新国立劇場『ローエングリン』 フォークトの不思議な魅力

新国立劇場の新制作オペラ『ローエングリン』初日と四日目を観た(6月1日/10日)
指揮:ペーター・シュナイダー/東京フィルハーモニー交響楽団
演出:マティアス・フォン・シュテークマン/美術・光メディア造形・衣装:ロザリエ/照明:グイド・ペツォルト
合唱:新国立劇場合唱団/合唱指揮:三澤洋文

新国立オペラのベスト公演かも知れない。
なによりタイトルロールのクラウス・フロリアン・フォークトが素晴らしかった。彼の歌声には不思議な魅力がある。きわめて自然で、つくり込んだ感じがまったくない。フォークトは七年前この劇場で『ホフマン物語』のタイトルロールを歌っている。私は三回聴いたが、声の生な感じから、不安定でまとまりのない印象を受けた(特に中低音域)。それが今回、演目は違うが、中低音も含め、より練れて充実した歌声に進化していた。彼は全身で真っ直ぐ素直に歌う。少なくともそう聞こえる。特に弱音で語りかけるように歌うとき、甘くなめらかで、ジェンダーを超えた響きが現出する。第1幕第3場の白鳥をねぎらう条りの第一声を、天から降りてきた白鳥のゴンドラが宙吊りになり、そこから後ろ向きのまま歌う。この世のものとは思えない〝聖なる〟歌声が劇場を満たした。信じられないような美しさ。彼の歌声はすべてがじつによく聞こえる。そしてつねに「やさしい」感触がある。
フォークトの声は、いわゆる「英雄的」ではない。男性的な力強さを誇示する感じはまったくない。「ヘルデン・テノール」という言葉はいかにもすわりが悪い。彼はトランペットではない。喩えるなら、むしろ、ホルンだろう。音が直線的に噴射される前者とは異なり、先の第一声のように後ろ向きの朝顔から空間を音で充満させ、正面の聴き手には柔らかな音色として響く。たしかにフォークトの歌声と似ていなくもない。隙間のない充溢した声。ホルン奏者から歌手に転向したという彼の経歴は、たんなる偶然ではないのかも知れない。ブレヒトが批判するオペラの「美食的」な感触とはひと味違う歌声(ブレヒトのオペラ批判は複雑だが、この話題は機会をあらためて)。けっして聴き手の理性を失わせることなく、自然な発声から、歌の、音楽の美しさと喜びを感じさせる。いままであまり経験したことのない感動だ。

他の歌手たちもみな充実していた。エルザ役のリカルダ・メルベートは初日よりも四日目の方が身体の力が抜けてよく声が出ていた(もっと華がほしいところだが、今回のエルザ解釈からすればあれでよいのだろう)。ハインリヒ国王のギュンター・グロイスベックは国王らしい端正な歌声で姿もよい。「悪役」のフリードリヒ・フォン・テルラムントのゲルト・グロホフスキーも悪くない。オルトルートのスサネ・レースマークは質の高い歌手だが、おそらくは「人の良さ」から悪女の造形にいまひとつ腰が引け、歌唱にも若干それが影響していた。王の伝令役萩原潤は充実した声がよく通っていた(ふっくら感が出ればもっとよい)。合唱は男女とも素晴らしく、ただ力強さだけではない、輝きや香りも立ちのぼった。バレエの群舞もそうだが、新国立劇場のコーラスは、世界に誇れる質の高さだ(待遇もそうなって欲しい)。

ペーター・シュナイダーの指揮がつくり出す音楽はくせがなく自然。いわば音符をあるがままに音化している感じ。オケのコントロールも、自分の音楽を押しつけるというより、東フィルが鳴らす音(素材)を活かし、それを少しでも好い方向へ導き、流してやるといった風情。結果、音楽がその場で生成されているような臨場感があった。第1幕への前奏曲のクレッシェンドなども威圧的でない。総じてオケは初日より四日目の方がよかったと思う(初日は冒頭の前奏曲等でヴァイオリンの音程が不安定で透明な響きが得られなかったが四日目はかなり改善。木管は両日ともミスがあり残念)。東フィルは、やはり待遇面を含めた抜本的な改革が不可避だろう。

演出は本人の言葉どおり、何もない空間を残しつつ、要所では、大胆なセットを用いてドラマの意味や進行を補助していた。たとえば、第2幕のラストで、白のタイトなロングドレスに針金の大きな髪飾りを付けたエルザが赤いヴァージンロードをひとり歩み、途中よろけて倒れる。身じろぎもしないローエングリン。そのとき「禁門の動機」が鳴り響き、幕が下りる。婚礼を目前にしたエルザの背負いきれない重荷と、続く第3幕での悲劇的な結末を見事に暗示する演出(キース・ウォーナー演出の「ジークフリートの死」の場面を想起)。ラストのゴットフリートは子役が演じた(池袋遥輝/木戸一徳トーマス)。彼はローエングリンから受け取った剣を床に倒し、姉エルザにしがみつくが、エルザは弟をはらいのけ上手へ走り去る(エルザは死なない)。舞台にひとり残されたゴットフリートは両手で顔を覆い幕となる。エルザを等身大の現代娘に、ゴットフリートをいたいけな子どもにし、「悲劇」の焦点をエルザからゴットフリートおよび治める者がいないブラバントの民衆に移した。
今回は光の扱いが見事だった。画面のドットを格子形にしたような半透明のパネルが舞台後方に設えられ、ドラマの進行に従い、様々な光の模様が映し出される。たとえば、第1幕で白鳥の騎士が近づくと水のうねりのような模様が刻々と変化していく。ローエングリンがテルラムントを打ち負かすと、背景のパネルには鮮やかな色彩の花火が明滅する。第2幕第1場では、床に置かれた大小のトランク(追放の身であることを表象か)にオルトルートとテルラムントが座り、二人の復讐心が増大するにつれ、正面パネルの下方に赤い光が炎のように揺らめく。エルザが騎士に抱く疑惑は紫色の光で表していた。
コーラスの隊列の組み方、崩し方、また墨色の男性コーラスにオレンジ色の女性コーラスを混じり合わせるやり方も巧み。空間(余白)を効果的に使い、音楽を邪魔しないシンプルな演出には好感が持てた。

衣装も総じてよかった。特に国王が纏った青色の長いガウンと高く結った白髪に青色の「鉢巻」の出で立ちは、歌舞伎へのオマージュだろうか(紫色なら「病鉢巻」だが)。ただ、コーラスは男性が墨色を基調とした戦闘服に、一方の軍勢は黒色のキャップを被り、もう一方は頭にヘッドギヤのような空色(3幕はどちらも白色)の鉢巻きを締めている。後者は月代のようにも見え、他の主要人物たちと地続き感がなかったのは残念。
初日の終演後、偶々、フォークト少年にホルンを買い与えた張本人(父親)に紹介され賛辞と謝意を伝えることができた。嬉しそうだった。