者にはほど遠い役作りだが、最後は役の一貫性を保ちつつ独裁者となる。見事。アンティゴネの加藤はアヌイ版とはまた別の、とても自然な造形で気に入った。ハイモンの木戸は父クレオンの臣下であり息子として、またアンティゴネを愛する若者として相反する役柄を説得的に演じた。テセウスの成田は強度の高いセリフ回しと存在感で舞台を引き締めた。オイディプスの西村は、冒頭の成り上がり青年社長然とした役作りは面白いが、セリフの意味が少し飲み込みづらい。
古典の現代化は、どうしても原作の大きさや人智を超えた領域(運命、神々)への開かれ方が、矮小化されがちとなる。それはやむを得ないか。
テイレシアス(盲目の予言者)の仮面は〝くちばしマスク〟のように見えた。17世紀ヨーロッパでペスト医師が被ったというあれ。その意図はなにか。当時の予言者はパンデミック下の医者に近い?
盲目の老父オイディプスを世話するアンティゴネ。禁令を破ってまで兄ポリュネイケスの遺体を埋葬するアンティゴネアンティゴネはケアする女性だった。個別に読んだときは気づかなかったが。三週間前、ケアする人/される人のありようを描いたともいえる野原 位(ただし)の映画『三度目の、正直』を見たせいかもしれない*2。コロナ禍で「ケア階級」(エッセンシャルワーカー)の重要性と評価の不当な低さが注目されたが、彼女/彼らを蔑ろにする社会の風潮は、今も昔も変わらない。

*1:アリストテレスによれば、アテナイの国政変革は「テセウスのとき起こったもので…国政は王政からやや離れた」という(『アテナイ人の国制』)。先の挿話はこれをフィクション化したものか。

*2:この映画には、少なくともケアする女性が二人(介護職の月島春・4歳の息子とラッパーの夫をケアする月島美香子)と男性が二人(母を介護した月島生人=樋口明・心療内科の野田宗一郎)登場する。