文学座アトリエの会『Hello〜ハロルド・ピンター作品6選』2021【追記】

文学座アトリエの会『Hello〜ハロルド・ピンター作品6選』の初日を観た(12月3日 金曜 18:30/文学座アトリエ)。

翻訳:喜志哲雄/演出:的早孝起/美術:石井強司/照明:金 英秀/音響:藤田赤目/衣裳:宮本宣子/舞台監督:岡野浩之/制作:前田麻登、梶原 優/宣伝美術:藤尾勘太郎

久し振りのピンター作品。刺激的で見応えがあった。というか、発語されるセリフの官能性が圧倒的だ。舞台は何もない空間で、小道具は8人が座る8脚の椅子のみ。6つの小篇を年代順に並べ、第1幕「家族の声」(1981)「ヴィクトリア駅」(1982)、第2幕「丁度それだけ」(1983)「景気づけに一杯」(1984)「山の言葉」(1988)、第3幕「灰から灰へ」(1996)と区分けしている。幕を、すなわち発表年を追うごとに政治的な色合いが増していく様を実感できた。よい選択・構成だと思う。80年代によく見たピンターの舞台は『部屋』(1957)から『背信』(1978)あたりまで。独特なコトバ感覚と残忍かつ暴力的な感触は変わらないが、これほど全体主義国家の非人間的行為を鮮明にイメージすることはたぶんなかった。見る側の認識が変わったこともあるが、文学座俳優のきわめて高度な発語能力が、ピンターの言語的エロティシズムを際立たせたのだろう。

『家族の声』中村彰男 藤川三郎 石橋徹郎 上川路啓志 萩原亮介 寺田路恵 山本郁子 小石川桃子

本来は「若い男」(息子)と「女」(母)そして「男」(父)の手紙文による朗読劇だが、ここでは、3人の役を発話者(特に若い男)の話に合わせて8人(男5・女3)全員にうまく振り分けていた。

手紙に〝宛先〟はあるが、対話はない。返信はないし、そもそも投函したのかも不明。とはいえ、ひとりが喋ると、てんでんばらばら(もちろん意図的)に置かれた椅子に座る他の7人は話者を見るわけではないが聴いてはいる。初めは表情が微かに変化する程度だが、やがて動きが伴う。最初に川上が語り始める(若い男)。聴いている表情から寺田がその母役かと思いきや、山本がそのセリフを喋り始める(後に寺田も母役で語るが)。不意を突かれた新鮮さ。幕切れで死んだはずの父(中村)が発語し、それに反応して少しずつ役者がハケていく。後半のセリフにホモセクシュアルコノテーションが顕著。鮮やかに喚起させるリアルさ。みな声が好いし発語がうまい。上川の科白回しには色気があった。

『ヴィクトリア駅』指令係:上川路啓志/運転手:藤川三郎

タクシーの指令係が無線で運転手に指示する。2人の対話。可笑しさ(上川)と不気味さ(藤川)。二人とも『家族の声』とは別人のよう。

ここで10分休憩

『丁度それだけ』ティーヴン:石橋徹郎/ロジャー:藤川三郎

二人の男が酒を飲みながら核戦争による死者の数について対話していたらしいが、よく分からなかった。あれは高級官吏だったのか。

『景気づけに一杯』ニコラス:石橋徹郎/ヴィクター:萩原亮介/ジーラ:小石川桃子/ニッキー:寺田路恵

ナチスゲシュタポを思わせるニコラス(石橋)はウィスキーを〝景気づけに一杯〟やりながら強圧的かつ狂信的に反体制知識人と覚しきヴィクター(萩原)を攻め立て追い込んでいく。いわゆるフィジカルな拷問のシーンはない。が、おそらく男の妻(小石川)は犯され、息子は殺されたのだろう。〝愛国心〟の怖さ。震え慄く萩原もリアルだった。

『山の言葉』若い女:小石川桃子/初老の女:寺田路恵/軍曹:中村彰男/士官:山本郁子/看守:上川路啓志/囚人:萩原亮介/頭巾の男:藤川三郎/第二の看守:石橋徹

前作から地続きのような舞台。自民族の言語(山の言葉)の使用を禁じられた初老の女。だが、老女はそれしか話せない。士官や軍曹らに迫害されるマイノリティたち。三角頭巾を被せられた男の姿から、「イスラム国」の人質の姿が浮かんだ(思い出したくないけど)。その妻が会いに来るが、男は銃殺される。少数民族の迫害といえば、新疆ウイグル族の問題を想起させる。30数年前の作品だが、今なおアクチュアリティを失っていない。

ここで10分休憩

『灰から灰へ』デヴリン:中村彰男/リベッカ:山本郁

夫婦らしき男女の対話。女リベッカが男デヴリンに自分の過去の話をする。あるいは、男がそれを女から聴き出そうとする。嫉妬。そこにはエロティックなコノテーションがしばしば付き纏う。女が語る過去の恋人らしき男は、旅行代理店のガイドだと。が、断片的な語りの中に、ガイドの男が駅のプラットフォームで泣き叫ぶ母親から赤ちゃんを奪い取る話が出てくる。【それから、女は言い忘れていたと前置きし、大勢の人たちが鞄を持って、ガイドらに誘導されて森を抜け、海岸の波打ち際から海の中に入っていったと。それを庭の窓から見たという。まるで「ハーメルンの笛吹き男」みたいな話だ。】終わり近くでもう一度。老人と少年が大きなスーツケースを引きずって行く姿を、語る女は建物の窓から眺めていたと。赤ちゃんを抱いた女が二人のあとを歩いていた。…おくるみにくるんだ赤ちゃんはやがて男に奪われる。そして汽車に乗った。私たちは。そしてここに着いたと。ここに? やがて女の言葉の一部が他の役者の反復により、エコーのように反響する(8人全員が冒頭同様はじめから椅子に座っていた)。語っている女は建物の窓から眺めていたはずだが、いつの間にか、赤ちゃんを奪われた女と一体化している。

これは明らかにナチスドイツによるユダヤ人迫害もしくはホロコーストショアー)のイメージだ。ユダヤ人らは鉄道で収容所へ移送され、女たちは赤ちゃんを奪われて、ガス室で殺される。あるいは子供も一緒にガス殺される。運がよければ追っ手を逃れ、赤ちゃんを奪われながらも自らは逃亡する。旅行ガイドはSS隊員かもしれない。ただし、女が語っているのは、自分の体験というより、すり込まれた民族の〝集団的記憶〟ではないか。

それにしてもリベッカ役の山本が語るセリフの生々しさ、音の美しさには圧倒された。その美しさと、喚起される怖ろしいイメージとのギャップの妙。加虐と被虐にエロスが重なるが、そんななか、デヴリン役の中村が時おり生み出す可笑しさが効いていた。

役者はみな巧い。発語がクリアで、セリフを聴くとイメージがまざまざと浮かんでくる。ある意味、なんの説明もない抽象的な設定下で、セリフが艶やかに感取されイメージが鮮やかに喚起されたのは、俳優たちの質の高さゆえだと思う。もちろん喜志哲雄の優れた翻訳あっての話だが。演出の的早考起の名前は覚えておきたい。