カリノスキー『月の獣』(Beast on the Moon)

下書き欄に書きかけがたいぶ溜まってしまった。バレエ『ホフマン物語』を早くアップしたいが、その前に先月観た演劇のメモからとりあえず。
『月の獣』を観た(10月11日 14:00/俳優座劇場)。
オスマン帝国(トルコ)のアルメニア人虐殺が物語の背景にあると知り、観ることに。平田オリザの新作『新冒険王』でこのジェノサイドが言及され、頭に残っていたからだ(6月/吉祥寺シアター)。

作:リチャード・カリノスキー
翻訳:浦辺千鶴
演出:栗山民也
美術:伊藤雅子
照明:服部基
衣裳:西原梨恵
出演:金子由之(老紳士) / 石橋徹郎(アラム) / 占部房子(セタ) / 佐藤宏次朗(ヴィンセント)
企画制作:俳優座劇場

1921年アルメニア人のアラムはアメリカのミルウォーキーで写真家として暮らしている。(“アラム”と聞けばどうしてもサローヤンの『我が名はアラム』が浮かぶ。彼の両親もトルコからアメリカへ移住したアルメニア人だった。)セットはアラムの部屋。三脚付きの古い写真機とテーブルに椅子が数脚。正面壁際の上手寄りに家族写真がイーゼルに掛けてある。顔の部分はみな切り取られ、ただ父親とおぼしき部分のみアラムの顔写真が、穴をふさぐように貼り付けられている。なんとも異様で不気味。老紳士(金子由之)が登場し、アラムとセタの二人について語りたいと客席に話しかける。この紳士は芝居が進むなかナレーターとして時おり登場し、語ったり手前の椅子に座って舞台を見たりする。
冒頭は19歳のアラム(石橋徹郎)が故郷から写真だけで選んだ花嫁を自宅に迎えるシーン。その花嫁がセタ(占部房子)だ。まだ15歳で、母が作ったという人形を抱いたまま離さない。無理に人形をもぎ取り写真を撮るアラム。「切り取られた」母の顔に貼り付けるためらしい。かつての父にならい家父長として聖書を読み聞かせるアラム。それを聴くセタ。「家族」を作ろうとするアラム。二人の絡みから姉が受けた暴力を思い出し、恐怖に襲われるセタ。取り憑かれたように「家族」にこだわるアラムと、「花嫁」に選ばれて孤児院から救われた恩を感じながらも戸惑うセタ。こうして両者の価値観の違いが徐々に顕在化していく。やがて二年が経過し、セタは17歳、アラムは23歳。だが、子供は出来ない。家族写真の両親の顔は貼り付けられたが、子供たちの顔は黒い穴が埋まらないまま。家父長意識の強いアラムと奔放なセタとの軋轢は続く。セタの「反乱」。うろたえるアラムはなんとかセタの機嫌を取ろうとする。そのとき初めて夫を「アラム」と呼ぶセタ。
休憩後、舞台はさらに十年が経過し、時は1933年に。アラム33歳、セタ27歳。まだ子供はいない。アラムの留守にイタリア系の孤児ヴィンセント(佐藤宏次朗)の世話を焼くセタ。アラムもセタも元は孤児。だがヴィンセントの存在に苛立つアラム。冬のある日、セタは孤児院で虐待を受け薄着のまま逃げ出してきたヴィンセントに大きなコートを着せてやる。これはアラムの父の遺品だった。ヴィンセントはだぶだぶのコートを面白がり、長い袖を鼻に見立てて象の真似をしてはしゃいでいるときアラムが帰宅。激怒するアラム。修羅場。ヴィンセントは出て行く。さらにアラムは、セタが例の家族写真を自分の不在時にセーターで覆っていたことを知り、問い質す。二人が激しく感情をぶつけ合った果てに、アラムは、家族が全員惨殺され切り取られた首が晒された過去を初めてセタに打ち明ける。聴いていたセタは「分かった」と呟いたのち、歩み寄り、慈母のようにアラムを包み込む。この後、ヴィンセントは二人の家族になり、その家族写真を、三人が並んで写る場面で幕となる。あの老紳士はヴィンセントだった。
占部房子は『焼き肉ドラゴン』の初演・再演を見て以来だが、いい役者だ。15歳から27歳までのセタを見事に演じ分けた。といっても、外面的な変化が描かれたわけでは必ずしもない。むしろ、セタの腹(内面)を、家族を虐殺で失い内的に傷ついた無邪気な少女から、専制的なアラムとの生活で成熟を強いられ、さらに傷つき、だがけっして自分の芯を偽らず見失わない女性を、そんなアラムを理解し愛する女性を生きていた。アラム役の石橋徹郎は、当初は台詞回しに若干不自然さを感じたが、次第に、それがアラムの人物造形に由来することが分かり納得した。つまり、家族を無残に奪われた〝傷〟を内に深く押し込み、抹殺された父に代わって必死で家族を再生させようとするアラムの〝かたくなさ〟に由来することが。子役の佐藤宏次朗もよく健闘した。ナレーター(老紳士)を担った金子由之の穏やかな発語とやわらかな身体は、強烈な過去を抱えた移民(難民)の物語を日本の観客に媒介する役として適切だった。作品選択と演出は栗山民也。流石。サローヤンを読み返したくなった。