オフィスコットーネプロデュース『兵卒タナカ』2024

『兵卒タナカ』の初日を観た(2月3日 土曜 18:00/吉祥寺シアター)。

作:ゲオルク・カイザー(1878-1945)/翻訳:岩淵達治/演出:五戸真理枝(文学座)/企画:綿貫 凜/美術:池田ともゆ/照明:松本大介(松本デザイン室)/音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)/衣裳:加納豊美(アトリエ・DIG)/振付:永野百合子(妖精大図鑑)/舞台監督:尾花 真(青年座)/演出助手:城田美樹/ドラマトゥルク:木内 希/宣伝美術:郡司龍彦/宣伝写真:杉能信介/Web 製作:木村友彦/制作:落合直子 小野塚 央 大友 泉/制作デスク:津吹由美子/制作協力:J-Stage Navi/主催:(有) オフィスコットーネ/提携:公益財団法人武蔵野文化生涯学習事業団/助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)/独立行政法人日本芸術文化振興会/協力:アルファエージェンシー/オフィス PSC/エンパシィ/劇団道学先生/劇団離風霊船/青年座映画放送/文学座/妖精大図鑑/ワタナベエンターテインメント

1940年にこんな〝戦争劇〟が書かれていたとは。カイザーは「上官を告発しないビュヒナーのヴォイツェクに対して、タナカは事件を起こし、制度を告発する」、その意味で本作は「『ヴォイツェク』以上の作品であると豪語した」らしい(新野守広/プログラム)。なるほど。ラストの五戸演出は、現在の日本をも痛烈に照射/批評していた。以下、ダラダラと感想をメモする。ネタバレがあるので注意。

[配役]タナカ:平埜生成/村人&ヨシコ:瀬戸さおり/タナカの父&妓楼の玄関番&弁護官:朝倉伸二/田中の母&女将:かんのひとみ(劇団道学先生)/ワダ&陪審判士Ⅱ:渡邊りょう/村人&下士官&裁判長:土屋佑壱/タナカの祖父&陪審判士Ⅰ:名取幸政(青年座)/村人&第二の士官&書記:村上 佳(文学座)/村人&第三の士官&衛兵:比嘉崇貴(文学座)/村人&第一の士官/衛兵:須賀田敬右(青年座)/村人&第四の士官&他:澁谷凜音(青年座)/村人&芸妓:永野百合子(妖精大図鑑)/村人&他:宮島 健

舞台には段差のある方形の台が中央に設えられ、上方にはバランスボール大の球体が不気味に吊されている。

冒頭で生成り襤褸を身につけた男女が亡霊のように登場。上から降りてきた球体に手を伸ばし、みな我先に縋り付く。音楽は笙を使った雅楽風だが、背後にグレゴリオ聖歌「怒りの日 Dies Irae」らしき男声合唱が微かに聞こえた。

第1幕は兵卒タナカ(平埜生成)が戦友ワダ(渡邊りょう)を連れ、故郷の農家に帰還する。戦友を連れ帰ったのは妹を嫁にやるためだが、家には不在。山向こうの豪農へ手伝いに行ったと、親は表情を変えずに言う。村の飢饉を新聞で知ったタナカらは、家族のために魚の干物や焼酎などを鞄に入れてきた。が父母は息子をもてなす旨酒や生魚や煙草などを用意しており、驚く息子に、貯めた金で買ったと無頓着。お相伴にあずかりにきた亡霊のような村人たちに、持参の焼酎や魚を分け与えるタナカと戦友。両親の語りは狂言のような趣があった。

第2幕は妓楼の場。タナカやワダを含む兵卒たちが妓楼の門を叩く。玄関番と女将はタナカの両親と同じ役者だが、この効果については後ほど。女将の指示で障子戸から芸妓が一人ずつ現れ、歌い踊る。喜ぶ兵卒らは〝コイントス〟で誰が座敷に上がるか決めていく。以下これが繰り返されるが、同じ芸妓(永野百合子)が複数回登場。永野はダンサー兼振付家だけに日本舞踊もダンスも見応えあり。やがてタナカが最後に残り、現れたのは、予想通り、妹ヨシコ(瀬戸さおり)だ。真相を語る妹。女なら誰でもよいわけではないの、と少し自慢げ。帰郷時の豪勢な歓待は、飢饉や災害で膨らんだ借金の返済に妹を売った金が元手だった。愕然とする兄。再度、妓楼の門を叩く音。下士官だ。女(妹)を上官へ譲れと玄関番に迫られ、ふたり隠れる。が、タナカは妹を刺し殺し、下士官も殺してしまう。下士官ウメズ役の土屋佑壱は明朗かつ自在な発話と運動神経のよさで魅せた。

第3幕軍法会議の場。裁判官は下士官ウメズの土屋。弁護官はタナカの父と妓楼の玄関番を演じた朝倉伸二。後ろに控える陪席判士Ⅰはタナカ祖父の名取幸政、判士Ⅱは戦友ワダの渡邊。これらの一人二役(三役)も後述。会議前半は、タナカの犯行動機をあれこれ探る土屋裁判官の独壇場。彼は色恋沙汰など週刊誌が飛びつきそうな推理をコミカルに展開する。シモテ後方で妓楼の女将や芸妓らも聞いているが、たぶん戯曲にその指示はないだろう。タナカが真実を語るシーンに殺された妹が登場するのも、五戸がよくやる手法(2019年の『どん底』や2022年の『貴婦人の来訪』もそうだった)。人払い後も黙秘を続けるタナカに、業を煮やした書記(村上佳?)がエレキギターを取り出しガンガン弾き始める(五戸演出『コーヒーと恋愛』は生ギターだった)。ついにタナカが真実を述べるくだりに。先立つ笑いやエレキの効果が、より粛然とこの場面にフォーカスさせた。判決は、もちろん死刑。ただし、救われる道が一つある、と裁判官。それは、みずから陛下に嘆願を申し出ること、と。これにタナカは、陛下こそ自分に赦しを乞うべきだと応じる。農民たちはどんなに凶作が続いても税を納めねばならない。兵士や士官の上等の制服も天皇が閲兵する観兵式の費用も、すべて農民(国民)から吸い上げた税で賄われる。つまり、自分の娘を女衒に売らねば生きていけない理不尽の淵源は、この制度であり、その頂点に陛下が居る。この仕組みさえなければ、妹が妓楼で働く必要も、いわんや自分が妹を殺し、上官を殺すこともなかった。ゆえに、タナカは「陛下があやまるべきであります」と言明するのだ。無論こんな訴えが受け入れられるはずもない。続く処刑の場では、後方から銃を持つ農民たちが現れ、銃を有する軍人ではなく、他ならぬ農民たち自身が前方に立つタナカに銃口を向け、暗転して幕となる。幕切れの音楽は雅楽なしで「怒りの日」だけが響く。

ラストシーンの演出は初めピンと来なかったが、あとで腑に落ちた。むしろ今の日本の絶望的状況がまざまざと浮かんだから。自分(国民/農民)たちを苦しめる制度とそれを改善(改革)しない元凶(政府/天皇)を正当にも批判する個人が、まさにその被害者たちによって攻撃され叩き潰される。ネットでは、今日も同じ愚行が繰り返されているだろう。タナカを処刑するのは、苦境にあえぐ農民たち自身であり、そこには彼の家族や同僚たち等々が含まれる。一人二役三役にしたのは、効率性もあろうが、盲目的にあの制度を支える〝群れ〟と、制度を告発する〝個人〟との対照性を際立たせるためではないか。見事な演出だと思う。

とすれば、吊るされたあの球体は、冒頭の雅楽を含め、天皇を象徴するのかもしれない。その背後で響いた「怒りの日」はどうか。この音楽(詩)は、終末思想と結びついており、趣旨は、世界が灰燼に帰し、審判者(キリスト)が現れてすべてが正しく裁かれる、その日こそ「怒りの日」だと。裁くといえば、第3幕の軍法会議で裁判官がタナカを裁いた。だが、たとえば『ヨハネの黙示録』に結実する終末論が広がった背景には、ローマ帝国によるキリスト教への迫害があった。つまり、タナカを追い込んだ農民の迫害(苦境)こそ「怒りの日」を待望させる土壌でありドライブだった。とすれば、天皇(吊るされた球体)の崇拝(雅楽)が皮肉にもみずからを苦しめる制度の維持・強化に直結し、結局、すべてをシャッフルしてまっとうな世の中に作り直す契機(怒りの日)を待ち望むことになる。幕切れで再度流れた「怒りの日」は、あの裁判が不当であり、真に裁かれるべきは、裁判官のみならず、天皇を崇め、先の制度を盲目的に支持する者たちの方である、そう告げていたのではないか。

戯曲が読みたくなった。