新国立劇場 オペラ《椿姫》再演 2017

オペラ《椿姫》再演の初日と二日目を観た(11月16日 19:00, 19日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。初日は1階中央から、二日目は3階左奥から。
二年前の初演は演出・演奏・歌手が三拍子揃い、素晴らしい舞台だった(2015. 5.26のブログ参照)。今回はどうか。簡単にメモする。

指揮:リッカルド・フリッツァ
演出・衣裳:ヴァンサン・ブサール
美術:ヴァンサン・ルメール
照明:グイド・レヴィ
ムーヴメント・ディレクター:ヘルゲ・レトーニャ
再演演出:久恒秀典
舞台監督:村田健輔


ヴィオレッタ:イリーナ・ルング
アルフレード:アントニオ・ポーリ
ジェルモン:ジョヴァンニ・メオーニ
フローラ:小林由佳
ガストン子爵:小原啓楼
ドゥフォール男爵:須藤慎吾
ドビニー侯爵:北川辰彦
医師グランヴィル:鹿野由之
アンニーナ:森山京
ジュゼッペ:大木太郎
使者:佐藤勝司
フローラの召使い:山下友輔
合唱指揮:三澤洋史
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

初日
フリッツァ指揮の東フィルは弾性のある音色と輪郭のはっきりした、ある意味プロっぽい演奏。ただ、前奏曲からヴィオレッタの居間の場面への入りで、冒頭の合唱が少しモタモタする。初演を振ったアベルはアップテンポで観客を異時空間にワープさせたが。ヴィオレッタ役のイリーナ・ルングは期待はずれ。姿はいいが、歌唱は粗い。声量はあるが声に艶がなく、装飾音符や細かな音型のキレが悪い。スカラ座はじめ名だたる歌劇場で歌ってきたらしいが、元々そうなのか、喉が荒れた結果なのか。もっと気になったのは、歌詞を噛みしめていないように聞こえる歌いぶり。初演のベルナルダ・ボブロは1幕のカヴァティーナで過去(子ども時代)を回想するように床に腰を下ろし、さらに横向きにうずくまって歌った。が、今回ルングはそうした? アルフレードは二年前の初演と同じアントニオ・ポーリだが、とてもよい。変な癖もなく誠実に歌う。ジェルモンは予定と変わりジョヴァンニ・メオーニ。声量のある声でしっかり歌う。ただ、ジェルモンとしては背が低いうらみが。みな初日のせいか掛け合いの場面でもソロを歌っているような印象。対他的なやり取りからその場で生まれ出るものが乏しい。結果、ドラマがほとんど立ち上がらず。
2幕1場、ジェルモンが娘の縁談に言及するくだりで、前列の老婦人の携帯が鳴った。ルングは後半多少はよくなったようだが、この程度の歌唱ではとても満足できない。
2日目(19日)
冒頭部のモタモタ感は解消せず。ルングは初日よりよいが、やはり「乾杯の歌」等の装飾音がうまく回らない。カヴァティーナ(カンタービレ)の途中で申し訳程度に床に座る素振りは見せたが、いかにもとってつけた感じ。歌詞が示唆するような内省するハラがない(そもそも同じメロディで別の歌詞 「小娘の私には」'A me faciulla, un candido . . .'と歌うフレーズはまったく記憶にない)。カヴァレッタでは高音を含め声は出るが、そこに濁りが混じる。これでは高級娼婦が宿すピュアな内奥を歌唱として表現できない。決め所で高音(強音)を長く伸ばすのはエンターテイニングでよいのだが、歌詞を大事に歌う姿勢は乏しい。
2幕1場。ポーリのアリアは初日同様、真率で気持ちが乗っている。ヴィオレッタとジェルモンの対話。初日よりさすがに落ち着いており、対話が成立した。ジェルモンのメオーニはかなりの力量の持ち主。その場で自在にコントロールして歌う。ルングもここでは悪くない。ヴィオレッタが手紙を書いている時、下手からアルフレードが彼女の背後に近づくシーン。初日はアルフレードの入るタイミングが早すぎたように感じた。2幕以降、ルングは弱音を多用する。それはよいのだが、少し声が割れそうになりハラハラした。
休憩後のフローラの家の場もまずまず。2幕の幕切れおよび3幕の演出のついては初演時に書いたブログを参照。ただ、3幕の「丸窓」は首にかけるロケットのイメージではなく、オペラ(虚構)のヒロインを客席(現実)と分かつ劇場の「窓」(カーテン・幕)なのかも知れない。全幕を通して舞台に置かれたピアノについても補足したい。
このピアノは、演出のヴァンサン・ブサールによれば、実際に19世紀半ばに使われたものらしい(「Production Note」プログラム)。たぶんこれは音楽、ひいては文学を含む芸術を象徴していると思われる。「椿を持つ女」のモデルとなったアルフォンシーヌ・プレシはデュマ・フィスの小説・戯曲によって、さらに、ピアーヴェの台本とヴェルディの音楽(いずれもあのピアノと同時代)によって、神話化された。つまり、ヴィオレッタの最後の言葉どおり(私の中に、いつにない力が生まれ……/はたらいているの!/ああ、でも私、生きるんだわ!……)この「力」を彼女に吹き込んだのは音楽/芸術(music/mousike)である。まさに音楽(芸術)が「寒村の行商人の娘」だったプレシを虚構/伝説の人物として永遠に「生き」させる。あのピアノが1幕から3幕まで始終ヴィオレッタを支えるものとして現前するのはそのためではないか。音楽/芸術による音楽/芸術論(メタ芸術)ともいうべき演出。
今回の再演は、歌手・指揮者とも演出家のコンセプトを十分に共有していたとは思えなかった。再演演出の権限がどの程度のものかは不明だが、大変クリエイティヴなプロダクションなだけに、少し残念である。