パルコ・プロデュース2018『アンチゴーヌ』/圧倒的な舞台

アヌイの『アンチゴーヌ』を観た(1月14日 13:00/新国立小劇場)。
近年稀に見る圧倒的な舞台。出演者の演技はみな質が高く、特にアンチゴーヌの蒼井優は歴史に残る名演を見せた。
栗山民也は新国立劇場の研修所長時代に修了公演で本作を上演している(2015年1月/リハーサル室 第8期生終了公演)。第4期生の試演会で取り上げた『マニラ瑞穂記』(2011年1月)も数年後、プロの俳優で再上演した(2014年4月)。いずれも演出のコンセプトやセット等は初回と再演でほぼ同じに見えたが、『マニラ』の場合、よくなったとは必ずしも言えない(上記ブログ参照)。だが、今回は違う。優れた台本・演出の下、選りすぐりの役者らが適材適所にキャスティングされ(これがいかに重要か)、本気で役を生きると、奇跡的な舞台が生み出される。その証しのような公演だった。

【作】ジャン・アヌイ
【翻訳】岩切正一郎
【演出】栗山民也
【出演】
アンチゴーヌ:蒼井 優 クレオン:生瀬勝久 乳母/コロスB:梅沢昌代 イスメーヌ/コロスC:伊勢佳世 衛兵:佐藤 誓 エモン/第二の衛兵:渋谷謙人 伝令/第三の衛兵:富岡晃一郎 プロローグ/コロスA:高橋紀恵 小姓:塚瀬香名子
【スタッフ】
美術:伊藤雅子 照明:服部 基 音楽:国広和毅 音響:井上正弘 衣裳:西原梨恵 ヘアメイク:鎌田直樹
演出助手:坪井彰宏 舞台監督:藤崎 遊
宣伝美術:榎本太郎 宣伝写真:尾嶝 太 宣伝スタイリスト:安野とも子 宣伝ヘアメイク:CHIHIRO 宣伝:る・ひまわり
プロデューサー:佐藤 玄・今 絵里子 制作:冨士田 卓・山家かおり 製作:井上 肇
企画・製作:株式会社パル

3年前のリハーサル室が今回は小劇場に変わったが、セットの形はほぼ同じ。花道のような白く細長い通路が十字に交差した舞台である。より長い舞台(通路)の一方に肘掛け椅子(玉座)が、反対側に質素な椅子が置かれ(こっちがカミテらしい)、十字の四つの空所に長い通路を両側から挟むかたちで客席が5列ずつ設置されている。購入時に席は選べず、玉座を左に見たカミテ手前1列目(C1)の右端(14番)で観た。いつもは終演直後にメモを記すが、今回それがほとんどできない。舞台で何が起きたのか、相対(俯瞰)的に振り返るのが難しい。客席が演劇空間に食い込んでいたからか。同型セットの修了公演ではさほどでもなかったが。たぶん役者たちが創り出すドラマの密度の濃さと〝内側〟で体験させる演出コンセプト等が相乗した結果、遠近感が曖昧になり、全体像を整然と再構成しにくくなったのかも知れない。そこで、記憶に残った箇所などを断片的にメモする。
要所でヘリコプターの音とシャンソンの歌声が微かに聞こえてくる。冒頭の、アンチゴーヌが法を犯して兄の埋葬を決断し、大地(十字路の交差地点)におもちゃのスコップを突き刺す時。さらに、後半の、クレオンから兄たちの醜い事実(楽屋裏/台所)を聞かされ、一旦は悲劇の役を降りたかに見えた言動ののち、クレオンの語る平凡な幸福論を契機に再び対決姿勢を露わにする条りで。戦争(ヘリ)と文化(シャンソン)。このアヌイの翻案はナチス・ドイツによる占領下のフランスで1942年に執筆され、44年2月に初演された。上記の音は、本作が生み出されたあの危機的な時代を想起させる。が、それだけではない。この娘に生死を睹した選択を迫るのは、叔父で国王のクレオン(が発した埋葬禁止令)ではなく、戦争そのものではないのか。クレオンも戦争が作り出した脇役にすぎないのではないか等々・・・。
アンチゴーヌが十字路の交差点に〝掘られた〟墓穴に入るとき、蒼井は至福とも恍惚ともとれる表情を見せた。クレオンが説くありきたりの幸福を拒絶したエディプス王の娘。その最後の境地か。だが、その直前、衛兵に婚約者エモン(クレオンの息子)への手紙文を口述する条りで、死への恐怖が垣間見える。結局この箇所は本人によって取り消されるが。「誰も知らないほうがいいんだわ。まるで裸を見られるよう、死んでしまってから身体にさわられるような気持ちだわ」(岩切正一郎の新訳は未刊のため以下も芥川比呂志訳)。衛兵(佐藤誓)との遣り取りは、場面の深刻さとは裏腹にコミカルに描かれている。ここはもっと笑いがあってもよいかも知れない。だが、佐藤は、笑いを取るより、衛兵という身分のリアルな造形を優先していた。そう見えた。衛兵の(貧しい)生活が目の前に居る王の姪(アンチゴーヌ)などとはいかにかけ離れているか。
最初の姉妹の対話で、イスメーネ(伊勢佳世)はアンチゴーヌ(蒼井優)の「美しさ」を次のように言う。

イスメーネ あなたの幸福はすぐ目の前にあるの、後はそれを手に入れるだけ。あなたは婚約者よ、若いのよ、美しいのよ……
アンチゴーヌ (低く)ちっとも美しくなんかない。
イスメーネ 私たちとはまた違った美しさがあるのよ。町を歩くと小さな男の子たちがふりかえるのをよく知っているくせに。女の子たちだって、急に黙りこんで、あなたの姿が曲がり角へ消えるまで見送っているじゃないの。
アンチゴーヌ (かすかな微笑をうかべ)子どもたち……

怜悧で美しい伊勢と実存的な魅力を放つ蒼井。ぴったりだ。この遣り取りが、あとまで心に残った。結局、アンチゴーヌはエモンとの「幸福」を退け、イスメーネたちとは「違った美しさ」を、大人には捉えられないが「子どもたち」には瞬時に分かる「美しさ」を保ったまま死んでいく。姉と妹をソポクレスとは逆にしたのは、この「美しさ」と関係があるかも知れない。
クレオン役の生瀬勝久は、なんというか、面白かった。もちろん、クレオンに冗談やギャグを発する箇所など一切ない。が、深刻な台詞を立て続けに吐いたあと、一瞬、その台詞にツッコミを入れるのではないかと期待してしまう。こうしたことが何度かあり、変な面白さを味わった。穴のなかでアンチゴーヌがみずから帯で首を締めて死んだ後、息子のエモンも剣で自死、さらに、息子の死を知ったユーリディス(クレオンの妻)までも喉を刺して死んだことが伝令(富岡晃一郎)やコロスによって知らされる。クレオンの覚悟していたような静かな反応。「あれもそうか。みんな眠っているのだ。それでよい。ひどい一日だった。(間、低い声で)気持ちがいいだろう。眠るのは」。台詞を読むと、いまなお生瀬の声が聞こえてくる。血の通った、ある意味ヒューマンなクレオン。「一人きり」のクレオンに寄り添う小姓(塚瀬香名子)。

クレオ [・・・]誰にも分からないのだ。仕事を目の前にひかえて、腕をこまねいているわけにはゆかないじゃないか。みんなけがらわしい仕事だというが、もし私がそれをやらなかったら、いったい誰がするのだね。[・・・]お前早くおとなになりたいか。
小姓 はい、とても!
クレオ ばかだなお前は。おとなになんかなるものじゅない。(遠くで時計が鳴る。かれはつぶやく)五時。今日は五時から何があったかな。
小姓 閣議でございます。
クレオ そうか。閣議があるなら、出かけていこう。さあ。
(彼は小姓にもたれながら出て行く)

ジョージ・スタイナーによれば、ソポクレスのクレオンは幕切れで「獣のような孤独に委ねられる」が、アヌイでは、上記のようにクレオンが小姓にすがって退場する。この点はたしかに大きな違いだ。ゆえに、「クレオンの孤独地獄が破れただけでなく、子供との触れ合いによって、より広い人生への復帰が暗示されるのは避けられない」。このような「場面のおかげでドイツ軍の検閲を通り、上演を許可されたのではなかろうか」と(『アンチゴネーの変貌』海老根宏・山本史郎訳)。3年前も触れたが、アヌイの翻案ではクレオンの内側がかなり入念に書き込まれている。また、大人と子供、社会(国家)と個人の対立が強調され、それがここでも確認できる。
プロローグとコロスAを演じた高橋紀恵は台詞のみならず存在自体に強さや揺るぎなさが漲っていた。乳母とコロスBを担った梅沢昌代はアンチゴーヌを幼児から育てた関係を一瞬で舞台に創り出す。エモン/第二の衛兵役の渋谷謙人も確実に役をこなした。イスメーヌの伊勢佳世はコロスCも担う贅沢さ。本公演は演劇賞を取るだろう。記憶に残る素晴らしい舞台だった。