9月のフィールドワーク予定 2022

今月も5公演と少なめ。7月中旬以降、オケの生演奏から遠ざかっている。久し振りに聴くとどんな感触なのか。楽しみだ。

1日(木)19:00 『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』テキスト・演出:岡田利規/共同振付:岡田利規、湯浅永麻、太田信吾/出演:湯浅永麻、太田信吾/主催・企画・制作:彩の国さいたま芸術劇場(公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団)/助成:Dance Reflections by Van Cleef & Arpels文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)、独立行政法人日本芸術文化振興会 @彩の国さいたま芸術劇場小ホール

19日(月・祝)15:00 「サラダ音楽祭」メインコンサート[曲目]ペルト:フラトレス~弦楽と打楽器のための [ダンス付き]/ウェーバー:歌劇『オベロン』序曲 J.306/ラフマニノフピアノ協奏曲第2番 op.18より 第2楽章 [ダンス付き]●/メンデルスゾーン:劇付随音楽《夏の夜の夢》(台本:小林顕作)◆▲★◎/指揮:大野和士ストーリーテラー:パックン(パトリック・ハーラン)◎/ピアノ:江口 玲●/ソプラノ:前川依子◆/メゾソプラノ:松浦 麗▲/ダンス:Noism Company Niigataノイズム・カンパニー・ニイガタ(演出・振付:金森 穣)/合唱:新国立劇場合唱団★(合唱指揮:水戸博之)/管弦楽東京都交響楽団 @東京芸術劇場コンサートホール

21日(水)19:00 N響 #1964 定演〈Bプロ〉~ファビオ・ルイージ首席指揮者就任記念~ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61/ブラームス交響曲 第2番 ニ長調 作品73/指揮:ファビオ・ルイージ/ヴァイオリン:ジェームズ・エーネス @サントリーホール

25日(日)15:00 BCJ #151 定演「秋のカンタータ〜大天使ミカエルの祝日〜」教会カンタータ・シリーズ vol. 81/J. S. バッハ:プレリュード  ハ長調 BWV 545*/おお主なる神よ、汝の神なる御言葉 BWV 757*/フーガ ハ長調 BWV 545*/カンタータ第8番《愛する御神よ、いつ我は死なん》BWV 8/カンタータ第47番《誰であれ高ぶるものは低くせられ》BWV 47/カンタータ第130番《主なる神よ、我ら皆あなたを讃えます》BWV 130/指揮:鈴木雅明/ソプラノ:松井亜希/アルト:青木洋也/テノール:吉田志門/バス:ドミニク・ヴェルナー/オルガン独奏:鈴木優人*/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン @東京オペラシティ コンサートホール タケミツメモリアル

28日(水)19:00 新国立劇場演劇 海外招聘公演『ガラスの動物園 The Glass Menagerie』〈フランス語上演/日本語及び英語のバリアフリー字幕付〉作:テネシー・ウィリアムズ/演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ/制作:国立オデオン劇場/フランス語翻訳:イザベル・ファンション/ドラマトゥルグ:クーン・タチュレット/美術・照明:ヤン・ヴェーゼイヴェルト/衣裳:アン・ダーヒース/音響・音楽:ジョルジュ・ドー/演出助手:マチュー・ダンドロ/出演:イザベル・ユペール、ジュスティーヌ・バシュレ、シリル・ゲイユ、アントワーヌ・レナール @新国立中劇場

 

8月のフィールドワーク予定 2022/iakuのこと

あっという間に16日。今月は演劇の2公演のみだが、一方の『あつい胸さわぎ』再演はすでに終わり、他方の劇団銅鑼公演は陽性者が出たため中止に。8月に1公演しか見ないのは二十数年ぶりか。

『あつい胸さわぎ』は、役者はみな巧いし〝感動〟したが、同時に、演劇性から物語性(メロドラマ)への比重の移行を再確認した。

横山拓也の作品は2018年から見続けてきた。数えたら11作(『首のないカマキリ』は見逃した)。初めて見た「iaku 演劇作品集」(『あたしら葉桜』『梨の礫の梨』『人の気も知らないで』『粛々と運指』)のちらしに本人のコメントが記されている。「横山戯曲は岸田國士の系譜にあると考えている」と。岸田の『葉桜』(1926)と自身の『あたしら葉桜』の連続上演に触れたものだが、『あたしら』以外の作品もたしかに岸田的対話の妙が際立つ。ただし、この4作に魅せられたのは、(関西弁の)対話の妙もあるが、芝居の〝仕掛け〟が大きかった。

岸田は「『或ること』を言うために芝居を書くのではない。芝居を書くために『何か知ら』云うのだ」と何度か繰り返した。これは、芝居の内容(物語)より、芝居としての妙味、つまり演劇性(小説とは異なる)を優先するという作劇宣言である。横山作品も、語り方の工夫(手法)に芝居の妙が強く感じられ、その意味で、「岸田の系譜にある」といってよい。私が気に入ったのは、決定的情報の後出し(『あたしら』『梨の礫の梨』『人の気も知らないで』)や、攪乱された/二重の時間(『逢いにいくの、雨だけど』『雉はじめて鳴く』『The last night recipe』『フタマツヅキ』)などの〝仕掛け〟である。〝後出し〟は、観客に、それ以前の科白の想起と再吟味を促し、〝二重の時間〟は、各場面の、あるいは場面間の意味や関係性を宙づりにし、かえって、いまここでの科白に注視させる。このように、劇の〝仕掛け〟が、シンプルなセットや俳優の律動的な登退場と相俟って、上演を音楽に近づけるのだと思う。横山作品がしばしば良質な演劇的快楽をもたらす所以である。

ただ最近は、そうした要素がやや後退し、物語(メロドラマ)性が前景化してきた印象を受けることがある。特に二つの再演舞台(21年『逢いにいくの、雨だけど』、今回の『あつい胸さわぎ』)などはそう。再演で演技がこなれるせいか、ある意味、分かりやすく、より感動的になった。これをポジティブに捉える向きもあるだろう。だが、芸術の場合〝分かりやすさ〟は要注意だ。ここで想起したいのは、「異化」である。ブレヒトではなく、その基になったシクロフスキイの方。

「芸術の手法とは、事物を〈異化〉する手法であり、形式を難解にして知覚をより困難にし、より長びかせる手法なのである。というのも、芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的であり、そこで、このプロセスを長びかせねばならないからである。芸術は事物の成りたちを体験する方法であり、すでに出来上がってしまったものは芸術においては重要ではないのである」(ヴィクトル・シクロフスキイ「手法としての芸術」松原明訳/ゴシックは引用者)。

俳優座への書き下ろしは11月の新作『猫、獅子になる』で三作目だし、昨年は文学座で『ジャンガリアン』が上演された。後れを取った新国立劇場は12月に『夜明けの寄り鯨』を上演予定だ。横山作品が広く認知され、多くの観客を得るのはとても喜ばしい。ただ、今後も〝分かりやすさ〟より、演劇性を優先させた作品が書かれることを期待している。

5日(金)18:00 iaku『あつい胸さわぎ』作・演出:横山拓也/舞台美術:柴田隆弘/照明:葛西健一/照明オペ:平野明/音楽:山根美和子/音響:星野大輔/音響オペ:日本有香(Sugar Sound)/演出助手:朝倉エリ/衣裳:中西瑞美(ひなぎく)/舞台監督:青野守浩/[配役]武藤千夏(芸術大学の文芸学科学生):平山咲彩、武藤昭子(マスモリ繊維(株)社員+千夏の母):枝元萌(ハイリンド)、花内透子(マスモリ繊維(株)社員):橋爪未萠里、川柳光輝:田中亨、木村基晴(マスモリ繊維(株)社員):瓜生和成(小松台東)  @ザ・スズナリ

29日(月)19:00 劇団銅鑼 創立50周年 第2弾 No.57『ふしぎな木の実の料理法〜こそあどの森の物語〜』原作:岡田 淳(「ふしぎな木の実の料理法」理論社刊)/脚本:斎藤栄作/演出:大澤 遊/美術:池宮城直/照明:鷲崎淳一郎/音響:ステージ・オフィス/衣装:柿野あや/音楽:いとをひろみつ/振付:下司尚美/舞台監督:和田健汰/演出助手:吉岡琴乃/舞台監督助手:村松眞衣・大竹直哉/衣装スタッフ:髙辻知枝/音声ガイド:中島沙結耶・齊藤美香/イラスト:さいとう りえ/宣伝美術:山口拓三(GAROWA GRAPHICO)/票券:佐久博美/制作:平野真弓/[配役]スキッパー:齋藤千裕、ドーモ:深水裕子、ポット:佐藤響子、トマト:亀岡幸大、トワイエ:館野元彦、ギーコ:植木圭、スミレ:川口圭子、アップル:福井夏紀、レモン:佐藤凜、ナルホド:池上礼朗、マサカ:早坂聡美、バーバ(声の出演):北畠愛美 @シアターグリーン BIG TREE THEATER←「関係者の中に新型コロナウイルスへの陽性反応を示す者が複数名確認され…協議を重ねた結果、全公演の中止を決定 8/15」

DULL-COLORED POP 第25回本公演「岸田國士戦争劇集」2022

岸田國士戦争劇集」初日ソワレ(白組)と8日目ソワレ(赤組)を観た(7月8日 金曜 19:00,13日 水曜 19:00/アトリエ春風舎)。

岸田國士の『動員挿話』と『かへらじと』は十数年前に作品論を書いたことがある*1。『動員挿話』の上演は何度か見た。というか、新国立劇場の上演(2007)が論文執筆のきっかけだった。が、『かへらじと』はほぼ上演された形跡がなく*2、今回、舞台を目の当たりにした感慨は一入で、岸田國士が書いた科白の美しさ、作劇の見事さに今更ながら舌を巻いた。それを感じさせる上演だったということ。以下は、例によって、だらだらとメモする。

構成・演出:谷 賢一(DULL-COLORED POP)/『動員挿話』(1927)『戦争指導者』(1943)『かへらじと』(1943)/演出助手:刈屋佑梨、石井泉/美術:濱崎賢二/映像:松澤延拓(株式会社カタリズム)/映像助手:イノウエタケル/照明:緒方稔記(黒猿)/音響:佐藤こうじ( Sugar Sound)/衣裳:友好まり子/所作指導:石原舞子/制作:DULL-COLORED POP/協力:アゴラ企画、アトリエ春風舎/助成:公益財団法人セゾン文化財団、文化庁「ARTS for the future! 2」補助対象事業

白組(7/8金)『動員挿話』『かへらじと』:倉橋愛実(DULL-COLORED POP)、荒川大三朗、石川湖太朗(サルメカンパニー)、石田迪子、伊藤麗、函波窓(ヒノカサの虜)、國崎史人、古河耕史/『戦争指導者』:古河耕史、荒川大三朗

赤組(7/13水)『動員挿話』『かへらじと』:阿久津京介、東谷英人(以上DULL-COLORED POP)、越前屋由隆、齊藤由佳、原田理央(柿喰う客)、ふじおあつや、松戸デイモン、渡辺菜花/『戦争指導者』:東谷英人、越前屋由隆

[声の出演]『かへらじと』、ラジオドラマ『空の悪魔』(1933)後者は7/15より有料配信:石井泉、小野耀大、小幡貴史、勝沼優、椎名一浩、田中リュウ、服部大成、間瀬英正、溝渕俊介、宮部大駿

舞台には一段高い板の間が作られ、正面奥の〝壁〟は縄のれんのように出入り自由。正面の欄間と横木は鳥居を思わせる形状。この板の間が『動員挿話』第1幕では宇治少佐の居間、第2幕は馬丁友吉夫妻の部屋となり、後半の『かへらじと』第1幕では神社の拝殿(原作では「拝殿は見え」ず境内の広場が舞台)や境内となり、第2幕は志岐行一の家の「奥の間」となる。

戦時のニュース映画風に、黒船来航(不平等条約)を起点とした日本近現代史岸田國士(1890-1954)の主要年譜が、当時の映像等を交えて映写される。1904(明治37)年の日露開戦では、軍人に扮した役者が登場する。岸田の父だろう。この年は『動員挿話』の設定年で、父の庄造は大隊長(少佐)として出征し、14歳の國士は名古屋地方幼年学校に入学している。軍靴の音が響くなか、やがて1927(昭和2)年『動員挿話』の発表年となる。…

【白組】プロローグで軍人に扮した古河耕史が宇治少佐として再登場。『動員挿話』が、父親の出征時(動員)のエピソード(挿話)に基づくことを理解させる仕掛けだ。第1幕。陸軍少佐に仕える馬丁友吉が戦争に行くことに、妻数代が強く反撥する。数代の言動は、1927年の当時、劇評家は少佐と共にアブノーマルと見なしたが、いま聞くとしごくまっとうに聞こえる。それが、文脈次第では非国民となるから恐ろしい。

幕切れの女中よしの「井戸です」の科白は弱め。その前に、身を投げたはずの数代がシモテからゆっくり歩み出て、中央手前で座る。その彼女を見ながら友吉の科白「やりやがったな…」。死んだ数代の再登場についてはあとで触れたい。

古河はインテリ軍人の趣き。石田迪子は少佐夫人の品格が見えた。二人の発話は無理に感情を込めず、むしろ言葉自体がおのずと感情を引っ張り出してくるのを待つようなあり方。そう感じた。一方、馬丁夫婦は声が大きくぶっきら棒でいわゆる現代的な印象。こうしたスタイルの違いは両者の身分差(主従関係)を考えると納得できる。

[右上の図版は1927年9月 帝国劇場の初演写真(『演芸画報』1927年10月号)上:大谷友右衛門の宇治少佐、河村菊江の夫人鈴子、阪東嘉好の従卒太田/下:村田嘉久子の妻数代、守田勘彌の馬丁友吉/宇野四郎 舞台監督(演出)、井上弘範 舞台装置]

「戦争指導者」(1943年4月)は知らなかった。「軍艦献納運動*3」をサポートするために書いたらしい。初出は、谷氏(プログラム)によれば、日本文学報国会の機関誌「日本学芸新聞」で、『辻小説集』に収録されている。313字というからショートショートか。流頭(ルーズベルト)=古河と茶散(チャーチル)=荒川のコントみたいな短い対話。漫才風にアドリブから始めた。平田オリザの『ヤルタ会談』を想起。数代が自死した深刻な幕切れ後のコミックリリーフとして効果的。

『かへらじと』は戦時の移動演劇用に書かれたため、それなりの人数が要る。アトリエ春風舎の小さな空間でコロナ下もあってか、第1幕の祭りの準備、第2幕の志岐の戦死報告会も、正面の〝縄のれん〟に映るシルエットや録音した声の出演などを駆使して対応した。姿の見えない役者と録音とのやりとりは、早朝の祭りの準備の情景としては少し物足りない気もしたが、主要人物の対話をフォーカスする利点もあった。赤紙の来た志岐行一は、親友の大坪参弍に、妹のふくを嫁に貰ってくれと打診するが、断られる。参弍は当初のイメージより少し年長の印象。

ハイライトは半年後の第2幕。戦死した志岐行一の遺影代わりに、本人が軍服に国旗の付いた銃を担いで鎮座する。死者の現前は『動員挿話』と同じ。女性らが座布団を敷き、湯飲みを置く。志岐が属した部隊の上級部隊長の副官 結城少佐が来行し、志岐の最期を語る場だ。結城少佐はもちろん古河。この語りが山場。小声で淡々と、ここぞのくだりは意を込める。うまい。語りのなか、戦場で志岐一等兵が部隊長に呼ばれて話しをする場面は、思わず見入った。部隊長役は大坪老人を演じる荒川大三朗。カミテの袖で着替えて登場するが、荒川の怒鳴る軍人造形はとてもリアルで迫力満点。一瞬、軍部が手を入れた改訂版かと錯覚した。オリジナルでそう感じるとは。新発見。[上記二つの図版は初出誌『中央公論』1943年6月号の伊藤熹朔による舞台美術のスケッチで、上左は第1幕、下右は第2幕。]

結城少佐は、この報告を次のように総括する。志岐の戦場での行動は、勇敢といえば勇敢だし、純粋といえば純粋だが、短慮無謀のきらいがあるため、全軍の模範とはいえないと。そうした留保を付けたうえで、少佐はいう、「われわれ軍人のみならず、日本人として、志岐君の一念には深く打たれるところがあることを、わたくし、率直にみなさまに申し上げたい」。生きては帰らぬ(かへらじと)決意は兵隊がみな胸に秘めてはいる。だが、志岐の場合は、すべてが例外に思われると。

個人的な過失を国家的な罪として自らこれを責め、友情をもって大義に結び、戦場に於いては、死にまさる奉公なしと観じた一徹素朴な精神を、わたくしは、涙なくして考えることはできないのであります。欲を云えばきりがありません。これが日本人です。日本男児です。謹んで志岐君の冥福を祈ります。終わり。

この「欲を云えばきりがありません」との科白はずっと耳に残った。当時(戦時)の日本では、これが岸田の絞り出したぎりぎりの「ヒューマニズム」であり、これ以上は残念ながら望めないと、岸田自身が言っているように聞こえたのだ。…

ラストのふくと参弍のエピソードはとても軽やかで明るい。大坪老人が、ふくの母親に娘を嫁にくれないかと言い出すが、肝心の参弍はもじもじして何も言えない。それに「まあ、こんなところかな」と大坪老人は言うのだが、これには思わず笑いが出た。岸田がこんな科白を書いていたかと、あとで確かめたほど。信時潔の賛美歌のような「海ゆかば」が流れて暗転。

古河を初めて見たのは『長い墓標の列』(2013 初日中日)。次が福島三部作 第二部『1986年:メビウスの輪』(2019)、そして今回だが、相変わらずうまい。彼の存在で、舞台がグッと引き締まっていた。

数代の〝反戦〟を岸田國士の思想と捉えがちだが、それは違うと思う。岸田は劇作家として、血の通う生きた馬丁の妻を造形したら、結果として、戦後の憲法を有するわれわれが共感しうる〝反戦〟思想の人物像が創り出された。そういうことではないか。これは、イギリスの詩人キーツシェイクスピアは「桁外れに所有していた」といったネガティヴ・ケイパビリティに関連していると思う(詳しくは先の論文に書いた)。

新国立劇場の深津篤史演出では、数代が不在の場面でも彼女を何度か舞台に現前させた。谷演出では、数代が自死したあと登場するが、おそらくそれは、友吉の最後の科白を彼女のからだに向けて吐かせるためと、続く『かへらじと』の第2幕で、戦死した志岐行一の遺影としてのからだにつなげるためではないか。『動員挿話』の演出で深津とも共通するのは、共に数代のからだを介し、観る者に考えさせる趣向だと思う(当時はともかく現代では共感しうる数代を通して、舞台を見/考えることを促す)。

岸田國士は戦争になったら勝たねばならぬと考えた。これは当時ではごく当たり前の考え方。それが〝悲惨な戦争(敗戦)〟体験を経て、日本はいまの〝平和憲法〟を得たのだが、それは人類の叡知(カント)であり、宝であるのかもしれない。

【赤組】機器のトラブルでプロローグのやり直しがあり、10分遅れでスタート。(開演前のスマホの注意や危機の操作もすべて谷氏だが、トラブル時のお詫びと弁明のお喋りには笑った)。

『動員挿話』宇治少佐はイメージより若く見えるが、声はよい。友吉は人物造形が優れている。立ち居振る舞い、科白。数代はちょっとアイドルタイプだが、役の〝過剰さ〟がよく生きられていた。女中よしも感じが出ていた。赤組は総じて現代的で感情を込めるあり方。よしの「奥さま、井戸…」はリアル。夫人がそれを聞いて出て行く様は、白赤ともにさほど切迫感がないのは演出か。友吉の、正面に現前する数代に向けられた「うそだよ、うそだよ、おれは行かないよ。行かないってばさ。ええい、うそだって云うのに、これでもわからんのか……」は、矢のように数代のからだを通って、われわれ観客に刺さった。

暗転し「戦争指導者」へ。早速 冒頭のトラブルをいじる二人。流頭=東谷英人、茶散=松戸デイモン

『かへらじと』2回目だけに科白がよく聞けるし、状況もよく分かる。志岐らしくマッチョでないタイプの役者。志岐行一と大坪参弍の対話はやや感情過多だが、「戦争志願奨励劇」(渡邊一民)としてリアルともいえる。第2幕の結城少佐は東谷英人。うまい。白組の部隊長は凄い迫力で改訂版かと思ったが、赤組は、声が知的な部隊長(越前屋由隆)ゆえ岸田のオリジナルと納得。[左図版の中段は 1943年6月 邦楽座(丸の内ピカデリー)で「移動演劇東京特別公演」として上演された『かへらじと』(軍部による改訂版)第2幕の舞台写真。佐々木孝丸演出、伊藤熹朔 装置、松竹国民移動劇団(ふく役は北林谷栄)出演/図版中の上段写真は同時上演の久藤達郎作『たらちね海』(『移動演劇図誌』1943年11月)]

本作は、要するに、赤紙が来てギョッとし、喧嘩の仲裁ばかりしていた青年が過って片目を失明させた親友の代わりに、その意志に報いるために死を賭して戦い、戦死する。国家(昨今よく聞く「国益」)や天皇陛下のためではなく、個人として親友のために生命を賭けた点がポイント*4。いまの日本では(特に若い人には)この点が見落とされるかもしれない。もし今回のオリジナルと改訂版(認可脚本)とを交互に上演できたら、岸田がいかに苦心して戦時の日本社会に受け入れ可能な伝統的「死生観」の枠内で、志岐行一の死なせ方を〝日本固有のヒューマニズム〟たりうるものにしようとしたか、また、いかに当時の軍部がいびつで狂信的で没理性的だったか、よく分かるのではないか(谷さんでも誰でも、上演してくれるなら、「認可脚本」は喜んで提供します)。

戦争前の1927年『動員挿話』で〝反戦〟だった岸田が、戦時の 1943年『かへらじと』で戦争を肯定する戦争劇を書いた? そうではない。軍人の家に生まれ、自らも軍人を目指した岸田國士は、反戦思想を抱いたことなど一度もなかったはず。『動員挿話』での〝反戦〟の位相については上記の通り。では、16年後の『かへらじと』で、岸田は何をしようとしたのか。

戦争は決して負けてはいけない。いったん戦争が始まったら理屈抜きに「お互いの生命を守り合うのが当然だ」(リレー評論「文学者と愛国心」1936)。だが、人命をモノのように軽く扱い、人間性の無視が蔓延している事態こそ「結局いざという場合に、国民の本当の力を出し切ることのできない最大原因」である(「文芸雑記」1940)。そこで、〝生命を大事にせよ〟〝国家より個人を尊重せよ〟との価値観を絶妙に盛り込んだ「戦争志願奨励劇」を書き、移動演劇として上演することで、国民を啓蒙しようとした。あくまでも、戦争に勝つための文化の「側衛的任務」として(「文芸の側衛的任務」1940)。

だが、そんな岸田の「戦争劇」も、そのまま上演されることはなく、舞台化されたのは、軍部の意向に沿って無残に改竄(改訂)された「認可脚本」だった。

 

*1:「戦争文化論(Ⅲ)——岸田國士『動員挿話』における〝反戦〟の位相」桜文論叢第68巻,2007/「岸田國士の戦争劇——『かへらじと』の認可脚本をめぐって」2009。

*2:谷賢一氏によれば、文学座研修科の発表会(2020年/鵜山仁 演出/文学座アトリエ)でやったらしい。

*3:「軍艦献納」といえば、「古典」という語の由来を想起させる。「古典」はラテン語の形容詞 classicus にから来ているが、これは「艦隊」の意味を持つ名詞 classis から派生した。つまり、classicus は国家の危機に、国家のために艦隊を寄附できる富裕階級を指し、転じて「人間の心の危機において本当に精神の力を与えてくれるような書物のことをクラシクスというようになり、さらに「絵画でも音楽でも演劇でも精神に偉大な力を与える芸術を、一般にクラシクスと呼ぶようになった」(今道友信)。ちなみに、prole は子供のことで、形容詞 proletarius は、そうした危機に自分の子供しか差し出せない貧しい人々を意味し、それがドイツ語のプロレタリアート(労働者階級)となって世界中に広がった。

*4:1938年に「国家を裏切るか友を裏切るかと迫られたときには、国家を裏切る勇気を持ちたいと思う。こんな選択をすれば現代の読者は憤慨して即座にその愛国的な手を電話にのばし、警察に通報するかもしれない」(小野寺健訳)と書いた E. M. フォースターの言葉と比較してもよい。

7月のフィールドワーク予定 2022【加筆】

ペレアスとメリザンド》は質の高い歌手陣と緻密な演出で、見応えはあったが疑問も感じた。プロダクションが初演されたエクサンプロヴァンス等の欧州並に、オーソドックスな舞台の歴史が積み重なっているとは言えない文脈では唐突感が禁じ得ない。男性の女性に対する〝ロマンティック〟な幻想破壊は、《アルマゲドンの夢》の演出と共通している。オランピアが合いそうな声質のソプラノをメリザンド役に選んだのは、神秘的な女性像を相対化したいから?(これが欧州では普通なのか。)今回の生々しいメリザンド造形には少しちぐはぐな印象も(巧いんだけど)。メリザンドがペレアスの下腹部をまさぐるシーンで、左バルコニーから濁点付の「あー!」と叫ぶ男の声が。客席のみならず歌手陣やオケも面食らったに違いないが、演出家(来日せず)が知ったら「しめしめ」か。

柄谷行人の講演を久し振りに聴いた(オンラインだけど)。柄谷氏の著作は最初の漱石論から『探求』を経て『トランスクリティーク』の前ぐらいまで、本に未収録のものを含めほぼすべて読んでいる(最初に読んだのは『マルクスその可能性の中心』か中上健次との対談『小林秀雄をこえて』? 後者には小林論の「交通について」が収録されていたと思う)。その後、つまり世紀が変わった頃から、関心が文学・批評から劇場芸術にシフトし、読むのはアラカルト的になった。今回、ユーモアをまじえた話しぶりに、変わっていないなと安堵した。例の交換様式「D(Aの高次元での回復)」について語るのを聞きながら、なぜかシモーヌ・ヴェイユの〝神秘主義神学〟を想起。秋に新著『力と交換様式』が岩波から出るという。ぜひ読みたい。

岸田國士戦争劇集」と題する公演で『かへらじと』(1943)が上演される。知ったときは驚いた。上演の珍しさ(戦後初めてか)もあるが、なにより、以前に「岸田國士の戦争劇」と題する『かへらじと』論を書いていたから。構成・演出の谷賢一氏は論文を読んでくれたらしい。同時上演の『動員挿話』論も書いたことがある。この演出家と響き合う部分があるのかもしれない。ちょっと怖い気もするが楽しみ。【1943年に上演された『かへらじと』は、実は岸田が「中央公論」に掲載したそのままではなく、軍部の意向を受けて改訂(改竄)されたと思われる「認可脚本」だった(先に言及の論文は両者の違いに焦点を当てたもの)。その意味で、今回の上演は事実上の本邦初演と言えるかもしれない。】【と思ったら、文学座研修科 発表会(2020年/鵜山仁 演出/文学座アトリエ)でやったようだと谷賢一氏。本公演としては初めてかもしれない、と言い直そう。】

1日(金)18:00 生誕90年/画業60年ゲルハルト・リヒター展」@国立近代美術館

2日(土)14:00 新国立劇場オペラ《ペレアスとメリザンド》全5幕〈フランス語上演/日本語及び英語字幕付〉/作曲:クロード・アシル・ドビュッシー/原作:モリス・メーテルランク/指揮:大野和士/演出:ケイティ・ミッチェル/美術:リジークラッチャン/衣裳:クロエ・ランフォード/照明:ジェイムズ・ファーンコム/振付:ジョセフ・アルフォード/演出補:ジル・リコ/舞台監督:髙橋尚史/ペレアス:ベルナール・リヒター/メリザンド:カレン・ヴルシュ/ゴロー:ロラン・ナウリ/アルケル:妻屋秀和/ジュヌヴィエーヴ:浜田理恵/イニョルド:九嶋香奈枝/医師:河野鉄平/合唱指揮:冨平恭平/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団 @新国立劇場オペラハウス

3日(日)14:00 柄谷行人さんに聞く〜疫病、戦争、世界共和国〜」聞き手:國分功一郎/コメンテーター:斉藤幸平/主催:東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属共生のための国際哲学研究センター(UTCP)@東京大学駒場キャンパス(Zoom ウェビナーで視聴)

6日(水)小菅優佐藤俊介 デュオ・リサイタル 第一次世界大戦クラシック音楽~作曲家に想いを馳せて~」P. ヒンデミット:ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 Op.11-1/E. イザイ:子供の夢 Op.14/M. ラヴェルクープランの墓 より 第2曲 フーガ、第3曲 フォルラーヌ ※ピアノ・ソロ/C. ドビュッシー:ヴァイオリンとピアノのソナタ/E. W. コルンゴルト:空騒ぎ Op.11 より “Dogberry and Verges”/E. グラナドス(F.クライスラー編):スペイン舞曲集 Op.37 より 第5番 アンダルーサ(祈り)/E. エルガー:ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 Op.82/小菅 優(ピアノ)佐藤俊介(ヴァイオリン)@ヤマハホール

8日(金)19:00 DULL-COLORED POP 第25回本公演「岸田國士戦争劇集」『動員挿話』『かへらじと』作:岸田國士/構成・演出:谷 賢一(DULL-COLORED POP)/関連上演(または配信):『戦争指導者』『空の悪魔(ラジオ・ドラマ)』/演出助手:刈屋佑梨、石井泉/美術:濱崎賢二/映像:松澤延拓(株式会社カタリズム)/映像助手:イノウエタケル/照明:緒方稔記(黒猿)/音響:佐藤こうじ( Sugar Sound)/衣裳:友好まり子/所作指導:石原舞子/制作:DULL-COLORED POP/協力:アゴラ企画、アトリエ春風舎/助成:公益財団法人セゾン文化財団、文化庁「ARTS for the future! 2」補助対象事業/[出演](『動員挿話』『かへらじと』)白組:倉橋愛実(DULL-COLORED POP)、荒川大三朗、石川湖太朗(サルメカンパニー)、石田迪子、伊藤麗、函波窓(ヒノカサの虜)、國崎史人、古河耕史/[声の出演](『かへらじと』『空の悪魔』):石井泉、小野耀大、小幡貴史、勝沼優、椎名一浩、田中リュウ、服部大成、間瀬英正、溝渕俊介、宮部大駿 @アトリエ春風舎

13日(水)19:00 岸田國士戦争劇集」[出演](『動員挿話』『かへらじと』)赤組:阿久津京介、東谷英人(以上DULL-COLORED POP)、越前屋由隆、齊藤由佳、原田理央(柿喰う客)、ふじおあつや、松戸デイモン、渡辺菜花 @アトリエ春風舎

16日(土)15:00 BCJ #150 定演 F. J. ハイドン:オラトリオ《天地創造》Hob.XXI-2/指揮:鈴木優人/ソプラノ:ジョアン・ラン/テノール:櫻田 亮/バス:クリスティアン・イムラー/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン @オペラシティコンサート ホール タケミツメロリアル

31日(日)12:30 新国立劇場バレエ団 こどものためのバレエ劇場2022『ペンギンカフェ』振付:デヴィッド・ビントリー/音楽:サイモン・ジェフス/美術・衣裳:ヘイデン・グリフィン/照明:ジョン・B・リード/[第1部]トークショー「いっしょに考えよう!消えゆく生き物たちを救うには?」(20分)ゲスト解説者:成島悦雄/司会:⽯⼭智恵(フリーキャスター)[第2部]『ペンギン・カフェペンギン:池田理沙子/ユタのオオツノヒツジ:木村優里+中家正博/テキサスのカンガルーネズミ:髙橋一輝/豚鼻スカンクにつくノミ:奥田花純/ケープヤマシマウマ:木下嘉人/熱帯雨林の家族:柴山紗帆+趙 載範/ブラジルのウーリーモンキー:渡邊峻郁 @新国立劇場オペラハウス

31日(日)16:00  新国立劇場バレエ団『ペンギンカフェ』ペンギン:赤井綾乃/ユタのオオツノヒツジ:米沢 唯+井澤 駿/テキサスのカンガルーネズミ:福田圭吾/豚鼻スカンクにつくノミ:五月女 遥/ケープヤマシマウマ:奥村康祐/熱帯雨林の家族:柴山紗帆+趙 載範/ブラジルのウーリーモンキー:速水渉悟 @新国立劇場オペラハウス

新国立劇場 演劇『貴婦人の来訪』2022

新国立劇場 演劇『貴婦人の来訪』4日目を観た(6月4日 土曜 13:00/新国立小劇場)。ごく簡単にメモする。

初演:1956年(スイス)/作:フリードリヒ・デュレンマット(1921-1990)/翻訳:小山ゆうな/演出:五戸真理枝/美術:池田ともゆき/照明:阪口美和/音楽:国広和毅/音響:黒野尚/衣裳:加納豊美/ヘアメイク:鎌田直樹/演出助手:橋本佳奈/舞台監督:澁谷壽久

クレール・ツァハナシアン:秋山菜津子/イル:相島一之/執事:山野史人/町長:加藤佳男/牧師&ロビー:外山誠二/駅長&医者&トビー:福本伸一/教師:津田真澄/イルの妻:山本郁子/女&町長夫人:斉藤範子/警官&トビー:高田賢一/夫VII&1番目の盲目(コビー)&夫VIII&記者1&夫IX&ラジオレポーター:清田智彦/画家:谷山知宏/差し押さえ役人&車掌&男2&体操選手&2番目の盲目(ゴビー)&記者2&カメラマン:髙倉直人/息子:田中穂先/男1:福本鴻介/娘:田村真央

この劇場で久々にまともな芝居に出会った。これが正直な気持ち。演劇ならでは(演劇性)の妙味や喜びが、シリーズ「声」の3作では秀でている。見ていて〝異和感〟がない。というか、ブレヒト的な〝異化効果〟はたっぷりある。歌あり、ギター演奏あり、ボードの提示あり、タバコ=シャボン玉あり…。コロスの使い方がとても巧み。こうした趣向は原作通りか、それとも五戸真理枝のアイディアなのか。コロスは原作にあるらしい。この演出家が3月に『コーヒーと恋愛』(文学座アトリエ)で多用したギター&歌がここでも生かされた。イル(相島一之)が町民らに殺される場面では、首を絞められ始めるや、すっとそこから離れ、寄ってたかってとどめを刺す仲間たちを客観的に眺めてる。殺される側への感情移入を殺す側へ巧みに逸らし、後者に、ある種の滑稽さや哀れみすら感じさせる。そういえば『どん底』(2019)でも似たようなシーンがあった。

一見楽しげな舞台だが、芝居の中身はかなり苦い。ある意味アレゴリカルで思考実験的な作品。財政破綻した町に帰郷した富豪の〝貴婦人〟ツァハナシアン(秋山菜津子)が巨額の寄付を申し出る。ただし、かつて自分を裏切った元恋人イルの命と引き換えの条件で。町民は初めこそ拒否するが、次第に「正義」の名の下、人心はヒューマニズム(人間の生命)から金(安逸な生活)に傾斜し、いつの間にか処刑に反対しなくなるのだ(牧師を含むから恐ろしい)。神を信じたくとも信じえない、作者の徹底したスケプティシズムが読み取れる。人間は結局リベラルな理想主義より「金目でしょ」というわけだ(どっかで聞いた台詞)。ツァハナシアンは売春婦まで身を落としながら大富豪にのし上がった経験から、町民のそんな心情を見透かしていたらしい。「しょせん人間なんて」…。つい、ここ十年続いたどこかの政権を想起してしまう。

秋山菜津子は歌も演技もうまい。他の役者も同様だが、牧師役の外山誠二はギターがプロ級で声の張りは尋常ではない。久々に気持ちよく小劇場を後にした。

 

6月のフィールドワーク予定 2022

今月のフィールドワークは少なめ。コロナ下で再演が延びていたバレエ『不思議の国のアリス』は3キャストを一回ずつ。秘密戦の兵器を開発していた戦時の研究所にまつわる詩森ろばの新作に、あのドライバー役を演じた三浦透子が出演。他には藤倉大フォルテピアノのための新作(世界初演)など。新国立の演劇は面白くないと言いながら、今月も見る。なぜ? 三作セットで購入したから。ではあるが、小劇場(ピット)の空間がとても好きだし、なにより新国立劇場(ナショナルシアター)はその名の通り〝われらの劇場〟だと思っているから。だから懲りもせず…

3日(金)19:00 新国立劇場バレエ団『不思議の国のアリス』振付:クリストファー・ウィールドン/音楽:ジョビー・タルボット/美術・衣裳:ボブ・クロウリー/台本:ニコラス・ライト/照明:ナターシャ・カッツ/映像:ジョン・ドリスコル/ジュンマ・キャリントン/パペット:トビー・オリー/マジック:ポール・キエーヴ/指揮:ネイサン・ブロック/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団/共同制作:オーストラリア・バレエ/[キャスト]アリス:米沢 唯庭師ジャック&ハートのジャック:渡邊峻郁ルイス・キャロル&白ウサギ:木下嘉人アリスの母&ハートの女王:益田裕子手品師&マッドハッター:ジャレッド・マドゥン(オーストラリア・バレエ)@新国立劇場オペラハウス

4日(土)13:00 新国立劇場 演劇『貴婦人の来訪』作:フリードリヒ・デュレンマット/翻訳:小山ゆうな/演出:五戸真理枝/美術:池田ともゆき/照明:阪口美和/音楽:国広和毅/音響:黒野 尚/衣裳:加納豊美/ヘアメイク:鎌田直樹/演出助手:橋本佳奈/舞台監督:澁谷壽久/[出演]秋山菜津子 相島一之 山野史人 加藤佳男 外山誠二 福本伸一 津田真澄 山本郁子 斉藤範子 高田賢一 清田智彦 谷山知宏 髙倉直人 田中穂先 福本鴻介 田村真央 @新国立小劇場

11日(土)13:00 新国立劇場バレエ団『不思議の国のアリス』アリス:池田理沙子庭師ジャック&ハートのジャック:井澤 駿ルイス・キャロル&白ウサギ:速水渉悟アリスの母&ハートの女王:本島美和手品師&マッドハッター:福田圭吾 /指揮:冨田実里/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団 @新国立劇場オペラハウス

11日(土)18:30 新国立劇場バレエ団『不思議の国のアリス』アリス:小野絢子庭師ジャック&ハートのジャック:福岡雄大ルイス・キャロル&白ウサギ:中島瑞生アリスの母&ハートの女王:木村優手品師&マッドハッター:スティーヴン・マックレー(英国ロイヤルバレエ)/指揮:冨田実里/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

12日(日)18:00 サントリーホール・チェンバーミュージック・ガーデン2022「フォルテピアノカレイドスコープⅠ」デュセック:ピアノ五重奏曲短調 作品41 より 第1楽章/アンリ゠ジャン・リジェル:『華麗なる大五重奏曲』 ニ長調 作品43 より 第2楽章[日本初演]/フンメル:ピアノ五重奏曲 変ホ短調 作品87 より 第3・4楽章/藤倉 大:『Past Beginnings』ソロ・フォルテピアノのための(2022)[世界初演ベートーヴェン(ラハナー 編曲):ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品37/[出演]デンハーグピアノ五重奏団フォルテピアノ*:小川加恵/ヴァイオリン:池田梨枝子/ヴァイオリン&ヴィオラ:秋葉美佳/ヴィオラ:中田美穂/チェロ:山本 徹/コントラバス:角谷朋紀[*使用楽器:A. シュヴァルトリンク(1835年製)]@サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

15日(水)18:30 serial number07『Secret War-ひみつせん-』作・演出:詩森ろば/出演:三浦透子 坂本慶介 宮崎秋人 松村 武(カムカムミニキーナ)  北浦愛 森下 亮(クロムモリブデン) 佐 野功 ししどともこ(カムヰヤッセン) 大谷亮介 @東京芸術劇場 シアターウェスト

17日(金)19:30 N響 #1960 定演〈池袋C1〉プーランク《バレエ組曲「牝鹿」》/プーランク《オルガン協奏曲 ト短調》*/ガーシュウィン《パリのアメリカ人》/指揮:ステファヌ・ドゥネーヴ/*オルガン:オリヴィエ・ラトリー東京芸術劇場 コンサートホール

 

5月のフィールドワーク予定 2022

新国立劇場のバレエ『シンデレラ』の初日(4/30)、2日目(5/1)、千穐楽(5/5)を見て、自分がバレエに何を求めているのか再確認した。バレエ(ダンス)はいわゆる身体芸術だが、ミスをせず、ただうまく踊るだけでは芸術とはいえない。そこに身体を超える〝なにか〟が現出しなければならない。この10年間、米沢唯を見続けてきたのは、この奇跡的な時空間を共有したかったから。今回そのことに改めて気づかされた*1。「ダンスは、身体への注目と精神への注目が一つとなる、より高次の注目を命じている」(スーザン・ソンタグ「ダンサーとダンス」)。ソンタグに言われるまでもなく、ずっとそうしてきた。この「高次の注目」を米沢唯のダンスが命じていたからだ。

このところ同劇場の上演する演劇があまり面白くない(俳優を見る喜びはむろんあるが、満足できるのはごく僅か)。気になるのは、舞台(作品)と観客との間に文化的な地続き感が弱いこと。これは米英作品への偏りと無関係ではない。決定的なのは〝演劇的快楽〟の乏しさだと思う。これは選ばれた作品のテーマや物語というより演劇性の問題だ。そもそもテーマや物語(内容)は作品のかたち(形式)と不可分だが、前者が後者の革新を促したと思わせる斬新な作品があまりに少ない…等々。あれこれ考えているうちに、ついアップが遅くなった。

1日(日)14:00 新国立劇場バレエ団『シンデレラ』振付:フレデリック・アシュトン/監修・演出:ウェンディ・エリス・サムス/マリン・ソワーズ/音楽:セルゲイ・プロコフィエフ/美術・衣裳:デヴィッド・ウォーカー/照明:沢田祐二/[主要キャスト]シンデレラ:米沢 唯/王子:井澤 駿/指揮:マーティン・イェーツ/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団 新国立劇場オペラハウス

5日(木祝)14:00 新国立劇場バレエ団『シンデレラ』/シンデレラ:池田理紗子/王子:奥田康祐新国立劇場オペラハウス

6日(金)19:00 新国立劇場 演劇『ロビー・ヒーロー』作:ケネス・ロナーガン翻訳:浦辺千鶴/演出:桑原裕子/美術:田中敏恵/照明:宮野和夫/音響:島貫 聡/衣裳:半田悦子/ヘアメイク:林みゆき/演出助手:和田沙緒理/舞台監督:野口 毅/出演:中村 蒼 岡本 玲 板橋駿谷 瑞木健太郎 @新国立小劇場

19日(木)19:00 新国立劇場オペラ《オルフェオとエウリディーチェ》〔新制作〕全3幕〈イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉作曲:クリストフ・ヴィリバルト・グルック/指揮:鈴木優人/演出・振付・美術・衣裳・照明:勅使川原三郎/アーティスティックコラボレーター:佐東利穂子/[キャスト]エウリディーチェ:ヴァルダ・ウィルソン/オルフェオ:ローレンス・ザッゾ/アモーレ:三宅理恵/ダンス:佐東利穂子、アレクサンドル・リアブコ、高橋慈生、佐藤静佳/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

20日(金)N響 #1957 定演〈池袋C1〉モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲/モーツァルト:ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K. 466/ベートーヴェン交響曲 第8番 ヘ長調 作品93/指揮:ファビオ・ルイージ/ピアノ:アレクサンドル・メルニコフ @芸劇コンサートホール

22日(日)BCJ #149 定演 教会カンタータ・シリーズ vol. 80〈昇天祭オラトリオ〉S. バッハ:プレリュードとフーガ イ短調 BWV 543*/カンタータ第37番《信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者》BWV 37/カンタータ第87番《今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった》BWV 87/昇天祭オラトリオ《神を讃えよ、その諸々の国において》BWV 11/指揮:鈴木雅明/ソプラノ:松井亜希/アルト:久保法之/テノール:櫻田 亮/バス:加耒 徹/オルガン:鈴木雅明*/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

24日(火)19:00〈コンポージアム2022〉ブライアン・ファーニホウの音楽/指揮:ブラッド・ラブマン/クラリネット:ヤーン・ボシエール*/アンサンブル・モデルン/ファーニホウ:想像の牢獄Ⅰ(1982)/イカロスの墜落(1987〜88)*/コントラコールピ(2014〜15)[日本初演]/クロノス・アイオン(2008)[日本初演]@東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル→膝痛のため断念

29日(日)15:00 〈コンポージアム2022〉2022年度 武満徹作曲賞本選演奏会/審査員:ブライアン・ファーニホウ/指揮:篠﨑靖男/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団/[ファイナリスト](演奏順)室元拓人(日本):ケベス ─ 火群の環/アンドレア・マッテヴィ(イタリア):円の始まりと終わりの共通性/オマール・エルナンデス・ラソ(メキシコ):彼方からの冷たい痛み/メフメット・オズカン(トルコ/ブルガリア):管弦楽のための間奏曲《無秩序な哀歌》@東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

*1:この再認識は、濵口竜介の映画体験と無関係ではない。昨年の8月以来、濵口映画を14作ほど見た後『カメラの前で演じること』を読み、彼が言及するロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書——映画監督のノート』(20代に S.ソンタグの影響で見た『抵抗』『白夜』等の瑞々しさはいまでも覚えている)を紐解いた。濵口の方法には、自分が親しんできた竹内敏晴の著作群(特に「話しかけのレッスン」)や鷲田清一の『「聴く」ことの力——臨床哲学試論』等と共振する思想が随所に読み取れた。これには驚くと同時に、やっぱりかと納得もした。濵口やブレッソンの言葉では、先の〝なにか〟は〝真実〟ということになる。濵口は、カメラの前で俳優の〝真実〟が現出するよう、徹底的に環境を調え準備する。感情を抜いたセリフの本読みを繰り返すのもその一つ。