「こつこつプロジェクト -ディベロップメント- 第二期」3rd試演会の『夜の道づれ』初日を観た(2月17日 木曜 19:00/新国立小劇場)。席は『テーバイ』同様、最前列のさらに左寄り。やはり近すぎ。感想メモをだらだら記す。
作:三好十郎/演出:柳沼昭徳
御橋次郎:石橋徹郎/熊丸信吉:日髙啓介(理由は不明だが当初の発表から変更)→チョウ ヨンホ/洋服の男+警官2:林田航平/警官1+復員服の男/中年の農夫:峰 一作/若い女+戦争未亡人:滝沢花野
敗戦後の夜更けに甲州街道を歩く男(石橋)。彼は別の見知らぬ男(チョウ)と道づれになり、道中いろんな人間と出くわしながら、ひたすら歩き、語っていく。
見る前は、二人が歩き続ける行為をどう舞台化するのか興味津々だった。回り舞台? 違う。開演時には、すでに御橋役の石橋が舞台中央で自然木のステッキを握ったまま大の字に横たわっていた。別の役者が舞台より低いシモテの袖で床をドンと叩くと、石橋はビクッと動き、続く音に呼応して体を動かし立ち上がる。やおら膝を高く上げ、音に(が)合わせて地面をドシドシ踏み始めたのだ。何もない空間のあっちへ行ったりこっちへ来たり…。カミテの袖からも何かを叩く音がする。まるで歌舞伎の「ツケ」のよう。黒衣が役者の足取りに合わせてツケ板を木で打ちつける、あれ。もしかして石橋の最初の大仰な足取りは「飛び六方」を模したのか。そこへ後から歩く道づれ男(チョウ)の駒下駄音が加わる。こうした動きや不規則な拍子に、初めは違和感を覚えた。が、次第にこの奇妙なリズムに巻き込まれ、気がつくと舞台にすっかり惹き込まれていた。
二人の歩行と〝浮世話〟のリズムは、警官(林田航平・峰一作)や復員服の男(林田)や半裸の女(滝沢花野)などと遭遇しながら、続いていく。二人の素性は警官の誰何で明らかに。ステッキ男は著述業(劇作家)の御橋次郎 45歳。終電過ぎまで(たぶん新宿で)酒を飲み、歩いて上祖師谷の自宅へ帰るところ(三好十郎の自宅は赤堤にあった)。道づれは会社員の熊丸信吉で、御橋より若い。彼は背広にネクタイを締め下駄履きでリュックを背負い、手に花を持つ。なんとも奇妙な出で立ちだが、行き先を問われても要領を得ない。いわくありげの彼は後半、御橋にポツポツ語り出す。…会社の集金で歩き周って帰宅し、疲れからうたた寝した。が、目覚めると、妙な気持ちに襲われる。それは悲しさや寂しさの感情ではない。物質のように「ズーンと、この、死が、すぐそこに来た」という。異変に気づいた隣室の妻(邦子)が部屋へ入って来る。
邦子はわけがわからず、心配して毛布をはがそうとします。はがされまいと僕は毛布にしがみついていたんです。……今、これをどけて家内の顔を見たら、そのトタンに自分は家内を殺す。しめ殺すかなんか、とにかく、必ずやるにちがいないと思つた……思つたんじやない、知つた——というか、ハッキリ、わかつた。家内だけでなく、子供もです。そのほか、母親だとか、とにかくそこらに居る人間を、みんな、虫けらをひねりつぶすように。……わかりますか? わからんでしよう? ……僕にもわからん。今でもわかりません。しかし、そうだつた。それにちがいなかつたんです。……(かすかにニヤリとしたように見える)……恐ろしくて——その自分が恐ろしくて恐ろしくて、しかたがなかつたんです。……それで、とにかく、どうにもしようがないもんですから、毛布の下から家内に、熱が出たらしいから、すまんけど、大急ぎで氷を買つて来てくれといい、邦子はブツブツいつていましたけど、しかたがないもんで、氷を買いに出て行きました。しかし、まだ隣の部屋に子供が寝ています。飛びあがつて、そちらへ行つて、いきなり馬乗りになつて、とんでもない事をやりそうなんです。とても、そうしては居れない。……そいで、このリュックと——壁にかかつていたのをそのまま——と、——机の上の花びんに差してあつたこの花を抜き取つたのが、どういう気持ちだつたか、それが、自分にもわからないんですがね。飛び出したんです。
『三好十郎作品集』第2巻、河出書房、1952年(初出「群像」1950年2月号)
熊丸信吉は、二年後の『冒した者』(1952)で造形される須永像の素描のように見えなくもない。須永は劇作家の「私」の家を来訪し、死んだ恋人の義父や実母や米屋の配達人を殺した経緯を淡々と伝え、最後は投身自殺する。須永には、すでに一線を越えた〝超然さ〟を感じるが、熊丸はまだそこまでいかない。彼は御橋の本をたまたま読んでおり、それをデタラメだといい、御橋が開陳する「人生論ダイゼスト」を自分には役に立たないと退ける。それはこの世に耐えて行くために必要な「防御のタテ」だが、自分は「耐えて行くのやめちまつた人間で」「そんなものに用がなくなつた」からと。つまり、須永も熊丸も、作者の分身の考えを撥ね返し相対化する点では共通している。
だが、熊丸の場合、危機の原因が敗戦で日本がガタガタになったせいではと問う御橋に、ほどなく納得してしまうのだ。たしかに近頃「日本人が一人残らずイヤでイヤでしようがなかつた」。みんな「きたならしい、道理の聞きわけのない、それで欲ばかり深くて」「踏みつぶしてやりたくなる。……ツバを吐きかけたくなる。……腹の底から軽蔑していましたね、なるほどいわれて見ると」。さらに自分自身も同じで憎悪の対象だと。このやりとりの前、路上で横たわるピー(売春婦)の髪を、彼は踏みつけた。さらに幕切れで、熊丸はリュックから短刀を取り出し、御橋に貰ってくださいと渡す。人を殺して自死するつもりだったのか。二年後の須永はそうするのだ。いずれにせよ、熊丸の危機は、御橋の言葉がかろうじて届く範囲にある。
一方、須永の場合、彼の殺人の動機や理由は、本人の口から言語化されるが、それは「私」の理解を超えている。というか、『冒した者』で、作者は熊丸の投げ込まれた現実より、さらにのっぴきならない〝現実〟に須永を追い込んだのだろう(モモちゃんに象徴される原爆投下や核の脅威等々)。
劇作家の御橋を演じた石橋は、道中の変化に富む動きや長いセリフを見事にこなした。さすがだと思う(石橋は『Hello〜ピンター作品6選』や『月の獣』の舞台も忘れ難い)。熊丸役のチョウは代役らしいが、ベテランの石橋相手に、無意識の領域を感じさせる自然なからだと声が印象的。熊丸のとぼけた感じは多少見られたが、自身をもてあます男の〝不気味さ〟や〝気味の悪さ〟がさらに出ればよい。彼は研修生時代から結構見てきたが、今回、大きな成長を感じだ。御橋が熊丸との間に友愛を感じるシーンでは、感情が動いた。必ずしも三好が意図したものではないかもしれないが。脇の三人も舞台にしっかり貢献していた。
出番を待つ役者らが両袖で控え、黒衣としてツケ打ちしたり、着替えやメイキャップのさまを見せていた。簡素な舞台を観客の想像力で補完する手法か。長塚圭史演出の『浮標(ブイ)』(2011)や『冒した者』(2013)もそうだった。
舞台の前方に家並みのミニチュア(紙細工のような)を設置し、シモテで役者が針金かなにかで手繰るように左右に動かしていた。景色を動かすことで二人の歩行を表す意図なのか。ただ、動きが歩行とシンクロせず、何より最前列の左からだと、効果は分からなかった。
本作は、管見の限り、これまで上演されていないのではないか。ただひたすら歩く行為をどうするかがネックになるのだろう。柳沼氏の試みは、上記の通り、うまくいったと思う。二人のやりとりから、熊丸は御橋の推論に納得したように読めるが、そこに作劇上の妥協というか、不徹底のようなものを少し感じる。熊丸はこのあとどうするのだろうか。舞台では、最後に御橋が空のウィスキーボトルを熊丸が去った方へ投げつけると、時間差で天井から照明器具が落ちてきた。これはなんのオチなのか。