新国立劇場オペラ《椿姫》2022

《椿姫》再演の初日を観た(3月10日 木曜 19:00/新国立劇場オペラハウス)。このプロダクション初演は2015年5月(指揮:イヴ・アベルヴィオレッタ:ベルナルダ・ボブロ)。その後17年11月(リッカルド・フリッツァ/イリーナ・ルング)、19年11月(イヴァン・レプシッチ/ミルト・パパタナシュ)と続き、今回が4回目。

初演のブサール演出が大変気に入り、毎回期待して見てきたが、初演ほどの満足感は得られず。いずれも指揮者やタイトルロール等が演出の意図と意義をさほど共有(共感)しているようにはみえなかった。が、今回は初演に次ぐ好舞台だったと思う。以下、簡単にメモしたい(演出についての解釈は、初演メモ17年の再演メモを参照)。

作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)/台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810-76)/原作:アレクサンドル・デュマ・フィス(1824-95)『椿を持つ女』(小説:1848年/戯曲:1849年・初演:1851年/オペラ《ラ・トラヴィアータ(道を踏み外した女》初演:1853年)

指揮:アンドリー・ユルケヴィチ/演出・衣裳:ヴァンサン・ブサール/美術:ヴァンサン・ルメール/照明:グイド・レヴィ/ムーブメント・ディレクター:ヘルゲ・レトーニャ/再演演出:澤田康子/舞台監督:斉藤美穂/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団コンサートマスター:グレブ・ニキティン)

[キャスト]ヴィオレッタ:アニタ・ハルティヒ(「直前のスケジュール及び入国制限=入国後の待機義務により十分なリハーサル期間を確保できないことから降板」)→中村恵理/アルフレード:マッテオ・デソーレ/ジェルモン:ゲジム・ミシュケタ/フローラ:加賀ひとみ/ガストン子爵:金山京介/ドゥフォール男爵:成田博之/ドビニー侯爵:与那城 敬/医師グランヴィル:久保田真澄/アンニーナ:森山京子/ジュゼッペ:中川誠宏/使者:千葉裕一/フローラの召使い:上野裕之

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ウクライナ人の指揮者ユルケヴィチが登場すると大きな拍手が。前奏曲はとても繊細な響き(オケは東フィルではなく東響)。その間、幕には原作のモデルとなったアルフォンシーヌ・プレシ(マリー・デュプレシ)の墓碑銘が浮かび、背後に彼女の肖像画がうっすらと滲み出る。その後、快速で一気にパーティ会場へ。

第1幕。ヴィオレッタの中村はまだ声の響きが十分でない。アルフレードのデソーレは、歌唱が未完成の印象。ソロの不安定さは緊張のせいか。「乾杯の歌」はいつ聴いても難しいなと思う。特にあの小節をきかせるようなフレーズ(初演時のボルロは律儀にかつ綺麗に歌った)。正確にやりすぎると場の雰囲気に合わないし。今回はその中庸をねらったか。ヴィオレッタは例の「ああ、きっとあの方なのね」のアリアでカミテの端に座った。そこまで端っこに座ったのは初めて。まだ声がよく鳴っていない。ラストはスコア通りハイトーンにせず(18年に藤木大地とのデュエットコンサートで歌ったときはチャレンジした)。それでいいと思う。

第2幕第1場。アルフレードはアリア「燃える心を」では少し持ち直したが、歌のつくり方はまだ荒削りの印象。若いのかも。ヴィオレッタ中村とジェルモン父ミシュケタの遣り取りは聴き応えがあった。ミシュケタの歌唱は朗々として雄弁。芝居もいい。次第に人のよさ(たぶん役ではなく本人の)が滲み出てくる。二人の掛け合いはオケの伴奏と相まって緊迫感が漲り、引き込まれた。中村の真面目さ、ミシュケタの情の厚さ。

息子を諭すジェルモン父のアリア。カモメの飛翔とパラソルをあしらった第2幕のセットは、二人の住むパリ近郊の自然を表すが、このアリアでは、歌が喚起する親子の故郷「プロヴァンスの海と地」や「輝くばかりの太陽」の表象ともなる。

シモテ奥の入口から漏れる光が、前半のホワイト(午前)から後半はブルー(午後)に変わった。これはヴィオレッタとアルフレードの心情の変化も表すのだろう。

ここで30分休憩。

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第2幕第2場。再び舞台はパリ、フローラ邸での舞踏会。アルフレードは、ヴィオレッタのパトロン ドゥフォール男爵とカードの勝負で得た札束をヴィオレッタに投げつけ侮辱する。このときガルニエのフォワイエを描いた背景の壁が崩壊。ここから人々はこの「道を踏み外した女」に同情し始め、神話化が可視化されてくる。迫力ある合唱付八重唱の幕切れでヴィオレッタ(プレシ)はカミテ近くの、手前に少し食み出した場所へ歩み出る。19世紀の人々から切り離され、現代の〝われわれ〟にぐっと近づく演出だ。今回カミテ側の英語字幕は出さないとの掲示があった。演出効果が損なわれるからだろう。

第3幕。間奏曲。ユルケヴィチの棒に〝気〟がこもり、オケが敏感に呼応する。弦の生な感触が、悲痛な響きを際立たせた(死の床にあるヴィオレッタの心情と、ウクライナ人指揮者の想いがダブって聞こえた)。幕の中央には円形の大きな〝窓〟が開き、その上部は三分の一ほど閉じており、臙脂色のカーテンが描かれている。窓から見えるヴィオレッタはベッドならぬピアノの上。死の床に横たわるヴィオレッタは、19世紀に作られたピアノ(音楽=芸術)に支えられ、神話化されていく。観客はそのプロセスを目撃する仕掛け。すでに中村の歌唱は第1幕とは別次元。「さようなら、過ぎし日の…」では二番の歌詞も歌った(その分、過去2回の再演より終演が5分延びたが初演時に戻っただけ)。声の響きと歌詞に込められた想いが見事に融合した素晴らしい歌唱。アルフレード登場。やっと。だが、すでに彼女は他の人物と薄い膜で区切られ、切り離されている。もう彼女は半ば神話(文学=音楽)上の人物なのだ。すでにそれぞれ別世界に所属する二人のデュエット「パリを離れて」。まずはアルフレードが歌う。デソーレはとても誠実な声。アルフレードにぴったりだ。それを聴いたヴィオレッタは少しテンポを落として歌う。二人が声を合わせるときは、また元のテンポ。まるでアルフレードとの再会でヴィオレッタが「また元気を取り戻した」かのよう。だが、もちろんそれは束の間だ。彼女と他を隔てる薄い膜の上部には、ずっとプレシの面影が亡霊のように浮かんでいる。まるでその魂が、神話化していくさまを見守っているかのよう。あるいは、死の床にあるヴィオレッタ(マルグリット=デュプレシ=プレシ)の魂が身体から離脱しはじめているのか。円形の窓が次第に下へ閉じ始めると、彼女はこの窓の外(手前)に出て、語り始める「不思議だわ!……」ニキティンのヴァイオリンソロ。震えるような美しさ。「私の中に、いつにない力が生まれ……/はたらいているの!」「力」は、ここでは音楽(文学/芸術)の力だと思う。つねに舞台でヴィオレッタを支えてきたピアノがその象徴だ。「わたし生きるんだわ!」*1。たしかにアルフォンシーヌ・プレシは死んだし、ヴィオレッタも死ぬが、芸術の力で、彼女はヴィオレッタとして、再び生き始める…。

今回、ウクライナ生まれの指揮者アンドリー・ユルケヴィチの下、ロシア生まれのコンサートマスター グレブ・ニキティンがオケを牽引し、素晴らしい演奏で劇場を満たした。ユルケヴィチの指揮は内省的で、華美なものは削ぎ落とす印象(スタニスラフスキー演出の舞台に基づいた2019年の《エフゲニー・オネーギン》もそうだった)だが、ツボは絶対に外さない。この志向は、プレシの生と死が神話化され、再生されるプロセスを描こうとした(と思われる)プロダクションのコンセプトとよく合っていた。中村恵理のヴィオレッタ造形は、高級娼婦の華やかさより、傷つきやすさや真面目さが優るあり方。結果、第1幕よりも第2幕、とりわけ第3幕にフィットした。トータルでは、とても感動的な舞台に結実した。

新国立劇場は、11日に、ユルケヴィチ氏がウクライナ人であることに言及し、「戦火に苦しむウクライナの人々を支援」する旨の声明文を出し、劇場内に募金箱を設けたとのこと。大賛成だし、大変よいことだと思う。

同時に、なぜ初日の翌日なのか、なぜ、初日より前にこれができなかったのか、というのも偽らざる気持ちだ。そもそも、ユルケヴィチ氏のリハーサル参加を知らせる3月2日の劇場ツイートは、彼がウクライナ人であることにまったく触れていなかった。波風(どんな?)を立てたくないのは分からないでもない。が、子供や女性を含む民間人が連日殺害されていくウクライナの状況を見るにつけ、新国立劇場のサブスクライバーとして、ヒューマニティの危機にもっと敏感であって欲しいと率直に思う。劇場内にもそうした声が出ていたのかもしれない。やはりインテンダントが存在しない劇場組織では限界があるのだろう。3月10日の初日当日、芸術監督の大野和士氏が《椿姫》開幕に寄せたメッセージをネット発信したのは本当に救いだった。

11日の声明文は「オペラ・ヨーロッパの宣言」にある次の言葉を支持するという。「芸術は常に人道的価値の最前線にあり続ける。芸術は、政治的プロパガンダに媚びることなく、批判的思考を養い、対話を促進するために活用されるべきである。*2

これは「オペラ・ヨーロッパ」によれば、ウクライナの芸術家と文化活動家の言葉らしい。新国立劇場には、この言葉を支持するのみならず、実践する劇場であり続けるよう、こころから願っている。

*1:海老沢敏訳/名作オペラ ブックス

*2:原文は次の通り。‘Art has always remained at the forefront of humanitarian values.  We strongly believe that art cannot be subservient to political propaganda; instead it should be utilised for developing critical thinking and promoting dialogue’. 「あり続ける」ではなく「あり続けてきた」か。後段は意訳により、ウクライナ人芸術家の当事者性が少し薄まっているようにみえる。