7月のフィールドワーク予定 2020

 今月は新国立劇場バレエによる一公演のみ。7時間かかるというルパージュの舞台は見たかった。

4日(土)17:00 オラトリオ《箱舟》作曲:イェルク・ヴィトマン/指揮:ケント・ナガノ/ソプラノ:マルリス・ペーターゼン/バリトン:トーマス・E. バウアー/合唱:新国立劇場合唱団/合唱:アウディ・ユーゲント合唱団/児童合唱:NHK東京児童合唱団/語り(子役):斎藤來奏(子役):三宅希空 @サントリーホール

10日(金)19:15 新日本フィル定演 #622 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op. 73 「皇帝」/ブラームス交響曲第1番 ハ短調 op. 68/指揮:尾高忠明/ピアノ:清水和音すみだトリフォニーホール コロナ禍で指揮・ピアノのラルス・フォークトが来日できず出演者が変更。代役の指揮者が苦手で払い戻した。

11日(土)13:00 『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』演出・構成・ロベール・ルパージュ@Bunkamura シアターコクーン

26日(日)13:00 新国立劇場 こどものためのバレエ劇場 2020『「竜宮 りゅうぐう」~亀の姫と季(とき)の庭~』音楽:松本淳一/演出・振付:森山開次/美術・衣裳デザイン:森山開次/映像:ムーチョ村松/照明:櫛田晃代/振付補佐:貝川鐵夫、湯川麻美子/プリンセス 亀の姫:米沢 唯/浦島太郎:井澤 駿 @新国立劇場オペラハウス→コロナ禍で観客数を制限するため販売済みのチケットはすべて払い戻し、改めて販売し直すかたちとなった。 

6月のフィールドワーク予定 2020(中止の記録)【配信版の追記など】

 緊急事態宣言は5月25日をもって解除された。が、以下の通り、6月に予定していた公演もすべて中止。バレエの再演やオペラの新制作ももちろん残念だが、岡田利規版の夢幻能、鈴木雅明BCJ(コーラス)とN響とのコラボ『ミサ・ソレムニス』はぜひ見た(聴きた)かった。

新国立劇場の2020/2021シーズンセット券はオペラ・バレエのいずれもすべてキャンセルとなった(6月5日発表)。感染予防の措置として座席数を50%以下に削減せざるをえないためらしい。両部門とも新シーズンを楽しみにしていただけに残念だが、状況を見ればやむをない。吉田都新芸術監督のバレエ開幕作品に予定されていたピーター・ライト版『白鳥の湖』の新制作は来秋に延期となり、5月に中止となった『ドン・キホーテ』に変更された。「海外との連携協力はもとより、国内での準備作業もままならず、苦渋の決断とな」った由。バレエの新制作では海外から招いたスタッフからダンサーたちが新しい振付を教わり身体に入れなければならない。オペラの新制作よりは長い時間がかかるのだろう。

4日(木)19:00 『挫波(ザハ)』『敦賀もんじゅ)』作・演出:岡田利規音楽監督・演奏:内橋和久/出演:森山未來片桐はいり栗原類石橋静河、太田信吾/七尾旅人(謡手) @KAAT 第スタジオ →その一部を27日・28日に無料配信へ(下記)。

5日(金)19:00 新国立劇場バレエ『不思議の国のアリス音楽:ジョビー・タルボット/振付:クリストファー・ウィールドン/指揮:ネイサン・ブロック/美術・衣裳:ボブ・クロウリー/照明:ナターシャ・カッツ/照明リプロダクション:サイモン・ベニソン/台本:ニコラス・ライト/映像:ジョン・ドリスコル、ジュンマ・キャリントン/パペット:トビー・オリー/マジック・コンサルタント:ポール・キエーヴ/アリス:米沢唯/ハートのキング:タイ・キング=ウォール管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

6日(土)13:00 新国立劇場バレエ『不思議の国のアリス』アリス:小野絢子/ハートのキング:福岡雄大新国立劇場オペラハウス

6日(土)18:30 新国立劇場バレエ『不思議の国のアリス』アリス:池田理沙子/ハートのジャック:井澤 駿新国立劇場オペラハウス

14日(日)14:00 新国立劇場バレエ『不思議の国のアリス』アリス:アンナ・ローズ・オサリヴァン/ハートのジャック:渡邊峻郁新国立劇場オペラハウス

18日(木)19:00 #1943 N響 定演 Bプロ ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123》指揮:鈴木雅明/ソプラノ:アン・ヘレン・モーエン/メゾ・ソプラノ:オリヴィア・フェルミューレンテノールベンヤミン・ブルンス/バリトンクリスティアン・イムラー/合唱:バッハ・コレギウム・ジャパン管弦楽NHK交響楽団サントリーホール

21日(日)14:00 オペラ夏の祭典2019-20 Japan↔Tokyo↔World ワーグナーニュルンベルクのマイスタージンガー》(新制作)指揮:大野和士/演出:イェンス=ダニエル・ヘルツォーク/美術:マティス・ナイトハルト/衣裳:シビル・ゲデケ/照明:ファビオ・アントーチ/振付:ラムセス・ジグル/ハンス・ザックス:トーマス・ヨハネス・マイヤー/ファイト・ポーグナー:ビャーニ・トール・クリスティンソン・クンツ・フォーゲルゲザング:村上公太/コンラート・ナハティガル:与那城 敬/ジクストゥス・ベックメッサーアドリアン・エレート/フリッツ・コートナー: 青山 貴/バルタザール・ツォルン: 菅野敦/ウルリヒ・アイスリンガー:小原啓楼/アウグスティン・モーザー:伊藤達人/ヘルマン・オルテル:大沼 徹/ハンス・シュヴァルツ:長谷川 顯/ハンス・フォルツ: 妻屋秀和/ヴァルター・フォン・シュトルツィング:トミスラフ・ムツェック/ダーヴィット:望月 哲也/エーファ:林 正子/マグダレーネ:山下牧子/夜警:志村文彦/合唱:新国立劇場合唱団、二期会合唱団/管弦楽東京都交響楽団

【21日(土)20:00 調布国際音楽祭2020〈オリジナル楽器で奏でる音楽家100人が参加したオンライン合奏〉ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125 より第4楽章/指揮:鈴木雅明/ソプラノ:アン=ヘレン・モエン/アルト:オリヴィア・フェアミューレン/テノールベンヤミン・ブルンス/バス:クリスティアン・イムラー/合唱&管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン /エグゼクティブ・プロデューサー:鈴木優人】

聴き(観)応えがあった。

【22日(月)14:00 神田日勝 大地への筆触」展 東京ステーションギャラリー

前売り券を買っていたので時間帯は自由だった。馬の絵は「開拓の馬」(1966)を含めどれも素晴らしく、何より表情が可愛い。「死馬」(1965)には思わずグッときた。絶筆の「馬」(1970)は未完で腰から後ろ足は描かれていない。まるで「死馬」がヒョッコリこの世に姿を現したかのようだ。画家はその年に32歳で亡くなっている。

【28日(日)16:00「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」作・演出:岡田利規音楽監督・演奏:内橋和久/出演:森山未來片桐はいり栗原類石橋静河、太田信吾/七尾旅人(謡手)/映像:山田晋平、音響:稲住祐平、美術協力:中山英之、演出助手:石内詠子、制作:小沼知子 @YouTube配信/神奈川芸術劇場(KAAT)】

岡田版の夢幻能。前半は新国立競技場のデザイン案を撤回され急死した建築家ザハ・ハディドが、後半は廃炉が決まった敦賀高速増殖炉もんじゅがモチーフ。設定・演出の妙。じつに面白い! 岡田利規はやはり才能がある。机の上が舞台。壁には6月のカレンダー。シモテのガラス窓から時おり車の走りすぎる音。仕事帰りらしい人や、犬を散歩させる人なども通り過ぎる(状況劇場でテントが裂開したとき銭湯帰りのオジサンが見えたのを思い出した)。だが、決して顔は見えない(カメラの)絶妙な位置。窓外の往来は、パソコン画面で観ているこちらと同じ時間がそこにも流れていると感じさせる(あとで日の暮れ具合からイリュージョンだと分かるが)。机の上に和紙(?)が貼られた写真立てのようなものが登場のタイミングでその都度置かれ、そこに出演者の映像が映し出される。歌手と演奏者のそれは少し小さめ。何か可愛い。机の上方に木枠のようなモビールが吊されており、時折、揺れる。幽霊の気配のよう。音楽も歌も素晴らしい。片桐はいりのラップまがいの激した語りと内橋和久のエレキギターとのコラボはインプロのセッションみたいで楽しい。配信版は前ジテがハケるところまで。後ジテを含む全篇をぜひライブの舞台で観たい。

 

5月のフィールドワーク予定(中止・延期の記録)2020【改訂】

 今月はコロナ禍の真っ只中。観る予定の公演はほぼ中止か延期となった。後者すなわち中止を免れたのは BCJ定期とコンポージアム関連のみ。

舞台芸術を最後に観た/聴いたのは、オペラ 2月6日『セビリアの理髪師』(新国立劇場オペラハウス)、バレエ 2月26日『マノン』(同上)、コンサート 2月16日 BCJ定期(オペラシティコンサートホール)と軒並み 2月で、 3月に観られたのは三つの演劇公演のみ。「大規模なイベント」に該当しないと判断できたからだろう。その最後が 3月26日『歳月・動員挿話』(文学座アトリエ)。以来、生の劇場(音楽)芸術にはまったく触れていない。代わりに本や書類の整理とオンライン授業の準備に四苦八苦する毎日だ。

2日(土)14:00 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ音楽:レオン・ミンクス/振付:マリウス・プティパ/アレクサンドル・ゴルスキー/改訂振付:アレクセイ・ファジェーチェフ/美術・衣裳:ヴャチェスラフ・オークネフ/照明:梶 孝三/指揮:アレクセイ・バクラン/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団キトリ:米沢 唯/バジル:井澤 駿新国立劇場オペラハウス

3日(日)14:00 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』キトリ:木村優里/バジル:渡邊峻郁新国立劇場オペラハウス

4日(月)14:00 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』キトリ:柴山紗帆/バジル:中家正博新国立劇場オペラハウス

5日(火)14:00 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』キトリ:池田理沙子/バジル:奥村康祐新国立劇場オペラハウス

9日(土)14:00 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』キトリ:米沢 唯/バジル:速水渉悟新国立劇場オペラハウス

10日(日)14:00 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』キトリ:小野絢子/バジル:福岡雄大新国立劇場オペラハウス

16日(土)13:00 新国立劇場演劇『ガールズ&ボーイズ』作:デニス・ケリー/演出:蓬莱竜太/翻訳:小田島創志/美術:乘峯雅寛/照明:中川隆一/作曲:国広和毅/音響:信澤祐介/衣裳:前田文子/ヘアメイク:鎌田直樹/演出:助手平井由紀/舞台監督:川除 学/出演:長澤まさみ @新国立小劇場

17日(日)14:00 新国立劇場オペラ《サロメ》全1幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉作曲:リヒャルト・シュトラウス/原作:オスカー・ワイルド/指揮:コンスタンティン・トリンクス/演出:アウグスト・エファーディング/美術・衣裳:ヨルク・ツィンマーマン/[キャスト]サロメ:アレックス・ペンダ/ヘロデ:イアン・ストーレ/イヘロディアス:ジェニファー・ラーモア/ヨハナーン:トマス・トマソン/ナラボート:鈴木 准/ヘロディアスの小姓:加納悦子/5人のユダヤ人1:与儀 巧/5人のユダヤ人2:青地英幸/5人のユダヤ人3:加茂下 稔/5人のユダヤ人4:糸賀修平/5人のユダヤ人5:畠山 茂/2人のナザレ人1:北川辰彦2人のナザレ人2:秋谷直之/2人の兵士1:金子慧一/2人の兵士2:金子 宏/カッパドキア人:友清 崇/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

24日(日)15:00 BCJ #138 定演〈創立30週年記念演奏会〉ファンタジアとフーガ ト短調 BWV 542/《イエスよ、あなたはわが魂を》BWV 78/マニフィカト 変ホ長調 BWV 243a(初期稿)指揮:鈴木優人/ソプラノ:ジョアン・ラン、松井亜希/アルト:ロビン・ブレイズテノール櫻田亮/バス:ドミニク・ヴェルナー/オルガン:鈴木雅明/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン東京オペラシティ コンサートホール タケミツメモリアル→【12月16日(水)19:00に延期】

28日(木)19:00〈珠玉のリサイタル&室内楽ベートーヴェン《ホルン・ソナタヘ長調 Op.17《エコセーズ》変ホ長調 WoO.86 ※ピアノ・ソロ《6つのエコセーズ》WoO.83 ※ピアノ・ソロ/W.A.モーツァルト《バイオリン・ソナタヘ長調 K.377/ベートーヴェンモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」の「伯爵様が踊るなら」の主題による12の変奏曲》ヘ長調 WoO.40/ブラームス《ホルン三重奏曲》変ホ長調 Op.40スペシャル・トリオ:小菅 優(ピアノ)佐藤俊介(バイオリン)トゥーニス・ファン・デァ・ズヴァールト(ナチュラル・ホルン)ヤマハホール

29日(金)19:00 リーラ・ジョセフォウィッツ&トーマス・アデス デュオ・リサイタル/ヤナーチェク《ヴァイオリン・ソナタ》/アデス《マズルカ》op.27(2009)[ピアノ・ソロ]]アデス《新作》(2020)[日本初演][ルイ・ヴィトン財団、東京オペラシティ文化財団共同委嘱作品]/ストラヴィンスキー《協奏的二重奏曲》/ナッセン《リフレクション》(2016)/ラヴェル《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番》リーラ・ジョセフォウィッツ(ヴァイオリン)トーマス・アデス(ピアノ)@東京オペラシティ リサイタルホール2021年1月18日(月)に延期

31日(日)15:00〈コンポージアム2020武満徹作曲賞 本選演奏会〉/審査員:トーマス・アデス/指揮:杉山洋一(日程変更に伴い指揮者が篠﨑靖男から変更)/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団[ファイナリスト](エントリー順)シンヤン・ワン(中国)《ボレアス》/フランシスコ・ドミンゲス(スペイン)《MIDIの詩》/デイヴィット・ローチ(イギリス)《6つの祈り》/カルメン・ホウ(イギリス/香港)《輪廻》@オペラシティコンサートホール 2021年1月19日(火)に延期

文学座 3月アトリエの会 岸田國士フェスティバル『歳月/動員挿話』【加筆修正】

岸田國士の『歳月/動員挿話』を観た(3月26日 14:00/ 文学座アトリエ)。

美術:島根慈子、石井強司 照明:阪口美和 音響:丸田裕也 衣裳:宮本宣子 舞台監督:岡野浩之/制作:田中雄一朗、友谷達之、最首志麻子/宣伝美術:藤尾勘太郎

当初は他の公演と重なり諦めていた。が、予定の行事やバレエ公演等が新型コロナで続々中止となり、急遽、信濃町へ。見られてよかった。 岸田國士の対話劇の妙、科白の韻律美。こんな日本語はもう誰も書けない。『歳月』の演出(西本由香)は正攻法。転換でのギター曲や終幕のピアノ生演奏が印象的。『動員挿話』の演出(所奏)は大胆不敵。出鼻は違和感を覚えたが、ぐいぐい引き込まれ、全て科白に誘発されての発話/演技と納得した。

岸田國士については少し調べたことがある。感想を述べる前に、まず、この二作にまつわるメモを記したい。

「或こと」を言ふために芝居を書くのではない。/芝居を書くために「何か知ら」云ふのだ。(「言はでものこと」1924年

これは劇作家 岸田國士(1890-1954)の信条である。「『或こと』を言ふために芝居を書く」とは、「或る内容」や「思想」を表現するのが目的で、芝居や戯曲は二の次(手段/形式)という意味だ(両者は不可分だが)。これだと、内容や思想さえよければ、形式(演劇)はどうでもよいことになる。こうした考えが横行する「新劇界」に岸田は不満だった。

岸田にとって、演劇(戯曲)の価値を決めるのは、演劇を演劇たらしめる〝演劇性〟であり、それ以外のもの(主義主張や文学的要素)ではありえない。大事なのは「戯曲(演劇)でなくては現はせないもの」を捉まえることだ。

この信条から岸田は多くの戯曲を書いたが、今回の『歳月』(1935)は、岸田いわく「これが偶然私の『戯曲を書くために何か知らを云ふ』最後の作品となった。少なくとも、この種の天下泰平劇はここ当分書けさうにもない」と(「『歳月』前記」1939)。翌1936年、岸田は『風俗時評』と題する「戯曲ならざる戯曲」を「初めて『何かを云うために』書」き、これが岸田の転機となった*1。『風俗時評』は、脱稿直後【正確には掲載誌発売の一週間後】に起きた二・二六事件の空気を先取りした、ヒリヒリするような作品だ。この後、1943年に『かへらじと——日本移動演劇連盟のために』を書くまでの7年間、岸田は一篇の戯曲も書いていない(小説は別)*2。その背景にはもちろん戦争があった。ちなみに「『或こと』を言ふために」意識的に書いた最初の戯曲は、彼の唯一の戦争劇『かへらじと』であり、『風俗時評』は、図らずも書いてしまった、という方が当たっていると思う。

『動員挿話』(1927)の時代設定は「明治37(1904)年の夏」、日露開戦の年である。これは、明治の軍人家庭に生まれ、自らも陸軍士官学校へ進んだ後、文学に転じた経歴を持つ岸田國士にとって、個人的な意味があった。本作の宇治少佐同様、岸田の父庄造(当時少佐)は、この1904年に野戦砲兵第三連隊大隊長として出征し、同年9月、14才の國士は軍人を志して名古屋地方幼年学校に入学した 。つまり本作は、結局は軍職を捨てた劇作家が、軍人への志を初めて行動に移した23年前の我が家を題材にした作品である。

馬丁友吉と数代が過去に「痴情沙汰」を起こした挙げ句、夫人のとりなしで夫婦になったいきさつがほのめかされる場面があるが、これも、國士が幼少期に岸田家で実際に目撃した事件を基にしている*3 。つまり『動員挿話』の登場人物は、一般の観客や読者の眼には(当時としてもある程度は)特殊に見えるとしても、この作家には、きわめて身近な題材から作り出されたものである。

『動員挿話』は戦争に関わる内容ゆえに「或ることを言ふために」例外的に書いたと見る向きもある*4。本作が結果として「何か知ら」を語っていることは否定しない。というか、どの戯曲も「何か知ら」を表現しているだろう。当然のことだ。たとえば、数代の科白に見出せる〝反戦〟はいま観て(読んで)も説得的だが、これも、演劇美を実現するために創られた科白(動作と言葉)の絶妙なる「韻律的な配列」の結果、生まれた「何か知ら」にすぎない。

以下、それぞれ簡単にメモする。

『歳月』全3幕(1935)演出:西本由香

[配役]浜野計蔵:中村彰男 浜野計一:神野 崇 浜野紳二:越塚 学 浜野駒江:名越志保 友人(後に浜野)礼子:吉野実紗 浜野八洲子:前東美菜子 女中:音道あい (八洲子の長女)みどり:磯田美絵

 元高級官吏の浜野家が舞台。結婚前の長女が子を孕み自殺を図った事件を起点に、子の父親が〝不在の狂言回し〟となり、17年にわたる歳月で家族が変化していくさまを描く。場面転換の音楽はギター版モーツァルトか。初めは交響曲第40番のアンダンテ(第2楽章)? 幕切れは《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》の冒頭。ギター版を採用したのは、登場しない狂言回し(齋木一正)が「ギタアがそれやお上手だつた」(礼子)からだろう。岸田の悲喜劇はモーツァルトと相性がよい。…… 第3幕で、17歳となったみどり(磯田美絵)は、訪ねて来た顔も知らない父が別室で母と再会している間、伯母の礼子がよく「癇癪を起して、ガンガン音を出して」いた「熱情的」なショパンの「こがらし」を暗譜で弾き、父が帰ると、未来を予感させるグリーグの「春に寄す」を弾いて幕となる。大した腕前。

舞台は総じて悪くないが、どの俳優も、もう少し声を抑えてもよい。特にアトリエなどの小劇場では、そこまで強く声を出さなくても充分聞き取れる。岸田の場合、何より対話劇の音楽(韻律)を大事にして欲しい。八洲子役の前東美菜子は思いのほか声が低く太く、作品のイメージとは違った。神野崇は仕事にも就かず結婚もせずの長男役をうまく演じていた。母の名越志保は老け役を品良く演じて印象的。

『動員挿話』全2幕(1927)演出:所 奏

[配役]宇治少佐:斉藤祐一 馬丁友吉:西岡野人 従卒太田:西村知泰 少佐夫人鈴子:鈴木亜希子 数代:伊藤安那 女中よし:松本祐華

本作は、内容だけ抽出すれば、陸軍少佐に仕える馬丁の女房が夫の従軍に反対し井戸で自殺する話である。舞台にはなにもない。暗がりで上からモノが落下する音。座布団だった。あと旅行鞄も。天から人間に降りかかる。何かの隠喩か。天災、戦争、コロナ? 従卒太田の妙な動き。衝撃を受けた空間と見合っている、そういえなくもない。少佐夫人(鈴木亜希子)の対し方も奇妙。宇治少佐(斉藤祐一)と夫人は二人きりになると、思わず、磁石のように互いに引き寄せられる(ローラン・プティ振付のバレエ『こうもり』でベラとヨハン夫婦も同じ動きをする)。

本作の主軸は、少佐夫婦と馬丁夫婦という身分の異なるふたつのカップルだ。両者が動員に際して見せる態度の違いが芝居のツボのひとつ。普通はそう。たとえば、鈴子は数代のようにあからさまな態度はとらず、軍人妻ゆえに気丈に振る舞う。だが、鈴子だって夫が戦地に行くのは辛いし悲しいはずだろう(実際、本作の第一稿では、鈴子は夫の前で悲しみを直接的にも間接的にもさほど隠さない*5)。今回の少佐夫婦がにじり寄る動きは、二人の正直な内側を身体的に告げるものと見れば、これもアリだと、あとで思った。

言葉の語尾は所々で強調され、引き延ばされる。ディストーション? デフォルメ? 当初は地点の舞台(←苦手)を思い出し、ウェっと思ったが、どうもそれとは違う。岸田の科白の気持ち好さ、つまり音楽性(心理的波動)と呼応しているようなのだ。つまり、科白の韻律や意味が誘発するものに躊躇なくかたちを与えるとこうなった、そんな感じ。結果はコミカルで少々グロテスクでもあるが、芝居が進むにつれて、そこから感情や情動がみるみる湧き上がり、舞台に釘付けになった。たとえば第2幕の馬丁夫婦の部屋。夫の従軍を拒絶した数代(伊藤安那)は、友吉の代わりが見つかれば屋敷を出て行くことになっている。そこへ夫人が現れ、数代に優しい言葉をかける。しかし数代は、蔑みを受けるだけでは足りず、憐れみを受けなければならないのか、と泣き崩れるのだ。この泣き方も今時の女性と等身大で、なにか虚を突かれた。そこへ友吉(西岡野人)が入ってきて、やはり戦地へ行くことにしたと言い、夫婦の緊迫した対話の果てに悲惨な結末が……。

93年前に書かれた科白を、いまの役者の身体にひとつひとつ丹念にくぐらせていく。結果、途方もない仕草(科)や発話(白)が現出しても、あえてそれを採用する。そう見えた。その勇気は見事だと思う。この点、5日前に観た『冬の時代』の舞台(unrato/芸劇シアターウェスト)とは対照的だった。所奏の名前は覚えておきたい。

それにしても、どうして文学座にはこんなにいい役者が揃っているのだろう。文学座には、ぜひ『かへらじと』を上演してほしい。『風俗時評』も(かなり工夫が必要だと思うが)。

*1:1936年以降、現代演劇の再建という年来の悲願をいったん封印し「『新劇』から手を引いた」岸田國士は 、「根本的な工作に転じ」日本の文化を再建すべく評論を発表した。また大政翼賛会文化部長として(1940年10月~42年7月)文化運動を推進すべく全国を講演して回り、対談やラジオ放送等もこなした。こうした活動を通して訴えた岸田の〝戦争文化論〟とは、日本の伝統文化を現代に復興させ「力としての文化」の新たな建設と共に、人間性(人間といふものはどんなものかといふこと)についての認識の共有を促すことだった。認識の共有と新文化の建設は密接に関連しているが、岸田は、「この共通な認識」が「今無ことが、結局はいざといふ場合に、国民の本当の力を出し切ることのできない最大原因だと思ふ」と、表明していた(「文芸雑談」1940年12月) 。岸田だこう書いてから80年経つが、「この共通な認識」は未だに無い。

*2:演劇が、小説や詩等の文学と比べ、きわめて社会性の高い芸術分野であることと無関係ではない。演劇は、作者と観客のほかに、俳優、演出家、装置家、さらに劇場等の社会的な存在なしには成立しえない。

*3:「風呂場が騒々しかつた。朝である。/母の後ろからなかをのぞくと、女中のよしが、壁にもたれて泣いてゐる。馬丁のオカドが右手に木鋏を持つて、そのそばに立つてゐる。よしの髪の毛が半分、オカドの左の手から垂れてゐた」。「痴情沙汰」「『追憶』による追憶」(1926年)『岸田國士全集』20(岩波書店、1990年)

*4:渡邊一民『岸田國士岩波書店、1982年

*5:『動員挿話』にはヴァリアントが存在する。「第一稿」は1927年7月1日発行の『太陽』に掲載され、2ヶ月後「帝国劇場9月興行上演台本」と副題された「改作 動員挿話」が『演劇芸術』(同年9月1日発行)に発表された。もちろん後者が決定版。

劇団銅鑼公演 No. 54 詩森ろば『蝙蝠傘と南瓜』& unrato #6 木下順二『冬の時代』

『蝙蝠傘と南瓜』(3月20日 14:00/銅鑼アトリエ)と『冬の時代』(3月21日 15:00/東京芸術劇場 シアターウエスト)の2日目を観た。

『蝙蝠傘と南瓜』は詩森ろばが劇団銅鑼のために書いた新作で、幕末から明治への激動期に日本(世界)初の女性写真家となった島隆と彼女を支えた夫の霞谷(和製ダ・ヴィンチ)の奮闘を描いたもの。

『冬の時代』は木下順二が半世紀まえ劇団民藝に書き下ろした作品(1964)で、明治の終りから大正にかけて、大逆事件後の閉塞した時代に社会変革への闘志を燃やす若者の群像を描いたもの。

詩森も木下も歴史にこだわる劇作家で、この二作とも実在した人物たちの歴史にフィクションを交えて描いている。さらに、銅鑼は民藝を退団した鈴木瑞穂【『冬の時代』初演では飄風(大杉栄)役】らが1971年に結成した劇団だ。新型コロナウィルスの影響で公演中止が相次いだ後、初めて見たのが、奇しくもこの二作となった。しかも連続で。偶然だとしても、いろいろ考えたくなる。

そこで今回は、二つの舞台をまとめてそれぞれ簡単にメモしたい。

『蝙蝠傘と南瓜』作・演出・衣裳:詩森ろば/美術:杉山 至/照明:榊美香/音楽:後藤浩明/音響/青木タクヘイ/舞台監督/村松眞衣 舞台監督助手/植木 圭/演出助手/池上礼朗 バリアフリーサービス/佐藤響子/制作/田辺素子/[キャスト]島 隆(日本初の女性写真師):林田麻里(ラッキーリバー)/島 霞谷(画家・写真家):館野元彦/小林小太郎(学者):山形敏之/高橋由一(油絵画家):野内貴之/川上冬崖(水彩画家):鈴木正昭/厳田信吾(開成所頭取):佐藤文雄/厳田チヅ(厳田新吾の娘):宮﨑愛美/お榮(葛飾北斎の娘 日本画家):金子幸枝/雪之介(役者):齊藤千裕/千代吉(役者):竹内奈緒子/ツタ(浅草料亭の仲居):北畠愛美/サト(浅草料亭の仲居):早坂聡美/山森鹿雄(郷土史研究家 Wキャスト):山田昭一 千田隼生/柏木尚子(地方新聞記者):馬渕真希 

 地方新聞記者(馬淵)と郷土史研究家(千田)を媒介に過去の歴史を描く手法は、『残花——1945 さくら隊 園井恵子』(2016)と似ている。今回はその中間に当時の役者二人(齋藤・竹内)を語り手として挿入しているが。

桐生にある島隆の実家の土蔵をセットの中心に据え、その扉を開けると玉手箱(蓑崎昭子/プログラム)のように島 隆(りゅう)と霞谷(かこく)の物語が文字通り〝飛び出して〟くる。回転するセットが空間を広く見せ、時間をワープさせる効果も秀逸だ(美術:杉山至)。

島隆役の林田麻里はどこかで見たと思いきや『残花』で園井恵子を演じた女優だった。快活でチャーミングかつ華もあり、見ていて楽しい。夫の島霞谷役には銅鑼のエース館野元彦が配役され、質の維持に貢献した(年下の夫には見えなかったが)。葛飾北斎の娘お榮役の金子幸枝はたぶん初めて見た(最近の入団か)。褒められるのが苦手でちょっとぶっきら棒な役柄をとても自然に演じ、いい味を出していた。そのセリフ「真ん中が変わらなきゃ」は、時代を超えて、現政権を射貫いていた。隆が幕切れ近くで言う、女が社会で活かされるには男の頭の中身が変わらなければ、も痛烈だ。見終わった後、日本は民衆が立ち上がり、手ずから社会を変革したことが一度もないという事実を、その重さを再認識させられた(そのツケがいま回ってきている)。歌あり踊りありのエンターテイニングな装いだが、要所にわれわれの〝いま〟を再考させる素晴らしい舞台。

木下順二『冬の時代』(初演:1964)演出:大河内直子/美術:石原 敬/照明:大島祐夫/音響:早川 毅/衣裳:小林巨和/音楽:阿部海太郎/舞台監督:齋藤英明/制作:筒井未来/プロデューサー:田窪桜子 西田知佳/[出演]渋六(堺利彦):須賀貴匡、飄風(大杉栄):宮崎秋人、奥方(堺為子):壮一帆、ショー(荒畑寒村):青柳尊哉、ノギ(高畠素之):池田 努、不敬漢(橋浦時雄):溝口悟光、文学士:若林時英、デブ(白柳秀湖):山下雷舞、キリスト:結城洋平、テの字/コの字(寺本みち子):小林春世、エンマ(伊藤野枝):佐藤 蛍、小僧:戸塚世那、二銭玉(山川均):井上裕朗、お婆さん:羽子田洋子、奉公会/角袖:青山達三

演出家が、いま、この作品に挑戦した気概は買いたい。だが、残念ながら、なぜいまこの戯曲を上演するのか、その理由が舞台からは見えない。俳優たちは健闘したと思う。以下の感想メモは俳優ではなく、ほぼ演出に向けたもの。

 冒頭でマスクを付けたフーディ姿の少年が現れ、雷鳴と共に驚いて走り去ったのち場面が変わり、「冬の時代」の舞台となる。いまを作品世界(約100年前)へとつなぐ趣向のよう。

第1幕。渋六(堺利彦)売文社の執務室。ショー(荒畑寒村)や飄風(大杉栄)らが熱く議論を戦わせる。その熱は感じられるが、それがどこから来るのか。彼らはなんのために社会主義を信奉し、それを遂行しようとしているのか。手法の違いがあるとき、自分の正しさを必死で主張するのは何のためか。セリフ(言葉)の中身より何が何でも〝情熱〟を表出しようとしているかのよう。結果、一本調子。笑える所も笑いが出ない。お婆さんの在り方はよい。奉公会も。第1幕ラストの女性二人(テの字嬢と奥方)の登場と演技のあり方はあれでよいのか。

第2幕。三年後の同執務室。その場で生み出されたと思える発話は残念ながらあまりない(しずかに語る所はとてもよい)。覚えたセリフを必死で発しているようにしか感じられない(長く難しいセリフを覚えるのは大変だったとは思う)。熱を出そうとするあまり、思い切り叫ぶからこうなるのだろう。渋六は受ける役なのだから、もっと受けて(聞いて)、そこから発するあり方が(演出として)なぜ採れなかったのか。幕切れで旗揚げの宣伝文を読むよう渋六に言われて奥方が読み上がるシーンも、ここまで感情移入するようディレクトするのはなぜなのか。淡々と読むほうが自然だし、意味もよく伝わるはず。かすかに聞こえた子供(赤ちゃん)の声の効果音は、たぶん、未来の命へ引き継ぐ意図なのだろうが……。

第3幕。さらに三年後の執務室。足を引っ掛けて椅子を倒しまくるエンマ(伊藤野枝)のおっちょこちょい振り等々。…… 渋六「人間自然の感情を圧し殺す社会制度は必ず変革しなきゃならんということさ。——いま生きている人たちのためにも、死んでしまった人たちのためにも。そのために闘って行かなきゃならんということさ」。これがほぼ最後のセリフ。終わり頃、冒頭のフーディの少年が舞台後方の冬枯れの木に現れる。少し前から桜の花が上から落ちてきている。少年は渋六夫妻を驚いたような表情で見る。二人が客席の通路を通って捌けると、少年はステージに上がり、机の上から二人の去った方角を見つめ、決然とマスクをして走り去る。照明が落ち、英語のスピーチが聞こえてくる。小さくてよく聞き取れなかったが、たぶんトランプ大統領が新型コロナウィルスを「中国ウィルス」と人種差別的に言及しているスピーチだと思う。

なぜ観客にはほとんど解せない英語のスピーチを使うのか。いまのわれわれも、渋六らのように「闘って行こう」とのメッセージを込めたいのだろうが、何と闘うのか。マスクをした少年からすると、コロナウィルスと? スピーチからすれば、人種差別的なアメリカの大統領トランプと? いずれにせよ、闘う相手が違うだろうと言いたい。たとえば、第3幕の掃除のお婆さんのセリフは、飄風(大杉栄)や渋六(堺利彦)やショー(荒畑寒村)やノギ(高畠素之)らがそのために身体を張って闘っている対象(労働者)の声として、運動のあり方そのものを相対化し批判する力があるはずだ。が、叫ばせてしまってはその効果が半減する。

蜷川幸雄の影響なのか。蜷川の舞台は1980年の『ニナガワ・マクベス』以来、数多く見てきた。たしかに彼の舞台では、演目(シェイクスピアギリシャ悲劇等)や劇場の大きさ等から、必然的にテンションの高い発話が多かった。だが、今回は現代劇であり対話劇だ。もっと普通に発話してほしい。大事なコトバを声高に叫んでしまっては、伝わるものも伝わらない。

よい俳優たちが揃っていたとは思う(ノギの池田努は理知的な役柄ゆえにさほど叫ばなかったせいもありリアルで印象的)。そもそも、いまの若い俳優に、百年前の堺利彦大杉栄らに似せるのはまず論外だが、1963年の初演時のように演じる必要すらないと思う。当時といまとでは状況も人間もあまりに違っている。思い切って、いまの俳優(若者)たちに出来るだけ違和感なく自然なあり方で上演する手もあったのではないか。せっかく劇作家の養女に「若い方に取り組んでほしいのよ。自由におやりなさい」と言われたのなら、なおさらだ。木下順二本人も言っているではないか、「僕は昔から怒鳴る演技が嫌いなんだ」と(平田オリザ木下順二先生の思い出」プログラム)。叫ばずともセリフや行動(演技)に熱を持たせることはできるはず。それが見たかった。

『冬の時代』が初演された5年後、世界を変えようとした学生たちに、三島由紀夫は「諸君の熱情は信じます」と言い残して去った。映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が上演より前に公開されていたらよかった。

 

4月のフィールドワーク予定 2020/コロナと劇場【さらにさらに中止が】【振替←中止】【加筆】

劇場文化の成立条件は、実演者と観客のからだが「いま、ここ」に現前するという一事につきる。両者のあいだで絶えず行き来する精神的なエネルギーの交換(目にみえない糸を通じての感情の交流)によってこそ、舞台は命をもつからだ(スタニスラフスキー)。新型コロナウィルスの感染が広がったいま、人の身体が同じ時空に存在することで感染リスクを生む。舞台公演が続々と中止に追い込まれる所以である。実演芸術の命が生まれる条件と疫病の感染リスクが表裏だというのは、なんともやるせない。一方で、この事実は、ペストを演劇(劇場)の分身として論じたアントナン・アルトーの認識を想起させる。社会のこれほど完全な崩壊、有機体のこのような混乱……。ペストは眠っているイメージの数々、潜在的な混乱を取りあげて、それを一気に最も極端な行動にまで持っていく。そして演劇もまた、行動を取りあげて、それを極限にまで追いつめる。ペストと同様に演劇は、あるものとないものとの間を、可能なものの潜在能力と物質化された自然のなかに存在するものとの間を、再び鎖で結びつける。……演劇は、ペスト同様……数々の葛藤を明るみに出し、いろいろな力を解き放ち、種々の可能性に火を付ける。そして、もし、その可能性や力が陰惨であったとしても、それはペストや演劇の罪ではなく、生の罪なのである》(『演劇とその分身』安藤信也訳)。疫病と演劇(劇場文化)と生と不可分な関係……。コロナ関連のニュースが飛び交う昨今、アルトーに触発されたという津野海太郎の『ペストと劇場』(1980)を無性に読み返したくなった。すでに中止が決まった公演も記録のため記す(3月18日)。

【さらに中止の告知が続き、いま現在(3月27日)、残った公演はBCJの《マタイ受難曲》(4/10)、新日本フィルのトリフォニー定演(4/17)そして新国立オペラの《ホフマン物語》の三つだけ。新国立は海外アーティストが来日できないからまず無理だろうし、新日本フィルもこれまでの流れから難しそう。一縷の望みはBCJだ。危機的な状況化で《マタイ》をやるのは大変意義深い。万全の対策を講じたうえで、ぜひ開催してほしい。】

【新国立オペラ《ホフマン物語》は予想通り中止。BCJの《マタイ》は予定のコンチェルティストらが海外ゲストなのでどうするかと思っていたが、中止ではなく8月3日に延期。とりあえずよかった。(3月30日)】

新国立劇場は緊急事態宣言に伴い中止期間を5月10日まで延長。したがって、演劇『反応工程』と、5月2日からのバレエ『ドン・キホーテ』6公演もすべて中止。新日本フィルからの発表はないが、まず無理だろう。(4月7日)】

【やはり17日の新日フィル定演も中止に。これで今月予定していた9公演が全滅。文化芸術自体の壊滅を防ぐには救済措置が必須。だが、首相は「個別救済」はしないというし、フリーランスを含む個人事業者への給付も条件が厳しく手続きが煩雑でスピード感もない。欧米での手厚い救済がリアルタイムで聞こえてくるだけに、失望どころか怒りすら湧く。ドイツでは文化大臣が「文化は良き時代においてのみ享受される贅沢品などではない」と明言し、フリーランスの芸術家に「速やかな、官僚的ではない救済策をとる」と約束した(モニカ・グリュッタース)。そもそも日本には文化省が存在しない(文化庁長官と文部科学大臣は居るが…)。生命より経済、文化芸術より経済。何が何でも経済/金。現政権を、この国を支配する価値観はこれだ。(4月8日)】

2日(木)15:00 東京春祭 ワーグナー 楽劇《トリスタンとイゾルデ》(全3幕) 指揮:マレク・ヤノフスキ/トリスタン(テノール):アンドレアス・シャーガー/マルケ王(バス):アイン・アンガー/イゾルデ(ソプラノ):ペトラ・ラング/クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ/メロート(バリトン):甲斐栄次郎・ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):エレーナ・ツィトコーワ/牧童、若い水夫の声(テノール):菅野 敦/舵取り(バリトン):高田智士/管弦楽NHK交響楽団/合唱:東京オペラシンガーズ/合唱指揮:トーマス・ラング、宮松重紀/音楽コーチ:トーマス・ラウスマン/映像:中野一幸 @東京文化会館

4日(土)19:00 青年団プロデュース公演/尼崎市第7回「近松賞」受賞作品/座・高円寺 春の劇場01/日本劇作家協会プログラム『馬留徳三郎の一日』作:髙山さなえ/演出:平田オリザ/出演:田村勝彦(文学座)羽場睦子(フリー)猪股俊明(フリー)山内健司 山村崇子 能島瑞穂 海津 忠 折原アキラ/声の出演:永井秀樹/舞台美術:杉山 至/照明:三嶋聖子/音響:櫻内憧海/舞台監督:中西隆雄/演出助手:野宮有姫/衣裳:正金 彩/衣裳補佐:原田つむぎ/フライヤーデザイン:京(central p.p.)/制作:有上麻衣/制作助手:河野 遥 @座・高円寺

6日(月)19:00〈ウィーンプレミアコンサート〉J.S.バッハ管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV1067(フルート独奏:エルヴィン・クランバウアー)/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 Op.37(ピアノ独奏:小菅 優)/J.S.バッハオーボエとヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調BWV1060(オーボエ独奏:ベルンハルト・ハインリヒス、ヴァイオリン独奏:フォルクハルト・シュトイデ)/ベートーヴェン交響曲 第5番 ハ短調「運命」 Op.67//管弦楽トヨタ・マスター・プレイヤーズ,ウィーン/芸術監督・コンサートマスター:フォルクハルト・シュトイデ(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスター)/[ソリスト]ヴァイオリン:フォルクハルト・シュトイデ/フルート:エルヴィン・クランバウアー(ウィーン交響楽団ソロフルート奏者)/オーボエ:ベルンハルト・ハインリヒス(チューリッヒ歌劇場管弦楽団ソロオーボエ奏者)/ピアノ:小菅 優 @東京オペラシティコンサートホール

7日(火)17:30 新国立劇場オペラ ヘンデルジュリオ・チェーザレ》全3幕[イタリア語上演/日本語及び英語字幕付]指揮:リナルド・アレッサンドリーニ/演出・衣裳:ロラン・ペリー/美術:シャンタル・トマ/照明:ジョエル・アダム/ドラマトゥルク:アガテ・メリナン/演出補:ローリー・フェルドマン/舞台監督:大仁田雅彦/ジュリオ・チェーザレ:アイタージュ・シュカリザーダ/クーリオ:駒田敏章/コルネーリア:加納悦子/セスト:金子美香/クレオパトラ:森谷真理(ミア・パーションはキャンセル)/トロメーオ:藤木大地/アキッラ:ヴィタリ・ユシュマノフ/ニレーノ:村松稔之/合唱指揮:冨平恭平/合唱:新国立劇場合唱団・管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団/芸術監督:大野和士 @新国立劇場オペラハウス

10日(金)18:30 BCJ #137 定演 J.S.バッハマタイ受難曲》BWV244 指揮:鈴木雅明エヴァンゲリスト:ジェイムズ・ギルクリスト/ソプラノ:ジョアン・ラン、松井亜希/アルト:ジョン・ミンホ、青木洋也/テノール櫻田亮/バス:ベンジャミン・ベヴァン、加耒徹/合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン @オペラシティコンサートホール←8月3日(月)に延期

11日(土)13:00 新国立劇場 演劇『反応行程』作:宮本 研/演出:千葉哲也/美術:伊藤雅子/照明:中川隆一/音響:藤平美保子/衣裳:中村洋一/ヘアメイク:高村マドカ/方言指導下:川江那/演出助手:渡邊千穂/舞台監督:齋藤英明/出演:天野はな 有福正志 神農直隆 河原翔太 久保田響介 清水 優 神保良介 高橋ひろし 田尻咲良 内藤栄一 奈良原大泰 平尾 仁 八頭司悠友 若杉宏二 @新国立小劇場←払い戻しか14日以降へ振り替え

12日(日)15:00 東京春祭 ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》指揮:マレク・ヤノフスキ/ソプラノ:イヴォナ・ソボトカ/メゾ・ソプラノ:エリーザベト・クールマン・テノールクリスティアン・エルスナー・バス:アイン・アンガー/管弦楽東京都交響楽団・合唱:東京オペラシンガーズ・合唱指揮:トーマス・ラング/合唱指揮:宮松重紀 @東京文化会館

【14日(火)14:00 新国立劇場 演劇『反応行程』作:宮本 研/演出:千葉哲也/美術:伊藤雅子/照明:中川隆一/音響:藤平美保子/衣裳:中村洋一/ヘアメイク:高村マドカ/方言指導下:川江那/演出助手:渡邊千穂/舞台監督:齋藤英明/出演:天野はな 有福正志 神農直隆 河原翔太 久保田響介 清水 優 神保良介 高橋ひろし 田尻咲良 内藤栄一 奈良原大泰 平尾 仁 八頭司悠友 若杉宏二 @新国立小劇場】←11日から振り替えた←緊急事態宣言に伴い中止

17日(金)19:15 新日本フィル定演 #618 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉レオポルド・ヴァン・デア・パルス:交響曲第1番 嬰ヘ短調 op. 4/ラフマニノフ交響曲第2番 ホ短調 op. 27(ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 op. 30から変更)/指揮:上岡敏之 @すみだトリフォニーホール

19日(日)14:00 新国立劇場オペラ オッフェンバックホフマン物語》全5幕〈フランス語上演/日本語及び英語字幕付〉指揮:マルコ・レトーニャ/演出・美術・照明:フィリップ・アルロー/衣裳:アンドレア・ウーマン/振付:上田 遙/[キャスト]ホフマン:レオナルド・カパルボニ/クラウス+ミューズ:小林由佳オランピア:安井陽子/アントニア:木下美穂子/ジュリエッタ:横山恵子/リンドルフ+コッペリウス+ミラクル博士+ダペルトゥット:カイル・ケテルセン/アンドレ+コシュニーユ+フランツ+ピティキナッチョ:青地英幸/ルーテル+クレスペル:大久保光哉/スパランツァーニ:晴 雅彦/シュレーミル:須藤慎吾/アントニアの母の声+ステッラ:谷口睦美/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団/合唱:新国立劇場合唱団 @新国立劇場オペラハウス

 

新国立劇場バレエ『マノン』2020 新たなマノン像

『マノン』のゲネプロ、初日、2日目、3日目を観た(2/21 金,22 土,23 日 14:00,26 水 19:00/新国立劇場オペラハウス)。

このバレエ団が『マノン』を上演するのは、2003年、2012年に続き三回目。

初日と2日目は米沢/ムンタギロフ/木下。ゲネプロと3日目は小野/福岡/渡邊。4日目(米沢/井澤/木下)と5日目(3日目と同じ)はコロナウィルスの影響で中止。

初日は終演後、茫然自失。米沢唯の「いのちがけ」に全身全霊で呼応するムンタギロフ。その誠実さ。二人のスタイルは必ずしもマクミラン的とはいえないが、その場で生まれた〝舞台の命〟に全身が震えた。

レスコーの木下嘉人、ムッシューG.M.の中家正博も素晴らしかった。途中、木下レスコーの酔っ払いの踊りあたりから客が拍手しなくなった。ただならぬものに立ち会っていることを感じ始めた証しだろう。〝舞台の命〟は生身のダンサーにみならず、こうして見守る生身の観客なしにはありえなかった。

米沢唯のマノンは、プレヴォより後の、ロマン主義時代に形成された所謂「ファム・ファタール」的悪女像とは異質である。また、インモラルに見える行動の背景に貧困を読み取り、「マノンは貧乏になることを恐れたというよりも恥じたのだ。あの時代の貧困は、長く緩慢な死に相当した」とみるマクミランの解釈(ジャン・パリー『別の鼓手』)とも*1。むしろ米沢は、既成のマノン像はすべて括弧に入れて、プレヴォがデ・グリューの視点を通して描いたマノンを、丹念に自分のからだにぐくらせて、デ・グリュー同様きわめて誠実なムンタギロフと舞台の内外で対話しつつ生きてみた。結果、あのマノンが生まれた。そういうことではないか。

久し振りにプレヴォの小説『マノン・レスコーシュヴァリエ・デ・グリュとマノン・レスコーの物語)』を新訳で読み直した(光文社古典新訳文庫 2017)。意外にも、活字から浮かび上がるマノンのイメージは、米沢マノンとさほどの距離を感じなかった*2

マノンという女性は、語り手のルノンクール公爵にとって「何ともやさしく、魅力あふれる慎ましい様子」を見せ「上流の令嬢」にも思われる一方で、デ・グリューを何度も裏切り、「魅力はあるが不実な女」とデ・グリューにいわしめる。ゆえに公爵(語り手)は「女というものの理解しがたさ」について思索せざるえない。この思索は、米沢唯の模索と繋がっているように思える、「私も含めて女という、不条理の底の、普遍的な何かを見つけて、少しずつ手繰り寄せ、演じていきたいと思います」(ミニ・インタビュー「The Atre」2月号)。

以下、例によって、だらだらとメモする。

振付:ケネス・マクミラン(初演1974)/音楽:ジュール・マスネオーケストレーション・編曲:レイトン・ルーカス,編曲協力:ヒルダ・ゴーント/美術・衣裳:ピーター・ファーマー/照明:沢田祐二/新オーケストレーション・編曲(1911)・指揮:マーティン・イェーツ(イエイツ)/管弦楽:東京交響楽団

マノン:米沢 唯/デ・グリュー:ワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤルバレエ・プリンシパル)/レスコー:木下嘉人/ムッシューG.M.:中家正博/レスコーの愛人:木村優里/娼家のマダム:本島美和/物乞いのリーダー:福田圭吾/看守:貝川鐵夫

高級娼婦:寺田亜沙子(2日目は渡辺与布) 奥田花純 柴山沙帆 細田千晶 川口 藍

踊る紳士:速水渉吾 原 健太 小柴富久修

客:宇賀大将 清水裕三郎 趙 戴範 浜崎恵二朗 福田紘也

当日掲示のキャスト表は簡略にすぎる。以前の販売プログラム同様、もっと詳細なものを示して欲しい。

 第1幕

1場 パリ近郊の宿屋の中庭

冒頭はオラトリオ『聖母』第四場の前奏曲「聖母のとわの眠り」。本作は冒頭と結末にマノンへの祈りの音楽が奏される。幕が開くと木下レスコー(原作では素行のよくない近衛兵)が舞台中央に片膝を立てて座り、客席の向こうを見つめている。佇まいがとてもよい。木下はワルの感じがシャープな踊りや動きに滲み出る。米沢マノンとの兄弟の絆もOK。愛人木村は踊りはシュアーに見える(わたし絶対に失敗しないので的な)が、娼婦/愛人としての甘さや可愛げが欲しい気もする。ムンダギロフ=デ・グリューはまさに育ちのよい(元)神学生。登場したマノンは歌曲『田園詩』の「黄昏」*3に合わせて、片脚を交互に動かすステップ(ロン・ドゥ・ジャンブ? プティ・バットマン?)が印象的。ライトモティーフのステップ版か(続く2・3幕でもマノンは登場の度に同じ音楽で同じステップを見せるが、その分、彼女の変化がより際立つ)。デ・グリューはマノンを一目で気になりはじめ、本を読みつつ時折マノンに視線を向ける。そのプロセスがとても自然。マノンのデ・グリューへの初見は単なるone of them(男)。それが徐々に変わっていく。デ・グリューの挨拶のソロ。その雄弁なアラベスクから、誠実さ、明朗さ、大きさが表出される。両腕を広げる動きは、いつも羽を広げた孔雀を連想させるが、ムンタギロフはどこまでも気品を失わぬまま(初日は弦の音程がいまひとつ、2日目以降はOKだが、コンマスソロのグリッサンドはこの場にそぐわない)。出会いのパ・ド・ドゥ。米沢は相手に身を任せる(自分を投げ出す)あり方が半端ではない。リフトされるときの気持ち好さが増すにつれてどんどん相手を好きになり、見交わす二人の笑顔も増していくかのよう。が、音楽はエレジー*4。この出会いが悲劇の始まりであることを告知する。実に秀逸。

2場 パリ、デ・グリューの下宿

父親に手紙を書くデ・グリューのペンを奪い、二人は抱擁する。結ばれた喜びを再確認する歓喜に溢れた踊り(寝室のパ・ド・ドゥ)。音楽は「君の青い瞳を開けてよ」*5。シークエンスの後、ベッドにダイブするマノン。これが幸福の絶頂か。デ・グリューが手紙を出しに行った直後、レスコーがG.M.中家と来訪。マノンは初めは拒否するが、豪華な毛皮やネックレスに心が動く。過去よりも〝いまここ〟の快(贅沢/快適)を優先するマノン。レスコーとムッシュー G.M.のトロワ。マノンの〝女としての価値〟をムッシュー G.M.に疑似体験させる官能的な踊り(こんな振付よく考えるな)。毛皮を着たマノンが去る前、ベッド(デ・グリューとの過ぎた時間)に手を当て、毛皮(いまここの快)と比べ、納得する(やはりこっちだわ、と)。マノンとムッシューG.M.が去った後、帰宅したデ・グリューとレスコーが鉢合わせ、激しいやりとりに。レスコーは、お前のためでもあるのだ、だから金を受け取れと。上背のあるムンタギロフ(デ・グリュー)と木下レスコーだが、後者が前者を圧倒する。見応えあるシーン(初日はトランペットが少しへたった)。

第2幕

1場 高級娼家でのパーティ

レスコー(木下)の酔っ払いの踊りはこれまで見たなかでも最上位の部類。ボトルを真上に持ち上げて飲む仕草、ふらつく動きも力が抜けて秀逸。愛人(木村)とのやりとりもよい。木村は下層(?)出身の感じがよく出ている。踊る紳士の速水渉悟(ピンクタイツ)はやはり抜きんでている(潰されないで伸びていってほしい)。例の音楽が聞こえるとマノン登場。花魁道中の誇示するような感触よりも、水を得た魚のような自在さ(私の場所はここよといわんばかりの)が優勢。ソロはきわめてスムーズで、音楽のテンポが速く感じたほど。贅沢を保証する後ろ盾を得て、質素な暮らしの不安は払拭され自信に溢れている。男たちに次々とリフトされるシークエンスも大変なめらか。自分がモノのように扱われることへの違和感のなさ、というか、むしろ快適ですらあるかのよう。が、デ・グリューが現れて心が騒ぐ。彼の苦悩を目の当たりにして、初めて自分の行動の意味を知り、深く動揺(同情)する。特に初日は、あたし何てことしたのかしら、と涙を滲ませるほど。ここまで感情を動かしたマノンは初めて見た。状況はまったく異なるが『椿姫』第2幕2場でアルフレード(アルマン)を見たヴィオレッタ(マルグリット)の反応を想起(プレヴォなしに117年後のデュマ・フィス小説はない)。ムンタギロフ=デ・グリューの生きられた煩悶が米沢マノンの深い同情を喚起したのだろう。ムッシュー G.M.から飲み残しのグラスを渡され、「なんでぼくがあんな奴の…」とテーブルへ割れんばかりに置く。マノン/レスコーに促され、カード賭博でいかさまする時、ムンタギロフは必ず後ろを気にしてカードを隠す(すり替える)。こうした細部がドラマの質を高めていく。本島マダムの細やかな演技や中家G.M.の一貫したオレサマ感、趙載範(客)の盤石なサポートと巧みな芝居等が舞台を引き締めた。いかさまは結局バレて、二人は逃げ出すが、レスコーはムッシュー G.M.に捕まる。

2場 デ・グリューの下宿

パッキングして下宿を引き払う準備中の二人。ブレスレットのパ・ド・ドゥ(音楽はオペラ『グリセリディス』第2幕から「彼は春に立ち去った」)。パーティで着ていたドレスを持って行きたいマノン。首を振る元神学生のデ・グリュー。ブレスレットだけでも。ノー。地上(モノ)vs天上(精神)の対立(cf. ヴィシニョーワ&ゴメス)。ムッシューG.M.と警察が拷問されたレスコーを連れて登場。マノンの行動は兄の死も招いた(原作では同じ近衛兵に恨まれ射殺される)。第3幕での転落を強化し〝罪と罰〟を明確にするためか。

 第3幕

1場 港

流刑地で女を物色する貝川看守。憔悴し切ったマノン。必死で彼女をケアするデ・グリュー。それだけで、グッときた。マノンが看守の手下に連れ去られる。後を追うデ・グリュー。この場面にはいつも惹きつけられる。音楽とデ・グリューのあり方。グッときた。かなり。

2場 看守の部屋

逆光の部屋のセットが妙に美しい(『ニナガワ マクベス』のエドワード王宮廷を想起)。が、起きることは美しくない。看守に辱められるマノン。褒美にブレスレットが腕に巻かれる。あれほどこだわっていた装飾品を忌み嫌い、怖れるマノン等々。なんか見ていられない。デ・グリューが駆け寄り看守を殺害。凶器のナイフを何度もデ・グリューに見せるマノン。人を殺した直後、血がたぎり心が毛羽立つ青年のソロ。第2幕のパーティで全員が隣室に去ったあとのソロと比較せよ。苦悩から心の軋みへ(原作ではサン=ラザール修道院からデ・グリューが脱走するとき襲ってきた使用人を拳銃で撃ち殺す)。

3場 沼地

死を前にしたマノンが幻視する走馬燈。沼地のパ・ド・ドゥ。米沢マノンのフォルムはどことなくギエムを想起させる。が、あり方はまったく別。憔悴と凋落振りがここまで徹底したマノンは見たことがない。いまにも倒れそうなふらふらの足取りで助走し、天に向かって回転しながら飛び上がり、デ・グリューに抱き留められる。音楽はオラトリオ『聖母』の4場「聖母の法悦」聖母マリアの被昇天を描いたものだ*6。6年前見たABTの舞台では音楽がいわばマノン(ヴィシニョーワ)の内側で鳴っているように感じた。つまり、マノン本人が天に昇ろうと必死で藻掻いている。そう見えた。が、今回、それは、あくまで創作者(マクミラン)の祈りすぎず、被昇天への思いなどマノンのなかには存在しない。ただ、いまここで、最後の生を生きる、その行動が、わけも分からず、天に向かって飛び上がる動きになり、それを、最愛のデ・グリューが必死で受け止める。それが、無謀にも被昇天を試みているように見えたにすぎない。マノンのからだが地に触れるのをデ・グリューが必死で防ぐが、その祈りは叶わない。

2日目はすべてがよりズムーズな印象。沼地のラストでデ・グリューは息を引き取ったマノンに思わず口づけする。そのあり方がこの日は真に迫っていた。

『マノン』のバレエ音楽はチェロが要といってよい。3日目に2階左バルコニーで見て初めて気づいたが、チェロのトップは、東響ではなく、東フィルの服部誠氏が弾いていた。ゲストだったようだ。 

2012年の再演で「マノンに米沢唯をキャスティングしなかったのは信じがたい」と思った。が、「物事には時機というものがあります」と本人にたしなめられた(あれはRBが『アリス』で来日した年か)。その通りだった。マノンを(特に日本人が)踊るのは並大抵のことではない。2003年に踊った酒井はなも大変だったろう。今回その機が熟し、米沢はまったく新しいマノン像を見せてくれた。デ・グリュー役が井澤駿に変われば、また違ったマノンを生きただろう。コロナウィルスの影響で中止になったのは大変残念だ。

3日目についてはすでにツイートで簡単にメモしたが、少し加筆修正し、以下に採録する。

マノン:小野絢子/デ・グリュー:福岡雄大/レスコー:渡邊峻郁/ムッシューG.M.:中家正博/レスコーの恋人:木村優里(寺田亜沙子は怪我のため降板)/物乞いのリーダー:速水渉悟

一応かたちになったが、細部はまったく物足りないし、何より、役の心が見えなかった(それがあれば細部はおのずと付いてくる)。格好がついたのはG.M.中家やマダム本島等の強力な支えがあったから。デ・グリュー福岡はどうしたのか。8年前も神学生には見えなかったが踊りはとても充実していた。今回はどこか投げやり。ふて腐れているようにも見えた(何に対して?)。

小野はまずよくやったと思う。ただ、内側が伴わない相手では、化学反応の起きようがない。渡邊レスコーは酔っ払いの踊りは思いの外よかったが、デ・グリューとの爪先立ちの絡みでは、相手を圧倒する鋭さが足りない(木下は長身のムンタギロフをハラで優越した)。特に『マノン』のようなドラマティックバレエでは、ただ振付の形をなぞっても、その場で自ずと心の動きや感情が湧出しない限り、舞台の命は生まれない。客席の甘い反応に勘違いしてはいけない。第3幕は多少こころが動いたが、それは音楽と振付の力。1・2幕では二人から熱がまったく感じられなかった。渡邊デ・グリューに福岡レスコーなら、小野の好さがもっと出たのではないか。福岡と渡邊の好さも。

*1:初演のジョージアディスの美術は貧困を象徴する襤褸布の多用が印象的で新国立の初プロダクションもそうだった。が、2008年の再演からピーター・ファーマーの洗練された美的なセットに代わり、マーティン・イエイツのすっきりした新編曲と相まって、華美の裏に隠された貧困のイメージはほぼ払拭された。マクミランのマノン貧困説については、注2を見よ。

*2:訳者の野崎歓氏は、フェミニズムジェンダー論の視点から論じたシモーヌ・ドルサールの読解を紹介している。「『十八世紀の社会的文脈においては、平民に生まれた娘にとって修道院と売春とのあいだで選択の道は決して広くなかった』」。だから「身を売ることを辞さないマノンの貞淑観念の薄弱さを道徳心の欠如と短絡的に捉えるべきではない」。「マノンは自分の意志も存在も本当には認められないまま、男たちの欲望の対象としてのみ漂い続けることを余儀なくされた弱者」である等々。
 このマノン擁護論(1971)は、マクミランのマノン解釈に近い。バレエの初演は1974年だから、読んでいたかも知れない。
 だが、訳者によれば、「平民であるとはいえ、マノンの社会的身分がはたして[貴族の御曹司]デ・グリューとそこまで隔絶したものだったかどうかには、留保の余地があるかもしれ」ないという。なぜなら、語り手のルノンクール公爵はマノンについて「別の状況で出会ったなら上流の令嬢だと思ったに違いない」との印象を受ける。しかも、この「上流の令嬢」は1731年の初版では「どこかの姫君(プリンセス)」であり、さらに「貴族でなくともかなりの名家の生まれ」との一文もあったが、ともに1753年の改訂版で削除されたと。
 こうした改訂は刊行後に発禁処分となった事情と関係するのだろう。いずれにせよ、「マノンが読書好きなことや、ラシーヌの古典悲劇をもじって気の利いた詩句をひねりだしてみせることは、彼女の育った環境がかなりの知的・経済的水準にあったことをうかがわせ」ると野崎氏はいう。
 このマノン像は、マクミランフェミニズムジェンダー論的解釈とも、ファン・ファタール的イメージともかけ離れている。むしろ、米沢マノンに近いといえないか。

*3:歌曲『田園詩』第5番「黄昏」(詩:アルマン・シルヴェストル/訳:藤井宏行)《白いカーテンのように/その花びらを下げて/ユリの花たちは花びらを閉じ/テントウムシたちは眠りについている//朝の光がやってくるまで/ユリの花の中に隠されて/乙女の夢の中にいるように/テントウムシは眠りについている//ユリの花は一瞬たりとも眠らない/きみも頭を垂れて/ぼくらは愛のことを語り合わないかい?/テントウムシは眠りについている》

*4:付随音楽『復讐の三女神』から「エレジー」歌詞(詩:ルイ・ガレ/訳:藤井宏行)は次の通り。《おお甘き春よ 過ぎ去った昔の/緑の季節よ、お前は永遠に去ってしまった!/あの青空をもう見ることはない/あの鳥のさえずりを聴くことも!//私の幸せをみな持って/おお恋人よ、お前は行ってしまった!/春が戻ってもむなしいだけ!/そうなのだ!帰ってこないのだ、お前も、太陽の輝きも//微笑みの日々は消え去ってしまった/私の心の中は暗く凍り付いている!/すべては終わった! 永遠に!》マクミランと編曲のルーカスやゴーンは、この歌を二人の出会いのパ・ド・ドゥに使ったのである。

*5:(詞:ポール・ロビケ/訳:藤井宏行)《(彼)/君の青い瞳を開けてよ 愛しい人/一日は始まったんだ/もう鳥たちはさえずっているよ/愛の歌を/朝焼けはバラ色に染まっている/ぼくと一緒に行こうよ/花咲くヒナギクを摘みに/目覚めてよ! 目覚めてよ!/君の青い瞳を開けてよ 愛しい人/一日は始まったんだ//(彼女)/どうしてこの世界を/そんなに美しいと思うの?/愛することの方がずっと甘い神秘だわ/夏の日なんかよりずっと/私の中よ 鳥がさえずっているのは/勝利の歌そして私たちを燃やす太陽/この私の胸の中よ》

*6:オラトリオ『聖母』4場「聖母の法悦」《果てしなく続く夢! 聖なる法悦!/眼が眩む!/計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!/果てしなく続く夢!ああ! 未知の力にうっとりする。すでに私は義なる者の霊[天使]の声を聴いた。生の軛からすでに解放された私は、[人間としての]最後の悲しみを味わい終えたのだ!/おお、聖なる眩暈、悲しみをさそう輝き!/眼は眩み、計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!/天の扉が開こうとしている!.../果てしなく続く夢!...聖なる法悦!.../天空は光り輝き、燃え始める...燃え始める。/果てしなく続く白昼!/天よ、私はあなたを目の当たりにする!.../おお、光の奔流よ、/調和と愛の、/平安と美の奔流よ!.../あまりに取り乱した私の魂は、/祈りを捧げなければならない/この天上の荘厳なる光景に!.../おお、聖なる眩暈、悲しみをさそう輝き!/眼は眩み、計り知れない広大さに胸が押しつぶされそう!/天の扉が開こうとしている!.../果てしなく続く夢!...聖なる法悦!.../天空は光り輝き、燃え始める...燃え始める。/果てしなく続く白昼!》