新国立劇場オペラ《トリスタンとイゾルデ》2024

《トリスタンとイゾルテ》の初日を見た(3月14日 木曜 16:00 /新国立劇場オペラハウス)。

大野指揮の都響はクリアで整った響き。変更された題名役二人は歌唱・外見とも(よくいえば)素朴で古風な趣きがあった。つまりはオペラの〝美食性〟(ブレヒト)が少なからず抑制された印象をもったのだが、その分、本作の生地が見えやすく、美点をよく味わえたと思う。

これまで聴いた《トリスタン》全幕はバレンボイム指揮のベルリン国立歌劇場(07年 NHK)、ビシュコフパリオペラ座(08年 オーチャード)、本プロ初演の大野+東フィル(10年)、アルミンク=新日本フィル定期の演奏会形式(11年 トリフォニー)。いずれもヴァーグナーの〝陶酔的快感〟を享受しようと待ち構えていた感が無きにしも非ずだ(ベルリン国立やパリオペなどチケット代が半端ではなかったし)。

今回は個々の歌手ではなく、作品について気づいたことをいくつかメモしたい。

全3幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉台本・作曲:リヒャルト・ヴァーグナー/指揮:大野和士/演出:デイヴィッド・マクヴィカー/美術・衣裳:ロバート・ジョーンズ/照明:ポール・コンスタブル/振付:アンドリュー・ジョージ/再演演出:三浦安浩/舞台監督:須藤清香

[キャスト]トリスタン:トリスタン・ケール(急病のため降板)ゾルターン・ニャリ/マルケ王:ヴィルヘルム・シュヴィングハマー/イゾルデ:エヴァ=マリア・ヴェストブルック(本人都合により降板)→リエネ・キンチャ/クルヴェナール:エギルス・シリンス/メロート:秋谷直之/ブランゲーネ:藤村実穂子/牧童:青地英幸/舵取り:駒田敏章/若い船乗りの声:村上公太

合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽東京都交響楽団

協力:日本ワーグナー協会

演出マクヴィカーと美術ジョーンズの舞台はいたってシンプル。暗闇に大きな月が昇り、やがて沈む。まるでトリスタンとイゾルデの生と死を見守るかのよう。

ブランゲーネ(藤村)とイゾルデ(キンチャ)のやりとりが大半の第1幕だが、長く感じない。幕切れ近く、題名役二人が毒薬だと思い飲んだのはじつは媚薬…。その後、二人はただ相手の名を呼びあう。どんな言葉よりも雄弁な固有名。単純だけど究極の〝愛の表明〟にグッときた。

第2幕「昼」を忍ぶ二人は「夜」逢い引きする。現場を押さえたマルケ王(シュヴィングハマー)の長い嘆きの後、トリスタン(ニャリ)がイゾルデに「夜の国」へ「母が私を世に送り出した所」へ誘うくだりは、とても印象的で聞かせた。《ヴァルキューレ》第2幕を想起。ブリュンヒルデジークムントにヴァルハラへ誘う4場だ。男女が逆だしブリュンヒルデは人間ではないが、死の世界へ勧誘する点は同じ。「母が私を世に送り出した所」云々は、なぜそれが「死の世界」と同一視されるのか疑問に思う。ヴァーグナーが大半を端折った中世の『トリスタン物語』では、マルケ王の妹ブランシェフルールが愛する騎士リヴァリーンとの子を身籠るが、夫の戦死を知った彼女は苦悶の果てに男児を産み落とし、死ぬ。この子がトリスタン(悲しみの子)と名付けられた所以だ(ベディエ篇『トリスタン・イズー物語』佐藤輝夫訳,ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』石川敬三訳)。それでも、「母が死の闇の中で/受胎した私を、/死に瀕しながら/光の世界に到達させた時に!/母が私を産んだ時/母にとって愛の結晶を宿していた所、/かつて私が/目覚めた夜の帝国、/その帝国をトリスタンはあなたに示し、/先にそこへ行きます」(井形ちづる訳)と歌うのを聞くと、不思議な気持ちになった。「生(光/昼)の世界」と対立する「死(闇/夜)の世界」を母の胎内と重ねる歌詞は「子宮回帰」を連想させる。だが、舞台から感受したのはフロイト的な「退行」より、むしろ「無」でありながらも何かを生み出す「生成」の含意だった。それが、死への勧誘を魅惑的に響かせたのだろう(この魅惑は危ういけど、それがヴァーグナーだ)。

第3幕の前奏は弦楽器の奏でる低音の響きが好い。死に瀕したトリスタンを介抱するクルヴェナール(シリンス)。そこへコーンウォールからイゾルデが駆けつけるも、同時に息を引き取るトリスタン。マルケ王一行との争いでクルヴェナールも死ぬ。やがてイゾルデがトリスタンの亡骸を前に歌う、あの「愛の死(愛死)」。すべてはこのエンディングのためにあるといってもよい。「穏やかに、物静かに、目を優しく開けているでしょ、ねっ、そう見えるでしょ?」今回ここで初めて『リア王』幕切れの場面を想起した。

リアは殺された愛娘コーディリアを見ながら「これが見えるか? 見ろ、この顔を、この唇を、/見ろ、これを見ろ!」と叫んだ後、息絶える。リアは死の直前にコーディリアの唇が動いたと信じ、喜悦のうちに息絶えたとの見方の他、「見ろ、これを見ろ!」のリアの叫びはコーディリアの身体を差してではなく、昇天したコーディリアの霊魂が口から体外へ出ていくさまに向けられたとの〝中世的〟解釈もあった。「リアは喜びのうちに死ぬ、ただしコーディリアが生きていると信じたからではなく、娘との別れのときが来てそのときが過ぎ去った、だから愛する娘にもう二度とさよならをいう必要はないことがわかったから」(カービィ)と。今回キンチャのイゾルデを聞き/見ながら、中世の「トリスタン物語(神話)」に基づく楽劇にリア王の最期のエコーを感じたのだ。

「…彼がますます明るく輝き、星の光に包まれて高みに上がっていくのが、見えないの?…唇からは嬉しそうに優しく甘い吐息が静かに漏れているでしょ? みんな! 見て! …私だけにしか聞こえないの?」——イゾルデは、トリスタンが生きているというのではなく、その精神(霊魂)が高みに上がっていくさまを歌っているのではないか。その道行きに同行し、浸ることの歓びを。マクヴィカー演出では、赤い月が沈みゆくなか、母の胎内(死の世界)に見立てた暗闇の海の方へ、イゾルデはゆっくり歩んでいき幕となる(珍しく最後まで拍手なし)。作者の意図はどうであれ、そう感じ腑に落ちる舞台だった。