10月のフィールドワーク予定 2024

劇場文化ではないが、三十年ほど前のこと、田中一村(1908–1977)という日本画家について美術史家の友人から教えられ、鮮やかで湿り気のない絵肌に魅せられた。その後『アダンの画帖——田中一村伝』(中野惇夫・南日本新聞社編 1995)等を読み、30歳から生活した千葉を離れ姉とも別れて奄美大島に居を移さざるを得なかった〝不遇の〟生涯に強く印象づけられた。以来、時折画集や「黒潮の画譜・十二景」(額装版)を眺めたり、一村ゆかりの千葉で企画展があれば足を運んだりもした。ただ、奄美を描いた一連の代表作は出品されず、直接見るには奄美の記念館へ行くしかなかった(全国巡回展を開催した1985〜86年にはまだ一村を知らなかった)。今回の東京での大規模回顧展はその望みを叶えてくれる。楽しみでしかない。

ラフォルグの短篇を原作とするシャリーノのローエングリンは女優の橋本愛がエルザ役で出演する。ワーグナーと異なるのは明らかだが、具体的にどんな舞台になるのかまったく想像がつかない。小沢書店の吉田健一訳『ラフォルグ抄』は数年前に手放したので、講談社文芸文庫版を入手した。公演前に読んでおこう。

ベッリーニ夢遊病の女》ベッリーニ大劇場の引越公演を見て以来だから、18年振り。アミーナはステファニア・ボンファデッリ、エルヴィーノはアンドレア・コロネッラだった。今回はローザ・フェオラが芸術上の理由で降板し(大野芸術監督によればアミーナ役に声が合わなくなったため)代わりに若手のクラウディア・ムスキオがアミータを、ベテランのアントニーノ・シラグーザがエルヴィーノを歌う。指揮は、昨年の《リゴレット》や7月の《トスカ》で巧みな棒さばきを聴かせたマウリツィオ・ベニーニが務める。

N響定期は、久し振りにブロムシュテットが振る。無事に来日してほしいと願うのみ。

新国立劇場演劇については特になし。

山崎広太のコンテは一昨年暮れの下駄ダンス以来。今度はどんなふうに度肝を抜いてくれるのか。

関かおりのダンスを見るのは『アイグレクタ』(彩の国さいたま芸術劇場 小ホール)以来だから11年振り。新作『モリンネ』はヤナーチェクのオペラ《利口な女狐の物語》から着想を得たらしく、この標題は—モリ:森、mori (死) リンネ:輪廻 ネ:音、根—だと。はて?

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟であるミヒャエル・ハイドンが作曲した音楽舞台劇《ティトゥス・ウコンドン、不屈のキリスト教徒》は、250年振りの完全復活上演となるらしい。このジングシュピールは日本のキリシタン大名高山右近らがモデルの「日本劇」で、ダンス・振付に伊藤キムも参加している。どんな音楽劇になるのだろう。

新国立劇場バレエ『眠れる森の美女』では米沢唯に「心臓疾患」が見つかったためタイトルロールを降板。とても残念だけど、しっかり治してほしい。それに彼女のことだ、これを機に、また、新しい米沢唯を見せてくれると思う(『ダンスマガジン』24年11月号の米沢唯の連載第20回「バレリーナの頭の中」を読んだ。米沢は東京大学先端科学技術研究センターが主催する「第一回青少年高野山会議」三泊四日の合宿に参加。舞踊のクラスを受け持った米沢は、ダンス未経験の三人に寄り添い〝指導〟し成果発表を迎え…。読みながら、竹内敏晴だ、竹内氏が書き記した〝レッスン〟だ、と思った。相手のからだとこころへの対し方だけでなく、そのときの自分と相手のこころとからだの有り様を記述するその書きぶりも。否、竹内氏から受け継いだものはもちろんあるが、そこには独自のなにかが確かに見て取れる。彼女はすでに新たな〝米沢唯〟を生きている)。

BCJは〈B(ach)→C(ontemporary) 〉ならぬ 〈B(ach)→B(altholdy=Mendelssohn)〉と題し、バッハのカンタータと独唱・合唱を含むメンデルスゾーン交響曲第2番《賛歌》を取り上げる。前者は宗教改革記念カンタータでバッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハによる改訂版、後者の歌詞はルターが独訳した旧約聖書から採られたらしい。それを宗教改革記念日の10月31日に演奏するという周到さ。BCJらしい。

4日(金)田中一村奄美の光 魂の絵画」主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、鹿児島県奄美パーク 田中一村記念美術館、NHKNHKプロモーション、日本経済新聞社/協賛:DNP大日本印刷、日本典礼/特別協力:千葉市美術館/協力:ANAPeach/監修:松尾知子(千葉市美術館 副館長)@東京都美術館

5日(土)17:00 《⽡礫のある⾵景》(2022年)[⽇本初演]初演:2022 年11 月3 日 ヴィリニュス(リトアニア)+ローエングリン(1982-84年)/日本初演/⽇本語訳上演*⼀部原語上演:原作:ジュール・ラフォルグ/音楽・台本:サルヴァトーレ・シャリーノ/初演:1984年9⽉15⽇カタンツァーロ(イタリア)(初版初演:ミラノ1983年1⽉15⽇)/修辞:大崎 清夏/演出・美術:吉開 菜央・山崎 阿弥/指揮:杉山洋一/エルザ役:橋本 愛/演奏(○=「ローエングリン」◇=「瓦礫のある風景」:成田達輝 ○◇(ヴァイオリン/コンサートマスター)、百留敬雄 ○(ヴァイオリン)、東条 慧 ○(ヴィオラ)、笹沼 樹 ○◇(チェロ)、加藤雄太 ○◇(コントラバス)、齋藤志野 ○◇(フルート)、山本 英 ○(フルート)、鷹栖美恵子 ○◇(オーボエ)、田中香織 ○◇(クラリネット)、マルコス・ペレス・ミランダ ○(クラリネット)、鈴木一成 ○(ファゴット)、岡野公孝 ○(ファゴット)、福川伸陽 ○(ホルン)、守岡未央 ○(トランペット)、古賀 光 ○(トロンボーン)、新野将之 ○◇(打楽器)、金沢青児 ○(テノール)、松平 敬 ○(バリトン)、新見準平 ○(バス)、山田剛史 ◇(ピアノ)、藤元高輝 ◇(ギター)/振付:柿崎麻莉子/照明:高田政義/音響:菊地 徹/衣裳:幾左田千佳/副指揮:矢野雄太/音楽アシスタント:小松 桃、市橋杏子、眞壁謙太郎/演出助手:田丸一宏/スタイリング:清水奈緒美/ヘアメイク:石川ひろ子/舞台監督:山貫理恵/ステージマネージャー: 杉浦友彦/プロダクションマネージャー:大平久美/制作:神奈川県民ホール、山根 郎、坂元恵海 @神奈川県民ホール

6日(日)14:00 新国立劇場オペラ《夢遊病の女》〈新制作〉全2幕〈イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉作曲:ヴィンチェンツォ・ベッリーニ/台本:ジュゼッペ・フェリーチェ・ロマーニ/指揮:マウリツィオ・ベニーニ/演出:バルバラ・リュック/美術:クリストフ・ヘッツァー/衣裳:クララ・ペルッフォ/照明:ウルス・シェーネバウム/振付:イラッツェ・アンサ、イガール・バコヴィッチ/演出補:アンナ・ポンセ/舞台監督:髙橋尚史/[キャスト]ロドルフォ伯爵:妻屋秀和/テレーザ:谷口睦美/アミーナ:ローザ・フェオラ(芸術上の理由でキャンセル)→クラウディア・ムスキオエルヴィーノ:アントニーノ・シラグーザ/リーザ:伊藤 晴/アレッシオ:近藤 圭/公証人:渡辺正親/合 唱:新国立劇場合唱団/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団/主催:公益財団法人新国立劇場運営財団、独立行政法人日本芸術文化振興会文化庁/制作:新国立劇場/共同制作:テアトロ・レアル、リセウ大劇場、パレルモ・マッシモ劇場/委託:令和6年度日本博 2.0 事業(委託型) @新国立劇場オペラハウス

11日(金)19:00 N響 #201 定演〈B-2シベリウス交響詩「4つの伝説」作品22─「トゥオネラの白鳥」/ニルセン:クラリネット協奏曲 作品57/ベルワルド:交響曲 第4番 変ホ長調「ナイーヴ」/指揮:ヘルベルト・ブロムシュテットクラリネット:伊藤 圭(N響首席) @サントリーホール

12日(土)13:00 新国立劇場演劇『ピローマン作:マーティン・マクドナー/翻訳・演出:小川絵梨子/美術:小倉奈穂/照明:松本大介/音響:加藤 温/衣裳:前田文子/ヘアメイク:高村マドカ/演出助手:渡邊千穂/舞台監督:下柳田龍太郎/[キャスト]カトゥリアン:成河/ミハエル:木村 了/トゥポルスキ:斉藤直樹/アリエル:松田慎也/父:大滝 寛/母:那須佐代子 @新国立小劇場

13日(日)15:00 Footnote New Zealand Dance x 山崎広太 協働ダンスプロジェクト『薄い紙、自律のシナプス遊牧民、トーキョー(する)』振付・出演:山崎広太/振付補佐:アニータ・フンジカー/出演:セシリア・ウィルコクス、ベロニカ・チャング・リュー、松田ジャマイマ、松田憧祈、リーバイ・シャオシ/舞台美術:木内俊克、町田恵/音楽:ジェシー・オースティン・スチュワート/提携:公益財団法人せたがや文化財団 世田谷パブリックシアター/後援:世田谷区/助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京[東京芸術文化創造発信助成]文化庁文化芸術振興費補助金舞台芸術等総合支援事業(国際芸術交流))、独立行政法人日本芸術文化振興会/主催:一般社団法人ボディアーツラボラトリー、Footnote New Zealand Dance/活動助成:Creative NZ、公益財団法人セゾン文化財団/共同主催:愛知県芸術劇場(公益財団法人愛知県文化振興事業団)@シアタートラム

14日(月祝)13:00 吉祥寺ダンスLAB. vol.7 関かおり PUNCTUMUN 新作公演『モリンネ』振付・演出:関かおり/出演:内海正考、北村思綺、倉島 聡、小池陽香、佐藤桃子、髙宮 梢、真壁 遥 他/声の出演:林 眞暎(メゾ・ソプラノ)/指導協力:月村萌華(ソプラノ)/振付助手:北村思綺、髙宮 梢/舞台監督:湯山千景/照明:木藤 歩/サウンドデザイン:安藤誠英/衣装:臼井梨恵/宣伝美術:太田博久(golzopocci)/主催・企画・制作:団体せきかおり/共催:公益財団法人武蔵野文化生涯学習事業団/助成:芸術文化振興基金、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 @吉祥寺シアター

20日(日)15:30 藝大プロジェクト2024 第1回「西洋音楽が見た日本」ミヒャエル・ハイドン:音楽舞台劇《ティトゥス・ウコンドン、不屈のキリスト教徒》[出演者]俳優:小泉将臣(俳優座)、山森信太郎(髭亀鶴)、森永友基、岡野一平、稲岡良純(文学座)、渡邊真砂珠(文学座)、小口隼也、松平凌翔(俳優座)、市川フー(エンニュイ)、笹川幹太、久保田里奈、大石麻耶、大石麻耶/振付・ダンス:伊藤キム:ダンスアシスタント:金子美月/司会:朝岡聡東京藝術大学音楽学部有志合唱(合唱指揮:中山美紀)/古楽科有志を中心としたオーケストラ(コンサートミストレス:戸田 薫)/舞台監督:浜田和孝/舞台美術:原田 愛、美術学部先端芸術表現科 原田研究室(遅亦周、呉詩瑶)/学術アドヴァイザー:西川尚生(慶應義塾大学)/構成・演出:布施砂丘彦 @奏楽堂

25日(金)18:30 新国立劇場『眠れる森の美女』振付:ウエイン・イーグリングマリウス・プティパ原振付による)/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/編曲:ギャヴィン・サザーランド/美術:川口直次/衣裳:トゥール・ヴァン・シャイク/照明:沢田祐二/指揮:ギャヴィン・サザーランド(冨田実里)/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団オーロラ姫:佐々晴香(ベルリン国立バレエ)/デジレ王子:井澤 駿新国立劇場オペラハウス

26日(土)13:00 新国立劇場『眠れる森の美女』オーロラ姫:廣川みくり/デジレ王子:速水渉悟新国立劇場オペラハウス

26日(土)18:30 新国立劇場『眠れる森の美女』オーロラ姫:小野絢子/デジレ王子:奥村康祐新国立劇場オペラハウス

31日(木・宗教改革記念日)BCJ #164定演〈B→B バッハからメンデルスゾーン=バルトルディへ〉J. S. バッハ:カンタータ第80番《われらが神こそ、堅き砦》BWV 80(W. F. バッハ版)/F. メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第2番 変ロ長調《讃歌》 Op. 52/指揮:鈴木雅明/ソプラノ:ジョナ・マルティネス、澤江衣里/テノールベンヤミン・ブルンス/バス:小池優介/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン @オペラシティコンサートホール

9月のフィールドワーク予定 2024【 出演者変更】【+】

今月も4公演と少なめで、しかもすべてコンサート(〝チェルフィッチュ×藤倉大〟は演劇+コンサートか)。N響定演の新シーズは曜日変更で金曜となり、他の公演と重なる機会が増えそうで少し気がかりだ。

先月は暑かったけど、公演が少ないぶん落ち着いて本が読めた。なかでもプラトンの『ゴルギアス』(岩波文庫)は出色。相手がほぼ相槌を打つだけのソクラテスの〝対話〟はなんだかなあと思っていたが、本書は違ってた。特に後半からのカリクレスとの対話はとても〝劇的〟だ。ソクラテスは、「不正(悪)を行なうよりも、むしろ不正(悪)を受けるほうがまし」だという。戦時の鶴見俊輔を想起したが、この命題をめぐるソクラテスとポロスやカリクレスとの遣り取りは、大変興味深い。

5月に観た『オットーと呼ばれる日本人』(紀伊國屋サザンシアター)関連で、気になっていた加藤哲郎ゾルゲ事件——覆された神話』(平凡社新書 2014)と渡部富哉『偽りの烙印——伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房 1993)を読めたのはよかった。どちらも文献資料の渉猟と現地調査の徹底ぶりには舌を巻く。『ゾルゲ事件』は『オットー』の上演プログラムに掲載の加藤氏へのインタビューで知った。『オットー』に登場の林こと川合貞吉が戦後はGHQのスパイだったこと、尾崎(オットー)をゾルゲ(ジョンスン)に紹介したのはスメドレー(宋夫人と呼ばれるアメリカ女性)ではなく鬼頭銀一という人物だった等々。『偽りの烙印』は、新国立の上演時(2008)に入手していたが〝積ん読〟のまま手放していた。やはり読む時機というものはあるらしい。渡部は「伊藤律スパイ説」をあらゆる角度から検証し、粘り強く突き崩していく。そのプロセスは実に読み応えがあった。それにしても、かつての日本共産党内の権力闘争は凄まじい。『オットー』に関わる事柄については、その感想メモに追記したい。

【15日(日)13:00 伊藤野枝大杉栄から読み解く、1920年代の女性と社会のシンポジウム「関東大震災から戦争の時代へ 女性は如何に闘ったか」講演:鈴木 淳(東京大学教授) 森まゆみ(作家) 加藤陽子東京大学教授)/開会挨拶:田中ひかる明治大学教授)/協力:亜紀書房皓星社、ぱる出版/特別協力:アットワンダー、古書りぶる・りべろ/主催:「伊藤野枝大杉栄から読み解く1920年代」シンポジウム実行委員会/共催:初期社会主義研究 @明治大学駿河台キャンパス リバティタワー大教室 1階1011教室】←追加

20日(金)19:00 N響 # 2017 定演〈B-2〉シューベルトイタリア風序曲 第2番 ハ長調 D. 591》/シューマン《ピアノ協奏曲 イ短調 作品54》/ベートーヴェン交響曲 第7番 イ長調 作品92》/指揮:ファビオ・ルイージ/ピアノ:エレーヌ・グリモー(新型コロナ感染のため来日不可)→アレッサンドロ・ダヴェルナ @サントリーホール

21日(土)14:00 東京芸術祭 2024 芸劇オータムセレクション チェルフィッチュ×藤倉大 with アンサンブル・ノマドリビングルームメタモルフォーシス』作・演出:岡田利規/作曲:藤倉 大/出演:青柳いづみ、朝倉千恵子、川﨑麻里子、椎橋綾那、矢澤 誠、渡邊まな実/演奏:アンサンブル・ノマド/音響:白石安紀/音響スーパーバイザー:石丸耕一(東京芸術劇場)/照明:髙田政義(RYU)/衣裳:藤谷香子(FAIFAI)/美術:dot architects/ドラマトゥルク:横堀応彦/技術監督:守山真利恵/舞台監督:湯山千景/テクニカルアドバイザー:川上大二郎(スケラボ)/英語翻訳:アヤ・オガワ/宣伝美術:岡﨑真理子(REFLECTA, Inc.)/プロデューサー:水野恵美(precog)、黄木多美子(precog)/プロダクションマネージャー:武田侑子/アシスタントプロダクションマネージャー:遠藤七海/委嘱:Wiener Festwochen/製作:Wiener Festwochen、一般社団法人チェルフィッチュ/共同製作:KunstFestSpiele Herrenhausen、Holland Festival、愛知県芸術劇場独立行政法人国際交流基金/企画制作:株式会社precog/主催:東京芸術祭実⾏委員会[公益財団法⼈東京都歴史⽂化財団(東京芸術劇場・アーツカウンシル東京)、東京都]/助成:文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業(劇場・音楽堂等機能強化総合支援事業))独立行政法人日本芸術文化振興会/協賛:アサヒグループジャパン株式会社 @シアターイース

25日(水)19:00 チェルフィッチュ×藤倉大 with アンサンブル・ノマド『リビンルルームのメタモルフォーシス@シアターイース

27日(金)19:00 BCJ #163 定演 J. S. バッハ《ミサ曲 ロ短調BWV 232》指揮:鈴木雅明/ソプラノ:松井亜希、マリアンネ・ベアーテ・キーラント/アルト:アレクサンダー・チャンス/テノール:櫻田 亮/バス:加耒 徹/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン @オペラシティコンサートホール

 

第17回 世界バレエフェス 全幕特別プロ『ラ・バヤデール』2日目 2024

NBS の『ラ・バヤデール』2日目を見た(7月28日 日 15:00/東京文化会館)。ごく簡単にメモする。

振付・演出:ナタリア・マカロワマリウス・プティパ版による)/音楽:ルトヴィク・ミンクス/編曲:ジョン・ランチベリー(マリオ・ボワ出版)/舞台美術:ピエール・ルイジ・サマリターニ/衣裳:ヨランダ・ソナベント

指揮:ワレリー・オブジャニコフ/演奏:東京フィルハーモニー交響楽団/協力:東京バレエ団OB,東京バレエ学校

委託:令和6年度日本博2.0事業(委託型)/特別協賛:株式会社コーセー/主催:公益財団法人日本舞台芸術振興会,独立行政法人日本芸術文化振興会文化庁/後援:外務省,各国大使館

[主演]ニキヤ:オリガ・スミルノワ/ソロルキム・キミン(所属するマリインスキー劇場のスケデュール変更に伴い降板)→ヴィクター・カイシェタ(オランダ国立バレエ)/ガムザッティ:伝田陽美/ハイ・ブラーミン(大僧正):柄本 弾/マグダヴェーヤ(苦行僧の長):井福俊太郎/ブロンズ像:池本祥真

マカロワ版は初めて。オケは今春同じ演目で初台のピットに入った東フィル。聞き慣れない声部があると思ったら、案の定ランチベリーの編曲だ(牧版の編曲は3幕だけだと思う)。それを割り引いても、4月より好い音してる。オブジャニコフの指揮のせいか。冷静な指揮振りで、よい音を引き出していた。それともオケの動機(待遇)が違うのか。チェロのソロは金木さんだと思うが、たっぷり弾いていた。コンマスは三浦さん? 2幕のソロは初台のときよりよくなった。

ニキヤのスミルノワはザハロワとヴィシニョーワを合わせた感じ。一幕はあまりピンとこない。二幕のチュチュはさすがによかった。ソロルはキム・キミンを見たかったけど(といってもほとんど知らない)代役のカイシェタは前に長久メイと組んでたらしい。ちょっと締まりがない印象で戦士に見えない。一幕のリフトで腰砕けしたのはトレーニング不足か。それより、ガムザッティの伝田陽美は初めて見たが、素晴らしい。技術も演技も質が高いし、ニキヤとの遣り取りは強度が高く、三幕のソロには脱帽した。こんなバレリーナがいたのか。チェロのソロで踊ったけど、あの音楽はニキヤのソロの〝恨み節〟と同じ和音進行に聞こえた。ランチベリーの創作なのか。ブロンズ像の池本祥真は思い切りのよい踊り。好いと思う。東京バレエ団のダンサーたちはみな整っていて好印象。かつての東バとはまったく違う。

 

「バレエ・アステラス 2024~海外で活躍する日本人バレエダンサーを迎えて世界とつなぐ~」2024

「バレエ・アステラス 2024~海外で活躍する日本人バレエダンサーを迎えて世界とつなぐ~」初日を見た(8月3日 土 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

公演が重なったせいか、入りはあまりよくない。以下は、極々簡単なメモ。

指揮:井田勝大/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

[バレエ・アステラス委員(五十音順)]安達悦子(東京シティ・バレエ団理事長/芸術監督),岡本佳津子(井上バレエ団代表理事),小倉佐知子(新国立劇場バレエ研修所長),小山久美(スターダンサーズ・バレエ団代表/総監督),小林紀子小林紀子バレエ・シアター芸術監督),法村牧緒(法村友井バレエ団団長),堀内 充(大阪芸術大学教授),三谷恭三(牧阿佐美バレヱ団総監督

第1部 オープニング

『眠れる森の美女』第3幕冒頭の「行進曲」で出演者・演目をプロジェクションで紹介。

『Une Promenade』〈日本初演振付:キム・ヨンゴル/音楽:フレデリック・ショパン

[韓国芸術総合学校バレエアカデミー]キム・ジヨンチョン・ミンチョル/ピアノ演奏:シン・ジェミン

シモテのピアノでシン・ジェミンがショパンノクターン第10番》変イ長調と《ワルツ第4番》ヘ長調(猫のワルツ)を弾き、男女が踊る。二人のやりとりは変化していき、最後はピアニストが女性に花を捧げ…面白いPDDだ。あとでクランコの『オネーギン』第1幕がモチーフだと知る(プログラム)。なるほど。キム・ジヨンはかわいらしい踊り、というか達者。チョン・ミンチョルは踊りもサポートも体型も一級品。こうした男性ダンサーを輩出する環境の韓国がうらやましい。

『The Prejudice』〈日本初演振付:キム・ヨンゴル/音楽:カミーユ・サン=サーンス

[同上]アン・セウォン/ピアノ演奏:シン・ジェミン

サンサーンスの「白鳥」をピアノで(少し奇妙に)アレンジ。ちぎられたようなチュチュ。バー。「偏見」? ダンサーは好いと思うが、岡田利規の「瀕死の白鳥 その死の真相」を見た分、作品のインパクトは弱まる。

『海賊』第1幕より奴隷のパ・ド・ドゥ/振付:マリウス・プティパ/音楽:オルデンブルク公

升本結花 (フィンランド国立バレエ団 ファースト・ソリスト&有水俊介 (フィンランド国立バレエ団 ファースト・ソリスト

すべったのは残念…。

『ロメオとジュリエット』よりバルコニーのパ・ド・ドゥ〈日本初演振付:デヴィッド・ドウソン/音楽:セルゲイ・プロコフィエフ

綱木彩葉 (ドレスデン国立歌劇場バレエ プリンシパル)&ジョセフ・グレイ (ドレスデン国立歌劇場バレエ セカンド・ソリスト

作品に少し〝いなかくささ〟を感じた。

白鳥の湖』第3幕パ・ド・ドゥ/振付:マリウス・プティパ/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

ミルナ・ミチウ (クロアチア国立劇場 プリンシパル)&吉田司門 (クロアチア国立劇場 プリンシパル

フェッテを数回で止め、再開…。やはり暑さのせい? かつてフィリピエワやコジョカルもこの劇場でフェッテを止めたことがあった。あれも8月のガラだったか。

ハムレット』よりパ・ド・ドゥ〈日本初演振付:レオ・ムジック/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーカミーユ・サン=サーンス

鈴木里依香 (クロアチア国立劇場 プリンシパル)&住友拓也 (クロアチア国立劇場 プリンシパル

この部分だけだと『ハムレット』に見えなかった。あれがオフィーリア? とはいえ二人とも好いダンサー。

『ラプソディ』よりパ・ド・ドゥ〈追加演目〉振付:フレデリック・アシュトン/音楽:セルゲイ・ラフマニノフ/ピアノ演奏:圓井晶子

[ゲスト出演]アリーナ・コジョカル (ハンブルク・バレエ ゲストダンサー)&吉山シャール ルイ (チューリヒ・バレエ ファースト・ソリスト

パガニーニの主題によるラプソディ》の第18変奏 アンダンテ・カンタービレで。「NHKバレエの饗宴2013」の吉田都&テューズリーの華やかな印象が残ってる。あのとき吉田は48歳。いまコジョカルは43か。〝老いて〟も誠実に踊る。ちょっとグッときた。相変わらずポワント音は大きいけど。

『眠れる森の美女』第3幕パ・ド・ドゥ/振付:ウエイン・イーグリング (マリウス・プティパ原振付による)/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

新国立劇場バレエ団]柴山紗帆 (プリンシパル)&井澤 駿 (プリンシパル

とにかく詩情が出ないと…。

第2部

『Conrazoncorazon』より/振付:カィェターノ・ソト

新国立劇場バレエ研修所]

黒の乗馬キャップに薄グレーのシャツと短パンと黒のハイソックスで踊る。悪くないけど、この演目だと…よく分からない。意図的?

『ライモンダ』第3幕よりジャン・ド・ブリエンヌのヴァリエーション/振付:マリウス・プティパ/音楽:アレクサンドル・グラズノフ

[韓国芸術総合学校バレエアカデミー]イ・カンウォン

やや小柄のため役に合っているとは言いがたいけど、生きのよい踊り。

コッペリア』第3幕パ・ド・ドゥ/振付:アルテュール・サン=レオン/音楽:レオ・ドリーブ

玉井千乃 (ポズナン歌劇場バレエ団 コリフェ)&北井僚太 (ポーランド国立歌劇場バレエ団 ファースト・ソリスト

ロマンティック・バレエらしい、好感度の踊り。二人ともうまい。

『デンジャラス・リエゾンズ』第2幕より寝室のパ・ド・ドゥ〈日本初演振付:リアム・スカーレット/音楽:カミーユサン=サーンス/編曲:マーティン・イェーツ

吉田合々香 (クイーンズランド・バレエ プリンシパル)&ジョール・ウォールナー (クイーンズランド・バレエ プリンシパル

濃色。危険な感じがよく出てた。二人ともよく踊れる。

チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』振付:ジョージ・バランシン/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

[ゲスト出演]近藤亜香 (オーストラリア・バレエ プリンシパル)&チェンウ・グオ (オーストラリア・バレエ プリンシパル

二人ともよく踊れるけど、男性は〝出稼ぎ〟感が。

『マノン』第1幕より寝室のパ・ド・ドゥ/振付:ケネス・マクミラン/音楽:ジュール・マスネ/編曲:マーティン・イェーツ+/

[ゲスト出演]アリーナ・コジョカル (ハンブルク・バレエ ゲストダンサー)&吉山シャール ルイ (チューリヒ・バレエ ファースト・ソリスト

コジョカルのマノンは19年振りだ(コボーと踊ったあのとき24歳か)。リフトされるあり方が他の誰とも違う素晴らしさ。やはり大したダンサーだ。

フィナーレ

グラズノフ『バレエの情景』から第8曲「ポロネーズ」で全員出演

この音楽はもっと華やかなものに変えた方がよくないか。

コンマスは依田真宣氏。指揮者はたっぷり気味の音楽作り。配布プログラム冒頭の演目・出演者を記した頁に振付家の記載がないのは、かなり不便。

過去の「バレエ・アステラス」感想メモ→2023201920142013 

劇団民藝〈築地小劇場開場100周年〉『オットーと呼ばれる日本人』2024【追記】

『オットーと呼ばれる日本人』の初日を観た(5月17日金曜18:30〜22:10/紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA)。追記あり↓】

宇野重吉(1914-88)のアイデアが切っ掛けで木下順二(1914-2006)が戯曲を書き、宇野演出(オットー 滝沢修/ジョンスン 清水将夫)で初演したのが1962年。民藝が上演するのは、1966年の再演(宇野演出)2000年の三演(米倉斉加年演出/オットー 三浦威/ジョンスン 鈴木智)以来らしい。

本作を初めて見たのは新国立中劇場の鵜山仁演出(オットー 吉田栄作/ジョンスン グレッグ・デール)で、2008年だった。獄中の尾崎秀実(ほつみ)が家族に宛てた書簡集や風間道太郎『尾崎秀実伝』、鶴見俊輔「翼賛運動の設計者」の尾崎秀実の項(『転向』)、ゾルゲの獄中手記等を事前に読んで臨んだが、キャスティングを含めあまり感心しなかった記憶がある。〝本家〟の公演はどうか。以下、簡単にメモする。

作:木下順二/演出:丹野郁弓

[配役]ジョンスンと呼ばれるドイツ人:千葉茂則/宋夫人と呼ばれるアメリカ人:桜井明美/フリッツという名のドイツ人:山本哲也/王:釜谷洸士/鄭:横山陽介/林:吉田正朗/青年:小守航平/日野:平野 尚/オットーと呼ばれる日本人:神 敏将/その妻:中地美佐子/その娘:松井優梨愛(劇団ひまわり)/瀬川:みやざこ夏穂/その妻:石巻美香/その娘:佐々木美月(劇団ひまわり)/ジョーと呼ばれる日本人:塩田泰久/南田のおばちゃん:戸谷 友/ゾフィー:石川 桃/検事:吉岡扶敏/弁護士:境 賢一

装置:勝野英雄/照明:前田照夫/衣裳:宮本宣子/効果:岩田直行/舞台監督:中島裕一郎/助成:文化庁文化芸術振興費補助金舞台芸術等総合支援事業(公演創造活動))独立行政法人日本芸術文化振興会

第1幕(1930年代の初頭。上海)共同租界の中華料理店で男=オットーと呼ばれる日本人(神敏将)が林(吉田正朗)に語る蜂の子を食べる話は、〝諜報活動〟がはらむ自身の危うさを暗示して興味深い。

租界のアパートでオットーとその妻(中地美佐子)の対話では妻役の中地が空間を一気に変えた。酔ったオットーが妻にウィスキーを飲ませる艶っぽいやりとりでは、妻にも明かさぬ〝活動〟の高揚感が伝わってくる。

オットーと宗(スン)夫人と呼ばれるアメリカ人(桜井明美)の対話では、桜井の人物造形が秀逸。芯(信念)の強さ、それでいてオットーへの女としての思いも滲む。アメリカ人にも見えた。

女優らの好演は場面を立体化。林役の吉田は、演技に奥行きがある。

第2幕(1930年代の半ば。東京)オットーの家族と友人夫婦とのやりとり。転向した瀬川(みやざこ夏穂)と妻(石巻美香)の苦境。オットー家の表面上の明るさ。〝成功した〟オットーとそれを妬み当てこする友人(瀬川)の対話が、後者の屈折した狭量さと前者の鷹揚さ(懐の深さ)を照らし出す。両家が揃ってスナップ写真を撮るが、予期せぬ林(吉田)の訪問で空気が一変。

オットーが翻訳した宋夫人の小説(アグネス・スメドレーの『女一人大地を行く』がモデル)を林に見せる。ビールを持ってきた妻(中地)は障子を閉めるとき、一瞬、悲しげな表情に。リアル。ジョーと呼ばれる日本人(塩田泰久)と南田のおばちゃん(戸谷友)の対話はカミテで、ジョンスン(千葉茂則)とフリッツ(山本哲也)+ゾフィー(石川桃)の対話はシモテで、ほぼ同時に進行する(平田オリザの〝同時多発会話〟ほど同時ではないが)。オットーとジョンスンの対話から「宋夫人が日本に来てる」と…

ジョンスン役はセリフの不安定さが初日を割引いても少し気になった。宋夫人が上海で語ったジョンスン像と(大柄な点を除くとモデルのゾルゲとも)あまりフィットしない気も(一流の学者+行動力+女性にモテる…)。

第3幕(1940年代の初頭。東京)警察が迫っている兆候に皆さほど頓着しない。ジョンスンはもうここでの仕事は終わったと日本から離れることを告げる。オットーとの別れ、生きていてくれよ、と言い抱き合うシーンはグッと来た。そこに至るオットー、ジョンスン、ジョー(米国共産党が日本に派遣した画家 宮城與徳がモデル)の印象的なやりとりがある——

オットー 軍部があの貧弱な政治理論を行き詰まらせて、政権を放り出すまで待てばいいんだ。そしてその時に彼[当時の日本の総理(近衛文麿がモデル)]をかつぎ出す。軍部が呼号している東亜新秩序、大東亜共栄圏の理論を、そのままぼくのいう東亜協同体理論へ、社会主義の理念へ切りかえて行くんだ。

ジョンスン どうやって? え? どうやって切りかえて行くんだ? オットー。歴史は一歩々々、必然的にしか発展しないものだ。民衆が変わらないで社会が変わるものか。不可能なことと可能なこととの区別ぐらい、もっと理性的に持ちたまえ。

オットー ジョンスン、今の日本は、不可能を可能に変えなければならない現実に迫られている。

ジョンスン きみは神がかりの軍人と同じような表現を使いだしたな。日本がどうしてアメリカに惨敗してはいけないんだ?

ジョー そうです。ぼくもそれは同意見だ。

オットー (ジョーへどなる)きみは、きみのような国籍不明の外国人が、何を発言する権利があるんだ!

ジョンスン ますますきみは右翼みたいな発言をやり出したぞオットー。ぼくははっきりいうよ。日本を崩壊状態に突き入らせろ。日本を悲惨な敗戦に追い込め。そこからしか日本の革命の契機は予想できない。

オットー ぼくは、ジョンスン、日本の国民に何としてでも流血の惨を味合わせたくない。

ジョンスン きみが一人で勝手にそう思っていたらいいだろう!

オットー まだそれがくいとめられる限りはだ。くいとめる努力もしないで眺めている奴をぼくは軽蔑する!

ジョンスン 誰が眺めてろといった? 追いこむように努力しろといってるんだ!

オットー ジョンスンーー

ジョンスン きみはそれでもコミュニストか!

オットー ジョンスン! ぼくは、ぼくは、自分を何と呼んだらいいのか分からない。…

ジョンスン(ゾルゲ)のように俯瞰で見うる立ち位置と、この地に妻や子供が暮らすオットー(尾崎)との対話から、この国の現況が何度も浮かんでくる。エピローグの最後のセリフは、オットーの上記のセリフへの自答なのだろう。

エピローグ 中央に囚人姿のオットー(神)。検事(吉岡扶敏)がシモテ後方から、同窓のよしみで恩着せがましい言葉を発する。カミテ後方からは、老弁護士(境賢一)の、思想や行為は唾棄すべきで国賊に違いないが、国を憂える心から弁護を引き受けたと述べる。無反応な被告に、検事は怒鳴り声を上げると、沈黙を続けていたオットーは言う。

ぼくのこれまでの行動について、一つだけぼくにいえることはーーぼくは、オットーという外国の名前を持った、しかし正真正銘の日本人だったということだ。そして、そのようなものとして行動してきたぼくが、決してまちがっていなかったということ、このことなんだ。

幕開きに標題役を見た時、正直、この役が担えるのかと、懐疑的だった。が、最後のセリフを語る場面を見ながら、この男が、あのようなことをおこなってきたのだと、それなりに信じることが出来た。

あの時代にあのような行動をとった者たちをイメージして書かれた戯曲の上演は、さらに難しくなっていくと思う。そもそも役を担う俳優(というか日本人)が簡単には見当たらないだろう。それを一劇団で上演したのは、やはり大したものだ。演出は丹野郁弓。いろいろ思うところはあるが、作り手(たち)が戯曲に込めた意味を考えることはできた。

【追記】加藤哲郎氏は、上演プログラムのインタビューで、新資料の発見からゾルゲ事件に関する新事実が種々判明したと語っている(聞き手 河野孝)。これを踏まえ、演出の丹野郁弓氏は(1962年初演の)「当時は入手しにくかったであろう資料を読み込んで数年を費やして書かれたこの芝居を私は完全にフィクションととらえて上演することにした」と断っていた(プログラム)。

公演後、加藤哲郎ゾルゲ事件——覆された神話』(平凡社新書 2014)と、渡部富哉『偽りの烙印——伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房 1993)を読み、どちらも文献資料の渉猟と妥協のない現地調査の徹底ぶりに舌を巻いた。

戯曲『オットー』では「林」の名で登場する川合貞吉は戦後も生き残った当事者のひとりだが、加藤の『ゾルゲ事件』によれば、川合はGHQの反共諜報部活動の参謀第2部(G2)から月々金を渡されていたスパイであり、上海での秘密会議に自分も同席したとでっち上げ、当時日本共産党の幹部だった伊藤律ゾルゲ事件の密告者とする「伊藤律スパイ・ユダ説」をG2が作ったシナリオ通りに証言していたという。背景には朝鮮戦争や米国の反共マッカーシズム赤狩り)があり、共産党を叩く狙いがあったと。さらに、オットーこと尾崎秀実をゾルゲに紹介したのはアグネス・スメドレー(「宋夫人と呼ばれるアメリカ女性」)ではなく、米国共産党員でコミンテルン要員の鬼頭銀一であることも明らかに。これまで謎だったキーパースンの鬼頭について、加藤は、本籍地への現地調査等から知りうる限りの情報を記している。

加藤が高く評価する渡部富哉の『偽りの烙印』は、新国立の上演時(2008)に入手したが〝積ん読〟のまま手放していた本だ。やはり読む時機というのはあるらしい。本書は「伊藤律スパイ説」を、当時の「警視庁職員録」を含むあらゆる角度から検証し、粘り強く突き崩していく。その過程はかなり読み応えがあった(本書に垣間見えるかつての日本共産党内の権力闘争は実に凄まじくかつ怖ろしい)。渡部の執念が、尾崎秀樹(秀実の異母弟)の『生きているユダ』(1959)等数著や松本清張の「革命を売る男・伊藤律」(『日本の黒い霧』1960)等々の告発が、川合証言(=GHQ ウィロビー報告)を鵜呑みにした冤罪であることを立証した。『オットー』関連で印象的なのは、「南田のおばちゃん」こと北林トモについてだ。

渡部は、北林が米国から帰国後に住んだ渋谷区の洋裁女学校や、夫の帰国後 夫婦で移住した和歌山県粉河(こわか)への数度にわたる現地調査をおこない、北林を張り込んだ刑事やトモの夫 北林芳三郎の縁者(養子)を突きとめインタビューしている。養子夫妻の家には宮城与徳の絶筆とみられる絵があった。画家の宮城は北林の家に滞在し「粉河寺山門」の絵を描いていたらしい(1990年の沖縄タイムス社版「宮城与徳遺作画集」には収録されていない)。渡部がたまたま入った図書館で、獄中 北林と親しく接した山代巴の『囚われの女たち』に出くわす条りも興奮するが、山代や久津見房子(宮城与徳=「ジョーと呼ばれる日本人」の情報収集を支援して逮捕)による服役中の北林に関する証言には心が動く。久津見によれば、服役中、北林は聖書以外の差し入れ本は受け付けず、「自分はクリスチャンだから共産主義のためにやったのではない、神のため、平和のためにやったのだ、ソビエトを守るためにやったのではない、だから検挙されるとは思わなかったと、山代さんにいったそうですよ」。「わたし(久津見)の房は陽があたったけれど、北林さんの房は陽があたらなかった。たったそれだけの差でも戦争末期の刑務所では、ついに北林さんのいのちを奪うことになった」と。

『オットーと呼ばれる日本人』のように戦時の諜報活動を扱う作品は、題材の性質上、時の経過がその「歴史的限界」を露呈させてしまう。これはやむをえない。たとえば、川合貞吉がモデルの林が登場する、オットー(尾崎)とのいくつかの場面など、真相を知ったうえで思い返すと、少し違和感を覚える。ただ、加藤は「そのこと(歴史的事実が正確でない問題)で、尾崎を主人公とした木下の演劇の価値が損なわれるわけではない」と言っている。同感だ。と同時に、いま、木下順二が生きていたら、本作をどのように改訂するだろうか…。あれこれ想像してみると興味は尽きない。

新国立劇場 こどものためのバレエ劇場『人魚姫』〈バレエ団委嘱作品・世界初演〉全キャスト 2024+

こどものためのバレエ劇場『人魚姫〜ある少女の物語〜』の全キャストを見た(7月27日 土 13:00,29日 月 16:30,30日 火 13:00/新国立劇場オペラハウス)。

当初は初日と29日ソワレの2キャスト予定が、井澤の蛸(深海の女王)も見たくなり、30日マチネを追加。以下は、7/29にツイートした初日の感想メモに加筆修正したもの。

振付:貝川鐵夫/音楽:C.ドビュッシー、J.マスネ ほか/美術:川口直次/衣裳:植田和子/照明:川口雅弘/音響:仲田竜太

+[サウンドトラック]指揮:冨田実里/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団 ドビュッシー《神聖な舞曲と世俗的な舞曲》ハープ:吉野直子 モーツァルト《ピアノ協奏曲第22番》第3楽章 ピアノ:三輪 郁 マスネ《タイスの瞑想曲》ヴァイオリン:三浦章宏 サティ《ジムノペディ第1番》、メンデルスゾーン《無言歌集》から「春の歌」、「信頼」ピアノ:飯野珠美

主催:公益財団法人新国立劇場運営財団、独立行政法人日本芸術文化振興会文化庁/制作:新国立劇場/委託:令和6年度日本博 2.0 事業(委託型)/後援:渋谷区教育委員会/東京都公立小学校長会/東京私立初等学校協会/特別協賛:京王電鉄株式会社/株式会社 タカラトミー/協賛:株式会社 小学館コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社/三菱重工機械システム株式会社

バレエ団で育った貝川鐵夫の全幕振付公演を見る。なんか嬉しい。舞台が客席との交流なしには完結しないものだとすれば、この感慨は劇場文化に特有かもしれない。ビントレー発案の、団員から振付家を育てる「Choreographic Group」の初回公演(DANCE to the Future)は2012年。もう12年経っていた。今回の公演はビントレーも喜んでいるだろう。

音楽好きの貝川氏が「子どものためのバレエ」に〝通ぶらず〟曲を選んでいる。そこが彼らしい。トランジションの演出など工夫の余地はあるが、今後もどんどん創ってほしい。このあと2回目を見るが、以下はとりあえずのメモ(に2回目・3回目の感想から加筆修正)

[27日マチネ]人魚姫:米沢 唯(体調不良のため降板)→廣川みくり/王子:速水渉悟/深海の女王:奥村康祐/婚約者:渡辺与布

[29日ソワレ]人魚姫:柴山沙帆/王子:中島瑞生/深海の女王:仲村 啓/婚約者:木村優子

[30日マチネ]人魚姫:木村優里/王子:渡邊峻郁/深海の女王:井澤 駿/婚約者:木村優子

第1幕は嵐の音で幕が開き、いきなり海の底。音楽はドビュッシーの《神聖な舞曲と世俗的な舞曲》だが、深海の女王の場を除きやや変化に乏しい。→と初日は感じたが、2回目は思ったよりずっと変化に富んでいて、楽しめた。例えば、人魚姫が海底まで差し込んでくる陽光に手を差し伸べる踊り(ここは柴山がいい)は、姫の海上(陸上=人間界)への憧れを見事に表出している。ビントレーの『アラジン』(洞窟シーン)へのオマージュか*1(初日も見ているはずなのに、やはり一回だけだと見逃してしまう)。

…サティの《ジムノペディ》で溺れた王子速水が深海魚たちにリフトされて海底に沈み、それを好奇心旺盛の人魚姫廣川が助けて陸上へ。この音楽はドビュッシー前奏曲集》から「亜麻色の髪の乙女」のオケ版。(王子が溺れて海底に沈む前、そして姫が王子を助けて陸に上げる、その過程を演出でさらに暗示できれば、より劇的効果が高まりそう。→初日にそう感じたのは、冒頭の嵐の音が小さすぎたせいだろう。2回目では、開演前から波の音が聞こえ、さらに冒頭の嵐の効果音も大きくなり、その後の王子が深海に沈んでくるシークエンスにリアリティが増した。)

その後、王子との再会を熱望する人魚姫は深海の女王を訪ね、人間の足を懇願する。女王はアシュトンの義姉を髣髴させる蛸のトラヴェスティでグリンカの《幻想的ワルツ》を豪快に踊る。原作の魔女を想起させる〝化け物性〟を奥村が怪演し爆笑。表情豊かな踊りとマイムが嵌まっている。仲村の女王は大胆かつ伸びやかな踊り・マイムで魅せた。井澤はもっと食み出してもよいか。人魚姫が声と引き換えに足を得るシーンも初日は少し分かりにくかったが、2回目以降はそうでもない(改訂の余地はあるかもしれない)。

王子と結ばれないとき使うナイフを人魚姫に渡し忘れた女王の「しまった!」この表情と動きが最高。慌てて姫を追いかける深海の女王(原作ではありえないが、女王の2幕登場が可能になる)。

助かった王子と婚約者(渡辺与布/木村優子)、貴族らが海辺で踊るのはモーツァルト《ピアノ協奏曲第22番》。貴族や王子らに相応しい、さすがの選曲。第3楽章アレグロで貴族らが踊り、再会の2人は同じくアンダンティーノ・カンタービレで。手に触れるのさえ羞じらう廣川が速水にリフトされた至福感。グッとくるパ・ド・ドゥだ。

ソロはまず姫がメンデルスゾーン《無言歌集》から「春の歌」で初々しい喜びの踊り、王子は同じく「信頼」で誠実かつ気品のある踊り。初日はモーツァルトから「無言歌」への移行に少し違和感を覚えた(古典派の緊密さがロマン派で弛緩したような)が、2回目は気にならず。

戻った貴族らがアレグロサティのワルツ《ジュ・トゥ・ヴー》オケ版で踊る。夜空にはキラキラ星、それが降ってくる…。

第2幕の街の場は一転グリンカロッシーニのウキウキ音楽。レモンとオレンジの場(音楽はヴェルディの2作目オペラ《一日だけの王様》序曲らしい)は、原作では人魚姫が修道院の庭で見たにすぎない果物の木を、どちらが美味いかの言い争いにうまくアレンジしたそこへ人間の少女になった人魚姫が紛れ込み…。

その後、ちょび髭ズボン役の可愛い新聞記者に扮した池田、飯野、奥田五月女(奥田、五月女、直塚)が《ルスランとリュドミラ》序曲で踊り、王子の結婚を公表する。

泥棒かささぎ》序曲の小太鼓が祝典を告げ、王子らはロッシーニ・クレッシェンドで踊る。このあたり、速水は真面目な王子で通したが、中島は音楽の喜劇性を滲ませる。渡邊は中庸。

王子の結婚を知り、困惑する少女(人魚姫)…王子や貴族らの輪舞が輪外の人魚姫と内側の王子のやりとりを疎外する。うまい振付。ナイフを渡し忘れた深海の女王が人魚姫を見つけ、見事なマイムで「王子と結ばれぬなら彼を刺せ、さもないと姫が死ぬ」と改めてナイフを差し出すも、受け取らない人魚姫。

…街のセットが崩れるように消えて海底に。マスネ《タイスの瞑想曲》で人魚姫がソロを踊り、幻の王子とパ・ド・ドゥを踊る。初日の廣川は片足ずつ引き摺るように速水の方へ近づき、思いの強さを表出する。海辺のPDDとのコントラストが素晴らしい。やがて幻は消え、人魚姫一人、そして消える。命と引き換えるほどの愛。

《タイス》は三浦章宏の録音らしい。情緒を排した美しい演奏は廣川の強度と見合っていた。米沢の降板は大変残念だが、廣川の踊りに納得。役を生きることができるし、踊りに詩情がある(芸監もそうだった)。速水は柴山と組む時より〝気〟が入る。

コミカルな要素が随所に盛り込まれた楽しい「こどもバレエ」だが、幕切れの「少女」の死は、こどもたちに強い印象を与えるだろう。人魚姫は自分の生命より、愛する王子の仕合わせを優先させて、泡と消える。アンデルセン原作の肝といえるキリスト教的「不死の魂」が、貝川版では、相手を生かす「愛」となり、その尊さが、こどもたちへのメッセージになった。

親しみやすい音楽の採用は「こどものためのバレエ劇場」に相応しい。かつての「こどもバレエ」『白雪姫』のようにナレーションやセリフに頼らず、バレエならではのマイムが多用されている点も好かった。同じマイムが繰り返されるため、こどもも理解できるだろう。物語バレエのマイムは、オペラのレチタティーヴォに似ている。アリアや重唱(アンサンブル)だけでは物語が進まない。今回、特に深海の女王を踊った奥村、仲村、井澤らの美しいマイムは、それが踊りの一部であることを示してくれた。

最後に一言。ビントレーの「Choreographic Group」プロジェクトはダンサーたちの未来(DANCE to the Future)を見据えたものだが、その先には、「日本人振付家作品を上演する、真の意味での日本のバレエ団を樹立しようとするヴィジョン」が見えてくる。このヴィジョンを共有する人が少しでも増えてほしい。ヴィジョンの実現は簡単ではないが、まず「日本人は創作の追随者であって、その主導者ではないという誤った考え」*2を改めなければならない。

新国立劇場バレエ団(New National Ballet of Japan)が改訂版『人魚姫』を生演奏で再演することを切に願っている。

*1:舞台から読み取れる〝インターテクスト〟は興味深い。たとえば、ビントレー『パゴダの王子』深海→深海魚/『アラジン』洞窟に差し込む明かり→海上世界へのあこがれ/アシュトン『シンデレラ』義姉のトラヴェスティ→深海の女王(蛸)のトラヴェスティ/マクミラン『マノン』デ・グリュー挨拶のソロ→王子のソロ/『ラ・ボエーム』ミミとロドルフォの相互自己紹介アリア→海辺のPDDのヴァリエーション/プティ『コッペリア』コール・ド(隊列)→結婚の場等、『こうもり』ちょび髭のウルリヒ→新聞記者のズボン役3人/エイフマン『アンナ・カレーリナ』社交界でのアンナとヴロンスキーの疎外感→レモンとオレンジの場の人魚姫のよそ者性…。貝川氏は先人から学んだ様々な趣向や舞踊語彙を消化吸収し、それを巧みに練り直して独自のバレエ作品を創り上げた。

*2:どちらの出典も Kenji Usui, International Dictionary of Ballet, Vol. 2, Martha Bremser ed., St James Press, 1993

芸劇 dance 中村蓉『邦子狂詩曲』ダブルビル 2024+

中村蓉の『邦子狂詩曲 クニコラプソディー』初日と3日目を見た(8月9日 金 18:30,11日 日祝 14:00/シアターウェスト)。

振付・構成・演出:中村 蓉/舞台監督:熊木 進/照明:久津美太地/音響:相川 貴/映像・ドラマトゥルク:中瀬俊介/音楽:長谷川ミキ/演出振付助手:河内優太郞/振付助手:安永ひより/宣伝美術・宣伝写真:江野耕治/プロダクションディレクター:内堀愛菜

当初は初日だけのつもりが、3日目アフタートーク岡田利規が登壇と知り、追加ゲット。思った通りアフタートークは面白かったし、舞台も2回見るとよく分かる。特に新作『禍福はあざなえる縄のごとし』前半の印象がかなり変わった。

『花の名前』出演:福原 冠(俳優)・和田美樹子(メゾソプラノ)・中村 蓉(ダンス)・長谷川ミキ(ピアノ)

初日の開演前、長谷川は「海ゆかば」を二度弾き、耳に残った。昭和へのオマージュか。小津映画(「父ありき」*1)の影響? 向田邦子(1929-81)を育んだ土壌に戦争があることを示唆?(あとでプレイリストの掲示に気づき、「だいこんの花」関連と知る。竹脇無我が出ていたドラマだが「海ゆかば」はまったく記憶にない)。

「残り布でつくった小布団を電話機の下に敷いたとき、『なんだ、これは』と言ったのは、夫の松男である」——マイクを付けた福原が朗読し(語り)ながら演じ、踊る。青灰色のアッパッパーに素足の中村登場。ノースリーブの中央に暗赤色の円形がデザインされている。日の丸か。中村は頭をカミテに背中は客席に向け横向きに寝て左手の甲を背中に付けて開き右掌で側頭部を押さえ左脚を蛙のように半ば浮かせる奇妙な姿態。昭和の黒電話らしいが、妙に艶めかしい。やがて、女から電話がかかり夫に世話になっていると…。

結婚前にカットバックし、結婚を躊躇する常子に、乗り気の母(和田)が夫(常子の父)の女出入りに言及。ここで福原(常子の父)が客席の女性に〝口説き〟を繰り返し、遅れて来た客(メガネの中村)と小芝居した後、ピアノがプロコ『ロミジュリ』バルコニーシーンの一節を弾くや、中村(常子)と福原(夫松男)のパ・ド・ドゥが始まる。

結婚以来、常子は経済しか知らない「XX真面目な」夫に花や魚や野菜の名前を教えてきた。そのやりとりは夫婦のエロス的関係でもある。「それはなんの花だ?」互いの手と顔が次第に接近し絡み合い、熱と官能性を帯びていく。初日はここで地震警報が鳴り、中断。約10分後、中村と福原が再登場し「安全が確認されました。…常子の、あたし(中村)ですけど、幸福の絶頂で中断しました。このあと転落が始まるんですけど(客笑)。その絶頂から再開してもよろしいでしょうか(拍手)」。再開後の常子と夫のパ・ド・ドゥは観客も演者も体がほぐれていた。…常子のお陰で人間らしくなった夫は上司に「見直した」と褒められ、感謝する夫…。

時間が戻り、薔薇柄のワンピースを着たツワ子(電話の女/和田)と会う場面。…中村のソロは、夫の浮気相手に会う妻の内側をダンス化したものか。中東風の音楽は和田勉採録した例のトルコ行進曲を髣髴させる。…ツワ子の由来は自分が教えた「花の名前」と思いきや違った。…夫に告げると、終わった話だ。花の名前、それがどうした。女の名前、それがどうした。…隣家からTV放送終了の「君が代」が。団欒時には聞こえなかった孤独のしるし。中村はそのメロディを「ソレガドオシタ〜ソレガアアドオシタ」と口ずさみ、すすり泣く。中村の衣裳は白黒TVのブラウン管に映し出された日の丸に違いない。ピアノがドビュッシーを演奏、シモテの和田が別の曲を歌い(何語?)さらに喜劇映画のラストを告げる派手なフルバンドの音楽が、常子の孤独や悲しみを吹き飛ばし、異化する。

原作の短篇を忠実になぞるかに見えるが、要所でデフォルメが施される。「それがどうした」や「見直した」等、言葉や場面がゴチック化され、戯画化される。ただ原作をなぞるだけではクリエーションとはいえない。そこに新たな相貌が立ち上がらなければ。本作では人生(生きること)への愛おしさと可笑しさが、同時に立ち現れた。

『禍福はあざなえる縄のごとし』島地保武・西山友貴+福原 冠・和田美樹子・中村 蓉

可動式の白壁に映し出された向田邦子の名字やフレーズをモチーフに島地保武と西山友貴が踊る。二人とも腰にシャツを数枚ぶら下げたような面白い衣裳。映像を見ながらダンスを見るのはシンドかったし少々退屈もした(が再見時は違った)。[追記 白い箱枠(?)を使ったシークエンスで《ラプソディー・イン・ブルー》の古そうな音源が使われた。あの音楽は公演タイトルの他にどんな意味があったのか。気になって調べてみると、向田のエッセイ「海苔巻きの端っこ」に「「ラプソディー・イン・ブルー」のガーシュインの仕事部屋」の文言があった。〝物書きの書斎の広さや机の位置〟の話は、ここから来ていたのか。自分(向田)は狭い所の〝隅っこ〟でないと落ち着かないと。だから、ラストで西山が物書きしている位置がシモテの端っこだったのか。なるほど。]アン・マレーの「You needed me」(向田ドラマ『幸福』の主題歌に使われたと後で知る)で二人が踊り、最後は舞台奥で島地が西山を万歳リフト(You put me high on a pestal?)拍手が湧いた。片方がインプロで喋って不意にうしろへ倒れ、相手が素早く支えるシークエンス(I needed you and you were there)から舞台への注視度が増した。偶然性を採り入れた踊りは『オーランドー』でも見られたが、面白い。西山が倒れたあと、福原が文庫を手にエッセイ「手袋をさがす」を朗読しながら登場。「花の名前」組の闖入だ。どのタイミングだったか西山も黒電話の姿態をとった。…『阿修羅のごとく』や『寺内貫太郎』の場面を島地と中村らが演じるシークエンスは、爆笑した。「阿修羅」では島地の「ピンポーン」。三條美紀が夫(菅原謙次)の浮気相手の加藤治子と対決する場面は秀逸。靴箱を空けようとする三條に加藤が素早く阻止するシーンは忘れ難い。中村の阻止も初日は素早かった(3日目は疲れたか)。菅原役と三條役を島地と福原が瞬時に入れ替わるのも好い。加藤役の長女は生け花の師匠だから、花繋がりだ。島地の声は太くてよく通る。『隣の女』でバッハが流れたか(声楽曲で器楽のみのフレーズ? マタイ? ロ短調ミサ? 2回見たのに聴き取れず)。…沢山の紙(原稿?)が上から落ちてくる、西山が机で書きものをし暗転。2回目の方が面白く感じた。ただ、島地と中村のダンスのやりとりを見たいと強く思った(爆発の予感)。

アフタートーク岡田利規は司会者(内堀愛菜)に感想を求められたが、結局、中村蓉への質問に終始。岡田は中村の答えを反芻し、さらに質問を投げ返す。ちょっとソクラテスの〝吟味〟みたいだが、とてもよかった。なぜテキスト(原作)をダンスに用いるのか。テキスト(文学作品や戯曲等)を舞台化(舞踊化)する意味は。するとゴールは、踊りが向田邦子になっていることなのか等々。リアリズム(に付いて回る嘘くささ、わざとらしさ)や感情移入を好まず、〝演劇批判〟としての舞台を作り続ける岡田からすれば、当然の質問が続いた。岡田の正直/誠実な問いに、中村も正直/誠実に応答していく。中村は、テキスト(言葉)に基づきつつ、テキスト(言葉)からいかに離れるか。向田作品のように好きすぎると、分解できない。そこに甘さがあるかも等々。トークの最後で中村が岡田の「瀕死の白鳥」に言及したのはよかった(「瀕死の白鳥 その死の真相」感想メモ)。客席には酒井はなの姿も。アフタートークにありがちの安易な〝挨拶〟などしない岡田はさすが。そういえば、二人ともオペラの演出を手がけている(残念ながら中村演出は未見)。岡田が芸劇の芸監で、中村がコンサートオペラを演出した舞台を見てみたい。もちろん、二人のコラボも。

クラシック音楽の指揮やオペラの演出など、いわゆる再現芸術を見る/聴く場合、いったんバラバラにして再構築(再構成)したと思えるとき、こころが動き、体がほぐれることが多い。 

再々演らしい『花の名前』と新作『禍福』の分解度は、本人の言う通り、後者の方が優っているように見える。ただし、そもそも前者は原作が完結した短篇小説だが、後者は複数のエッセイが素材となっており、当然、前者は作品としての統一感があり、『禍福』はオムニバスというかコラージュ感が強い。今回のダブルビルは好みで言えば、前者だった。フィクションをダンスに言葉と音楽を交えて立体化する試みは、それだけで興味がそそられるし、面白い。

*1:戦時下(1942年)公開の「父ありき」は息子役の佐野周二が嫁のふみ子(水戸光子)と父の遺骨を携えて夜行列車で秋田へ帰る幕切れに「海ゆかば」が流れる。ただし敗戦後の再公開ではGHQの検閲を受け、「海ゆかば」の音声だけ削除された。