12月のフィールドワーク予定 2021

すでに三作は見終えたが、いずれも充実した舞台。特に文学座アトリエの『ピンター作品6選』は演劇的な刺激や発見が随所にあった(感想メモ)。風姿花伝の『ダウト』も役者の質が高く面白いが、どこまでも娯楽の域を出ない印象。7回目の再演オペラ《蝶々夫人》は主要キャストの変更もあり、さほど期待せずに見た。が、代役村上公太の、世界とひとりで対峙するような歌いっぷりと、中村恵理の、武士の娘として誇り高い自死へと向かう熱量の高い歌唱に、グッときた。演出・美術の素晴らしさは見る度に再確認(美術の島次郎は二年前に死去)。

中旬から大晦日まで新国立劇場バレエ団の『くるみ割り人形』が続く。この版は好みでないが、音楽とダンサー目当てで今年は三回足を運ぶ。横山拓也の『エダニク』(2009)を劇団銅鑼が新人公演で取りあげる。韓国語版リーディング公演の無料ネット配信を昨年見たが、字幕でも十分楽しめた。日本語版の生舞台を見るのは今度が初めて。

さいたまゴールドシアターがいよいよ最終公演をおこなう。立ち上げた蜷川幸雄の死から五年か。高齢者集団のコロナ禍での活動継続はやはり難しかったのだろう。伝説の舞姫・崔承喜(1911-??)をモティーフにした鄭義信の書き下ろしをみょんふぁがひとり芝居する。どんな舞台になるのだろう。

3日(金)18:30 文学座アトリエの会『Hello〜ハロルド・ピンター作品6選〜』「家族の家」「ヴィクトリア駅」「丁度それだけ」「景気づけに一杯」「山の言葉」「灰から灰へ」翻訳:喜志哲雄/演出:的早孝起/美術:石井強司/照明:金 英秀/音響:藤田赤目/衣裳:宮本宣子/舞台監督:岡野浩之/制作:前田麻登、梶原 優/宣伝美術:藤尾勘太郎/出演:中村彰男 藤川三郎 石橋徹郎 上川路啓 萩原亮介 寺田路恵 山本郁子 小石川桃子文学座アトリエ

5日(日)14:00 新国立劇場オペラ《蝶々夫人》指揮:下野竜也/演出:栗山民也/美術:島 次郎/衣裳:前田文子/照明:勝柴次朗/再演演出:澤田康子/舞台監督:斉藤美穂[キャスト]蝶々夫人:中村恵理/ピンカートン:ルチアーノ・ガンチ(入国制限のためスケジュールが合わず来日が不可能となり)→村上公太/シャープレス:アンドレア・ボルギーニ/スズキ:但馬由香/ゴロー:糸賀修平/ボンゾ:島村武男/神官:上野裕之/ヤマドリ:吉川健一/ケート:佐藤路子/合唱指揮:冨平恭平/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

6日(月)14:00 風姿花伝プロデュース vol.8『ダウト 〜疑いについての寓話』作:ジョン・パトリック・シャンリィ/翻訳&演出:小川絵梨子/[キャスト]フリン神父:亀田佳明/シスター・ジェイムズ:伊勢佳世/ミラー夫人:津田真澄/シスター・アロイシス:那須佐代子/美術:小倉奈穂/照明:松本大介/音響:加藤 温/衣裳:原 まさみ/ヘアメイク:鎌田直樹/演出助手:稲葉賀恵/演出部:黒崎花梨/舞台監督:梅畑千春 @シアター風姿花伝

10日(金)19:30 N響 #1946 定演〈池袋Cプロ〉チャイコフスキーロココ風の主題による変奏曲 作品33*/ムソルグスキーラヴェル編):組曲展覧会の絵指揮:ワシーリ・ペトレンコ(「オミクロン株に対する水際措置の強化」により外国人の新規入国が停止されたため)→ガエタノ・デスピノーサ/チェロ:ダニエル・ミュラー・ショット(同上)→佐藤晴真* @東京芸術劇場コンサートホール

11日(土)17:00 新国立劇場演劇『あーぶくたった、にいたった』作:別役 実/演出:西沢栄治/美術:長田佳代子/照明:鈴木武人/音響:信澤祐介/衣裳:中村洋一/ヘアメイク:高村マドカ/演出助手:杉浦一輝/舞台監督:川除 学/出演:山森大輔 浅野令子 木下藤次郎 稲川実代子 龍 昇 @新国立小劇場

12日(日)14:00 北とぴあ国際音楽祭2021 リュリ作曲 オペラ《アルミード》(世界的な新型コロナウイルス感染拡大に伴い一部の出演者の招聘が困難となったため)→アクト・ド・バレ《アナクレオン》(1757)[演奏会形式/フランス語上演・日本語字幕付]作曲:ジャン=フィリップ・ラモー/台本:ピエール・ジョゼフ・ベルナール/[その他の曲目]ルベル《様々な舞曲》、コレッリ:フォーリア、リュリ:コメディ・バレ《町人貴族》〈諸国民のバレ〉より、リュリ:オペラ《アルミード》より〈パッサカイユ〉ほか/指揮・ヴァイオリン:寺神戸 亮/合唱・管弦楽:レ・ボレアードバロックダンス:ピエール=フランソワ・ドレ、松本更紗/アナクレオン:与那城 敬/愛の神:湯川亜也子/バッカスの巫女:佐藤裕希恵/歌:波多野睦美 @北とぴあ さくらホール

18日(土)13:00 新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』クララ&こんぺい糖の精:米沢 唯/ドロッセルマイヤーの甥&くるみ割り人形&王子:井澤 駿ドロッセルマイヤー:貝川鐵夫/ねずみの王様:木下嘉人/ルイーズ:池田理沙子/雪の結晶:飯野萌子、広瀬 碧/花のワルツ:寺田亜沙子、中島春菜、浜崎恵二朗、渡邊拓朗/指揮:アレクセイ・バクラン 新国立劇場オペラハウス

18日(土)17:00 劇団銅鑼 新人公演『エダニク』作:横山拓也(iaku)/監修:山田昭一/演出:館野元彦/出演:鈴木裕大(劇団員補) 多賀名啓太(劇団員補) 山形敏之/美術:髙辻知枝/照明:館野元彦/音響:真原孝幸/方言指導:清原達之(青年劇場)/舞台監督:池上礼朗/演出助手:永井沙織/宣伝美術:早坂聡美/制作:齋藤裕樹 @劇団銅鑼アトリエ

19日(日)17:00 さいたまゴールド・シアター最終公演『水の駅』作:太田省吾/構成・演出・美術:杉原邦生/出演:石井菖子 石川佳代 大串三和子 小渕光世 葛西 弘 上村正子 北澤雅章 佐藤禮子 田内一子 髙橋 清 滝澤多江 竹居正武 谷川美枝 田村律子 都村敏子 遠山陽一 林田惠子 百元夏繪 渡邉杏奴/井上向日葵/小田豊/主催・企画・制作:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団/助成:一般財団法人地域創造 文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業) 独立行政法人日本芸術文化振興会彩の国さいたま芸術劇場 大ホール

21日(火)13:00 新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』クララ&こんぺい糖の精:柴山紗帆/ドロッセルマイヤーの甥&くるみ割り人形&王子:速水渉悟(怪我のため降板)→渡邊峻郁ドロッセルマイヤー:中島駿野/ねずみの王様:木下嘉人/ルイーズ:飯野萌子/雪の結晶:渡辺与布、広瀬 碧/花のワルツ:寺田亜沙子、中島春菜、浜崎恵二朗、渡邊拓朗/指揮:アレクセイ・バクラン @新国立劇場オペラハウス

23日(木)19:00 みょんふぁ一人芝居『母 My Mother』作・演出:鄭 義信/出演:みょんふぁ/チャング演奏:李 昌燮 @下北沢シアター711

31日(金)16:00 新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』クララ&こんぺい糖の精:小野絢子/ドロッセルマイヤーの甥&くるみ割り人形&王子:福岡雄大ドロッセルマイヤー:中家正博/ねずみの王様:小柴富久修/ルイーズ:奥田花純/雪の結晶:柴山紗帆、渡辺与布/花のワルツ:飯野萌子、廣川みくり、井澤 諒、原 健太/指揮:アレクセイ・バクラン @新国立劇場オペラハウス

 

文学座アトリエの会『Hello〜ハロルド・ピンター作品6選』2021【追記】

文学座アトリエの会『Hello〜ハロルド・ピンター作品6選』の初日を観た(12月3日 金曜 18:30/文学座アトリエ)。

翻訳:喜志哲雄/演出:的早孝起/美術:石井強司/照明:金 英秀/音響:藤田赤目/衣裳:宮本宣子/舞台監督:岡野浩之/制作:前田麻登、梶原 優/宣伝美術:藤尾勘太郎

久し振りのピンター作品。刺激的で見応えがあった。というか、発語されるセリフの官能性が圧倒的だ。舞台は何もない空間で、小道具は8人が座る8脚の椅子のみ。6つの小篇を年代順に並べ、第1幕「家族の声」(1981)「ヴィクトリア駅」(1982)、第2幕「丁度それだけ」(1983)「景気づけに一杯」(1984)「山の言葉」(1988)、第3幕「灰から灰へ」(1996)と区分けしている。幕を、すなわち発表年を追うごとに政治的な色合いが増していく様を実感できた。よい選択・構成だと思う。80年代によく見たピンターの舞台は『部屋』(1957)から『背信』(1978)あたりまで。独特なコトバ感覚と残忍かつ暴力的な感触は変わらないが、これほど全体主義国家の非人間的行為を鮮明にイメージすることはたぶんなかった。見る側の認識が変わったこともあるが、文学座俳優のきわめて高度な発語能力が、ピンターの言語的エロティシズムを際立たせたのだろう。

『家族の声』中村彰男 藤川三郎 石橋徹郎 上川路啓志 萩原亮介 寺田路恵 山本郁子 小石川桃子

本来は「若い男」(息子)と「女」(母)そして「男」(父)の手紙文による朗読劇だが、ここでは、3人の役を発話者(特に若い男)の話に合わせて8人(男5・女3)全員にうまく振り分けていた。

手紙に〝宛先〟はあるが、対話はない。返信はないし、そもそも投函したのかも不明。とはいえ、ひとりが喋ると、てんでんばらばら(もちろん意図的)に置かれた椅子に座る他の7人は話者を見るわけではないが聴いてはいる。初めは表情が微かに変化する程度だが、やがて動きが伴う。最初に川上が語り始める(若い男)。聴いている表情から寺田がその母役かと思いきや、山本がそのセリフを喋り始める(後に寺田も母役で語るが)。不意を突かれた新鮮さ。幕切れで死んだはずの父(中村)が発語し、それに反応して少しずつ役者がハケていく。後半のセリフにホモセクシュアルコノテーションが顕著。鮮やかに喚起させるリアルさ。みな声が好いし発語がうまい。上川の科白回しには色気があった。

『ヴィクトリア駅』指令係:上川路啓志/運転手:藤川三郎

タクシーの指令係が無線で運転手に指示する。2人の対話。可笑しさ(上川)と不気味さ(藤川)。二人とも『家族の声』とは別人のよう。

ここで10分休憩

『丁度それだけ』ティーヴン:石橋徹郎/ロジャー:藤川三郎

二人の男が酒を飲みながら核戦争による死者の数について対話していたらしいが、よく分からなかった。あれは高級官吏だったのか。

『景気づけに一杯』ニコラス:石橋徹郎/ヴィクター:萩原亮介/ジーラ:小石川桃子/ニッキー:寺田路恵

ナチスゲシュタポを思わせるニコラス(石橋)はウィスキーを〝景気づけに一杯〟やりながら強圧的かつ狂信的に反体制知識人と覚しきヴィクター(萩原)を攻め立て追い込んでいく。いわゆるフィジカルな拷問のシーンはない。が、おそらく男の妻(小石川)は犯され、息子は殺されたのだろう。〝愛国心〟の怖さ。震え慄く萩原もリアルだった。

『山の言葉』若い女:小石川桃子/初老の女:寺田路恵/軍曹:中村彰男/士官:山本郁子/看守:上川路啓志/囚人:萩原亮介/頭巾の男:藤川三郎/第二の看守:石橋徹

前作から地続きのような舞台。自民族の言語(山の言葉)の使用を禁じられた初老の女。だが、老女はそれしか話せない。士官や軍曹らに迫害されるマイノリティたち。三角頭巾を被せられた男の姿から、「イスラム国」の人質の姿が浮かんだ(思い出したくないけど)。その妻が会いに来るが、男は銃殺される。少数民族の迫害といえば、新疆ウイグル族の問題を想起させる。30数年前の作品だが、今なおアクチュアリティを失っていない。

ここで10分休憩

『灰から灰へ』デヴリン:中村彰男/リベッカ:山本郁

夫婦らしき男女の対話。女リベッカが男デヴリンに自分の過去の話をする。あるいは、男がそれを女から聴き出そうとする。嫉妬。そこにはエロティックなコノテーションがしばしば付き纏う。女が語る過去の恋人らしき男は、旅行代理店のガイドだと。が、断片的な語りの中に、ガイドの男が駅のプラットフォームで泣き叫ぶ母親から赤ちゃんを奪い取る話が出てくる。【それから、女は言い忘れていたと前置きし、大勢の人たちが鞄を持って、ガイドらに誘導されて森を抜け、海岸の波打ち際から海の中に入っていったと。それを庭の窓から見たという。まるで「ハーメルンの笛吹き男」みたいな話だ。】終わり近くでもう一度。老人と少年が大きなスーツケースを引きずって行く姿を、語る女は建物の窓から眺めていたと。赤ちゃんを抱いた女が二人のあとを歩いていた。…おくるみにくるんだ赤ちゃんはやがて男に奪われる。そして汽車に乗った。私たちは。そしてここに着いたと。ここに? やがて女の言葉の一部が他の役者の反復により、エコーのように反響する(8人全員が冒頭同様はじめから椅子に座っていた)。語っている女は建物の窓から眺めていたはずだが、いつの間にか、赤ちゃんを奪われた女と一体化している。

これは明らかにナチスドイツによるユダヤ人迫害もしくはホロコーストショアー)のイメージだ。ユダヤ人らは鉄道で収容所へ移送され、女たちは赤ちゃんを奪われて、ガス室で殺される。あるいは子供も一緒にガス殺される。運がよければ追っ手を逃れ、赤ちゃんを奪われながらも自らは逃亡する。旅行ガイドはSS隊員かもしれない。ただし、女が語っているのは、自分の体験というより、すり込まれた民族の〝集団的記憶〟ではないか。

それにしてもリベッカ役の山本が語るセリフの生々しさ、音の美しさには圧倒された。その美しさと、喚起される怖ろしいイメージとのギャップの妙。加虐と被虐にエロスが重なるが、そんななか、デヴリン役の中村が時おり生み出す可笑しさが効いていた。

役者はみな巧い。発語がクリアで、セリフを聴くとイメージがまざまざと浮かんでくる。ある意味、なんの説明もない抽象的な設定下で、セリフが艶やかに感取されイメージが鮮やかに喚起されたのは、俳優たちの質の高さゆえだと思う。もちろん喜志哲雄の優れた翻訳あっての話だが。演出の的早考起の名前は覚えておきたい。

新国立劇場演劇『イロアセル』[フルオーディション4]2021

新国立劇場演劇『イロアセル』を観た(11月12日 金曜 19:00/新国立小劇場)。

作・演出:倉持 裕/美術:中根聡子/照明:杉本公亮/映像:横山 翼/音響:高塩 顕/音楽:田中 馨/衣裳:太田雅公/ヘアメイク:川端富生/振付:小野寺修二/演出助手:川名幸宏/舞台監督:橋本加奈子/出演:伊藤正之 東風万智子 高木 稟 永岡 佑 永田 凜 西ノ園達大 箱田暁史 福原稚菜 山崎清介 山下容莉枝

うーん。匿名の発言がはびこるネット社会をアレゴリカルに描いたようだが、ピンとこない。アクチュアリティが感じられない。俳優は総じて悪くないし(囚人の演技は少し疑問)、発話が色づく仕掛けや架空のスポーツ競技〝カンチェラ〟の動き(振付)など部分的には面白いが、如何せん、それらが作品として収斂してこない。

島の住人が発する言葉には色がつく。傍から見れば綺麗だが、共同体の内部では本音が言えず息苦しい。これは記名での発話を意味するのだろう。ところが、本土から来た囚人と看守のそれは無色。島民も囚人らの前だと言葉は色褪せ(つまり無記名=匿名となり)、話者は自由になる。

島民らは自由な発話を求め、次々に囚人と面会して本音を語る。それを囚人が紙に書き取り、島民がコピーして拡散する。RTのことか。これでカンチェラの競技審査員の買収がバレる。だが、買収で被害を受けたはずの選手がなぜか囚人の指を切り落とし、文字を書けなくする。…買収に関わった会社が崩壊。家々が〝炎上〟し、島民の言葉から色が消える(イロアセル)…。

記名での発話を象徴する島民の方が、色を集める携帯に似た機器を持つ。一方、匿名性の遣り取りを島にもたらした本土の囚人は紙に手書きのローテクさ。なんかちぐはぐだ。わざと? ならばその理由は? 考えさせるため? 何を? 対話やコミュニケーションについて? そんな問題提起や示唆があったか? まったくピンとこなかったし、いまも分からない。身体が演劇的快として反応したのは、看守 伊藤正之と競技審査員 高木稟の遣り取りや会社社長 山崎清介の演技。他にもカンチェラ選手の二人(永田凜・福原稚菜)をはじめ、いい俳優を見る喜びはあった。だからこそ、もったいないと思うのだ。

新国立劇場は、少なくとも国内では最高の舞台芸術が見られる場であってほしい。オペラやバレエはそれが実現できている。そう思う。だか演劇はどうか。フルオーディション企画の4回目に、なぜこの作品を選んだのか。当企画の演目は、これまでチェーホフ/ストッパード『かもめ』(1896/1997)、三好十郎『斬られの仙太』(1934)、宮本研『反応行程』(1958)、そして倉持裕『イロアセル』(1911)。『かもめ』はともかく、他の二作、特に『斬られの仙太』は斬新な演出で作品の面白さを際立たせる優れた舞台だった。今回は、プログラムによれば、本作を芸術監督と制作が倉持氏に提案したという。

じつは鵜山仁演出の本作初演を2011年10月に見ていた。が、正直、まったく覚えていなかったのだ。感想メモは書いていないがプログラムに「音楽のテイストよくない」とだけ走り書きしていた。

劇場側が本作を提案したのはどんな理由なのか。まさか斬新とか実験的などと見なしたわけではないだろう。それはありえない。とすれば、たんに劇場のオリジナル台本で安く上げたかったのか? コロナ禍での減収が遠因? 

演出家としての倉持氏は、シンメルプフェニヒ『昔の女』(新国立劇場/2009)、『現代能楽集Ⅶ 花子について』(世田谷パブリックシアター/2014)、江戸川乱歩原作/倉持氏再構成『お勢登場』(シアタートラム/2017)等を見たきりだが、いずれも今回より面白かったし見応えがあった。本人が自作に限定せず自由に選んでいれば、あるいは『花子について』や『お勢登場』のように自身で古典をアレンジし再構成すれば、まったく異なる公演になっただろう。フルオーディションまでしてこれでは、もったいないと言わざるをえない。

『十二人の怒れる男』@シアターコクーン 2020

レジナルド・ローズの演劇版『十二人の怒れる男』3日目を観た(9月12日 18:30/シアターコクーン)。

新型コロナの影響で、演劇を見るのは3月26日の文学座アトリエ公演以来だから、ほぼ半年ぶり。本作は最初のテレビ版(1954)で親しんできた。シドニー・ルメット監督の映画版(1957)はもとより、演劇版も俳優座劇場で数回見ている(2011,2015,20172018)。が、1977年にローズ自身が改訂した最終版(96年にはハロルド・ピンターが演出)の上演は今回初めて見た。今年はたまたまこの版をオンラインで学生と読んでいる。見ないわけにはいかない。チケットは何度目かのチャレンジでやっと取れた。以下、簡単にメモする。

翻訳:徐 賀世子/演出:リンゼイ・ポズナー/衣裳・美術:ピーター・マッキントッシュ/出演:ベンガル(1番) 堀 文明(2番) 山崎 一(3番) 石丸幹二(4番) 少路勇介(5番) 梶原 善(6番) 永山絢斗(7番) 堤 真一(8番) 青山達三(9番) 吉見一豊(10番) 三上市朗(11番) 溝端淳平(12番) 

 舞台を観客席が取り囲むかたち。セットは2時間ぶっ続けで陪審員室のまま変わらない。照明や雨音等の効果はあるが、下手をすると単調になる。前半は抑え気味で、後半からラストへ向けて山場が来るように計算された演出。セリフの強弱は、音楽のように調整され、無闇に怒鳴らせない。これはいいと思う。ただし、日本語のセリフ回しが、外から修正(ダメ出し)されていないのか、即座に意味を飲み込みにくい箇所がいくつかあった(特に前半)。日本語を解さない(たぶん)外国人演出家の弱点かもしれない。

演劇版を見ると8番ではなく、これは3番のドラマだと思わされる。山崎は息子との葛藤から被告の少年に個人的感情を投影してしまうこの役をよく生きていた。ただ、追いつめられたラスト近くの、8番が「あなたの息子じゃない。あれは別の子だ」のあと、4番が "Let him live." と3番に言う。これを「死なせてはいけない」と発話(訳)したのには違和感があった。ここは俳優座台本のように「生かしてやりなさい」の方がニュアンスを捉えているし、グッとくる。

役者はみな個性的でよく感じを出していたと思う。特に、9番の老人、声のデカい偏見に満ちた10番、移民の11番、7番も人命より自分の都合を優先するいいかげんな野球狂を好演した。6番の労働者はリアリティがあった。8番はいいと思うが、もっと〝正義の味方〟像からはみ出してもよかった。陪審員長のベンガルは大好きな役者だが、声があまり出ていないので少し心配(フットボールのコーチには見えないか)。

舞台の本作を囲み形で上演すると、陪審室の暑苦しい閉塞した感じが出ない。もっとキャパの小さい劇場の方がよさそう。全体的にセリフが聞き取りにくかった。そこは残念だが、回が進めば芝居は「育つ」かもしれない。後半も見たいところだが、簡単には取れないし、そもそも演劇としてチケット代(10800円)が高すぎる。

 

新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』新制作 全4キャスト 2021

新制作『白鳥の湖』の初日と2日目,5日目と6日目を観た(10月23日 土曜,24日 日曜,31日 日曜,11月2日 火曜 全て14:00/新国立劇場オペラハウス)。ごく簡単にメモする。

上田公演(11月7日 日曜 14:00/サントミューゼ 大ホール)についてはこちら

振付:マリウス・プティパ&レフ・イワーノフ+ピーター・ライト/演出:ピーター・ライト/共同演出:ガリーナ・サムソワ/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術・衣裳:フィリップ・プロウズ/照明:ピーター・タイガン/指揮:ポール・マーフィー(23日,24日,11月2日)&冨田実里(31日)/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

ピーター・ライト版は初めて見た。やっと新国立は〝虚構の文法〟に則った結末を得た。こうでなくてはいけない。序曲での王の葬列を始め、随所で理にかなったコンテクストが与えられ、ダンサーは各場面で何をするのか、どこに向かって行動するのか明確になっていた(スタニスラフスキー晩年の「身体的行動」理論と重なる)。もちろん観客にとっても。美術・衣裳は重厚で本格的。さすがに女王の国で創られたプロダクションだ。

第3幕のディヴェルティスマンも各民族踊舞の位置づけを再考し、チャルダッシュハンガリー)、マズルカポーランド)、ナポリ(イタリア)、スペインの順に変更。これに合わせて花嫁候補はハンガリー王女、ポーランド王女、イタリア王女の3人に絞り、各舞踊のあとに、王女がそれぞれソロを踊る。最後はロットバルト男爵らと闖入したオデットがジークフリードとパ・ド・ドゥを踊る。つまりスペインはロットバルト(悪魔)の眷属だ。ゆえに、オデットの到来を隠すのはスペインの舞踊手たち。なるほど。なお、王女のソロは1877年のオリジナル版にあったパ・ド・シス等の音楽が使われているらしい。

第4幕の冒頭、スモークのなかから白鳥たちの手が現れる。涙のオデット。いっそ人間の姿でいるうちに湖に身を投げようとするが、2羽の白鳥の娘たちに止められる。駆けつけたジークフリード。オデットとのパ・ド・ドゥ。だが、ジークフリードは誓いを破ったため、もう取り返しがつかない。人間の姿のまま湖に身を投げるオデット。ジークフリードもあとに続こうとするが、ロットバルトに阻まれる。ジークフリードにフクロウの頭をもぎ取られ、おたおたする隙に身を投げるジークフリード。駆けつけたベンノは王子の行方を白鳥の娘たちに尋ね…やがて王子の死体を抱いて現れる。後方には二人の佇む姿が中空に浮かび上がり幕。グッとくるラスト。

音楽は、この劇場が上演してきたセルゲイエフ版や牧版のようにリピートを省略しない。実に新鮮。クラシック音楽では長いあいだ反復記号を無視していたが、近年は忠実に履行する(作曲家の指示通り演奏するのは当たり前だが)。その影響かと思ったが、版の初演は1981年だから演奏慣習の流れとは無関係らしい。ただ、第1幕で王子がソロを踊るアンダンテ・ソステヌートの第二主題(初めはチェロ、続いて第1ヴァイオリンが奏する)の、半音でなく全音下がる箇所が気持ち悪い。ミのフラットからミのナチュラルに上昇し下降するところ(レ・ミ♭ーレ・ミ♭ミ♮ファーミ♮、のミ♮がミ♭に)。なぜ? 第3幕のヴァイオリンソロで同じフレーズの繰り返しをオクターブあげないのはオリジナル通りだと思う。

ポール・マーフィの指揮はチャイコフスキーの音楽性より踊りに合わせることを優先しているのか。音色がその場に応じてさほど変わらない。ゆえに物足りない。

初日 オデット&オディール:米沢 唯/ジークフリード王子:福岡雄大/王妃:本島美和/ロットバルト男爵:貝川鐵夫/ベンノ:速水渉悟(怪我のためキャンセル)→木下嘉人/クルティザンヌ(パ・ド・カトル):池田理沙子、柴山紗帆/ハンガリー王女:廣田奈々/ポーランド王女:飯野萌子/イタリア王女:奥田花純

印象的なのはダンサー(特に女性)の踊りが滑らかで継ぎ目がほぼ見えないこと。たとえばクルティザンヌの池田理紗子や飯野萌子。きっちりキメるより、表情豊かに踊る。継ぎ目の無さはクネクネ感と表裏だが、血の通った踊りは大変好ましい。吉田都監督の指導が効いてきたのか。

ベンノの木下嘉人は、長い手脚を溌剌と動かし踊る。とても華やか。友人(侍従)として憂鬱な王子を気遣う演技はとても自然。怪我で降板した速水渉悟のベンノも見たかった(上田公演に間に合えばよいが )。←上田はおろか『くるみ』「ニューイヤー・バレエ」も降板。少し心配だ。

第2幕のオデット米沢唯は、しなやかで勁い踊り。キレもある。腕などの動きが速く強い。福岡ジークフリードとさほど内的交流が感じられない分、踊りが身体的でプロっぽい印象。第3幕のオディールではぐっと若く見えた(吹田ではこんな凄い若手がいるのかと騙された! 席も遠かったんだけど)。ジークフリードに飛びつく動きは吃驚。悪魔なんだな。フェッテはいつもと少し違う感触。レヴェランスも妖しい。

ジークフリード福岡雄大は引き締まった踊り。ただし第2幕のオデットとのやりとりはもっと交流が欲しい。他方、第3幕のパ・ド・ドゥはある意味スポーティで面白かった(『ホフマン物語』第3幕のホフマン福岡とジュリエッタ米沢のバトルを想起)。福岡のヴァリエーションはただただ見事だった。

4羽の白鳥の娘たちは、内側に絞り込んだような強度の高い踊り。2羽の白鳥の娘たちは、誰が踊っているのは分からない。ああ、ひとりは寺田亜沙子か。

どのダンサーも動きの〝角〟が取れ、踊りの運動(流動)性が高まったように感じる。それがプロっぽく見えるゆえんなのか。これまで〝角〟が個性として記憶され、ダンサーたちを識別していたのかもしれない。

王妃の本島美和はカンパニーの宝。ツボを外さぬ素晴らしい王妃。第3幕のラストでくずおれる様はマクミラン版『ロミ&ジュリ』のキャピュレット夫人を想起。ロットバルト男爵の貝川鐵夫は大きな存在感。

2日目の小野絢子はオデットではきめ細かく洗練された踊り。自発性が高く動きがくっきり見える。ジークフリードへの想いがどんどん募り、最後は彼との離れがたさが強く伝わってきた。そう促したのは相手役の奥村康祐だろう。ヴァイオリンとチェロのソロはこの日の方がよかった。オディールでは次第に強度が弱まったのは残念だが、第4幕の脱力パ・ド・ドゥ、投身自殺、奥村ジークフリードの後追い…グッときた。中家正博のロットバルトは第4幕でフクロウの頭をもぎ取られた後オロオロのたうち回る演技が素晴らしい。

10月31日(日)木村優里はかたちはまあよい(フェッテはもっと綺麗に回って欲しい)が、内側からなにも感取できない。結果、1ミリもこころが動かない。残念。渡邊峻郁はノーブルな王子像を造形しようとしているのか、あり方がいかにも硬い。第3幕のヴァリエーションはきっちり綺麗に踊った。この日は木下ベンノがドラマを作った。指揮は冨田実里。オケはよく鳴っている。第2幕のアダージョ、ヴァイオリンとチェロは技術的にはともかく情感は出ていた。

11月2日(火)柴山沙帆は白鳥らしい白鳥。内なるターボエンジンが発動し、踊りの〝書き順〟に間違いがない。第3幕は引き締まった踊りだが、オディールとして目力がほしい。フェッテは綺麗な回転。井澤駿は王子としての演技がとてもよかった。トロワの終わりあたりで少しよろけたが(なぜあそこで?)。

上田公演(11月7日 日曜 14:00/サントミューゼ 大ホール)についてはこちら

新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』上田公演 2021【追記】

新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』の上田公演を観た(11月7日(日)14:00/サントミューゼ 大ホール)。簡単な感想メモを記す。この版については初台の本公演メモと共に、後ほどアップしたい(本公演 全4キャストの感想メモ)。

振付:マリウス・プティパ&レフ・イワーノフ+ピーター・ライト/演出:ピーター・ライト/共同演出:ガリーナ・サムソワ/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術・衣裳:フィリップ・プロウズ/照明:ピーター・タイガン/指揮:冨田実里/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団/[主要キャスト]オデット&オディール:米沢 唯/ジークフリード王子:速水渉悟(怪我のため降板)→福岡雄大/王妃:本島美和/ロットバルト男爵:中家正博/ベンノ:中島瑞生/クルティザンヌ(パ・ド・カトル):池田理沙子、池田紗弥/ハンガリー王女:廣田奈々/ポーランド王女:飯野萌子/イタリア王女:奥田花純

速水渉悟が怪我で降板し、米沢・速水の舞台は実現せず残念だった。結局、初台と同じ米沢・福岡のペアとなったが、二人の2回目(10月30日)が岡田利規の演出オペラ《夕鶴》と重なったため、上田で改めて見られてよかったと思う。

前奏曲の葬列。王妃(本島)の嘆きが初めて見えた。席は18列だがピットの奥行きがあまりない分、ステージが近く感じた【この公演は客を50%の市松模様に制限】。第1幕の王子の福岡雄大は、マリッジブルーからわりあい早く気張らしへ転換? ベンノの中島瑞穂は手足が長く華やか。踊りもよい。ただ、演技は応答の動きが小さく分かりにくい。これからか。第2幕。福岡王子はオデットへの思いをけっこう出していた。二人が見つめ合う頻度も高め。米沢唯のオデットは初台同様しなやかで伸びやか。マイムの美しさと雄弁は特筆もの。ちょっとユーモアも感じる(年長者が年下に諭してるような感じも)。速く強い動きは強度が高い。ジークフリードへの思いは募るが、どこか超然さも残している。完全に人ではないから? 悲劇的結末への予感を表出?

オケは編成を若干縮小か(弦バス3名)。すっきりした響きで初台とはひと味違う。

第3幕ハンガリー王女の廣田奈々はアウラが濃い。ポーランド王女の飯野萌子は踊りが自在でからだ全体の表情が豊か。イタリア王女の奥田花純は相変わらず勘がよく、運動神経のよい動き。チャルダッシュ細田・木下)は相互性の高い踊り(男女が互いを支点に…)。ナポリはタンバリンを男女で交互に。オディール(米沢)登場。ジークフリード(福岡)にエスコートされシモテから退場。それらはすべてオデットとは別人(悪魔)のあり方。スペインの男性の帽子は悪魔? パ・ド・ドゥ。オディールの王子へのもたれ掛かり方! いかにも誘惑。ロットバルトに囁いたあとの動きがとても素早い。飛びつく動き。バランス。すべて悪魔の娘。けっして相手に気を許さない。福岡のヴァリエーションは抑えたロイヤル(王子)の踊り。そこにオディール(オデット)への思いがつい出てしまう。好い。米沢のフェッテは豪快とも違う。その後の動きもすべて、あくまで悪魔の娘として王子を騙すためのもの。ロットバルト中家正博の芝居は徹底している。フェッテの直前で、オディールに出の合図を送っていた(初めて気づいた)。ヴァイオリンソロは音程がややフラット気味。

第4幕。スモークの量が初台より少なめ。というか、奥行きが短いのか。いやコール・ドを1列減らした(30→24)ためらしい。オディールの「身投げします」のマイムが弱々しい。それほど打ちひしがれているのか。ジークフリードとのパ・ド・ドゥ。福岡は初日より感情を表に出そうとしている(出し方がちょっとぎこちないけど)。パ・ド・ドゥののち、オディールが再度マイムし湖に身を投げる。飛び込み方もよい。ロットバルトとジークフリードとの闘い。加勢する白鳥たち。フクロウの頭をもぎ取り、慌てた隙に飛び込むジークフリード(飛び込み方はいまひとつ)。ロットバルトが白鳥たちに追い詰められるシーン。中家は初台のときほど演技する面積が位置的に残ってなかった。ベンノ中島がカミテから登場。王子の行方を白鳥たちに尋ねるが、あとの応答が弱い。湖の向こうに二人が仲良く佇む姿。ベンノがジークフリードの亡骸を抱いて正面から前へ。何度見てもグッとくる。

会場に大勢居た子供たちはどう思ったかな。すっきりしたオケは悪くない。冨田実里は初台よりも自分の棒を振っていた印象。初めからひとりで仕上げていたらさらに違っていただろう。

【追記 サントミューゼは新国立劇場とよく似ている。それもそのはず、どちらも同じ建築家(松本市出身の柳澤孝彦)が手がけたという。大ホールのキャパは1530席(ピット時は1376席)で4階席がないため新国立の1800席よりは少なめだが、インティメットな感触でとても居心地が好かった。舞台の間口もほぼ同じぐらいか(奥行きはさすがに新国立ほどではなさそう)。他に320席の小ホールや大ホールの主舞台と同じ広さの大スタジオ等もあるようだ。また市立美術館が隣接している。山や河など豊かな自然に恵まれているし、また訪れてみたいと思わせる劇場だった。】

iaku 新作『フタマツヅキ』2021【追記】

横山拓也(iaku)作・演出の新作『フタマツヅキ』2日目を観た(10月29日 金曜 19:00/シアタートラム)。

家族がテーマ。もしくは、夢を持つことの世代間ギャップ。噺家くずれのダメ親父と彼をけなげに支える母親。そんな父をひとり息子は嫌っている。この時間軸に、二人の出会いから一緒に暮らし始めた過去の時間が加わり、現在の時間と交互に、ときに交錯し、進行する。「二重の時間軸」とリズミカルな「場面転換」は横山演劇の特色だし、魅力でもある。以前はこうした仕掛け自体に、受け手は(恐らく創り手も)演劇的な喜びを見出していた。それが、仕掛けは次第に手段として後景に退き、ドラマの中身に重点がシフトしてきた印象だ。以下、簡単にメモする。

鹿野克[すぐる](開店休業中の落語家・二荒亭山茶花):モロ師岡

鹿野花楽(克と昌子の息子):杉田雷麟[らいる]

鹿野雅子(克の妻):清水直子

竹橋由貴(花楽の幼なじみ):鈴木こころ

沢渡裕美(ギャラリーサワタリのオーナー):ザンヨウコ

二荒亭茶ノ木(二荒亭山茶花の弟弟子):平塚直隆(オイスターズ)

スグル:長橋遼也(リリパットアーミーⅡ) 

マサコ:橋爪未萠里 

舞台の中央には、ちゃぶ台の狭い和室と小さなテーブルセットのダイニングがある。襖で隔てたこの二間続きのセットと、これを取り巻くなにもない空間が演技場となる。横山の舞台は、従来、洗練された段差のあるセットへ役者がテンポよく出入りし移動することで、小気味のよい場面転換を実現していた。今回は、中央のフタマツヅキのセットを役者が手動で回転させて場面転換する。少し野暮ったい感じだが、その分、生な感情がじかに湧いてくる気もした。

モロ師岡は少し枠からはみ出しがちだが、元芸人で噺家の独特な味はよく出ていた。初舞台という杉田雷麟は花楽役の真っ直ぐな性格をよく生きた。清水直子は〝無職〟の夫を甲斐甲斐しくいたわる妻役の演技が見事。母の甲斐甲斐しさに息子の花楽は苛立つが、花楽の誕生前の時間軸(芸人の克を応援するのが雅子の生きがいに…)から、観客は理解できる仕掛け。由貴役の鈴木こころには何度も笑わされた。花楽の幼なじみで、いつかエステティシャンになり裕福になって好きな人(花楽らしい)と暮らすのが夢。現実は回転寿司のバイトリーダーで、専門学校に行くお金もないが、けなげに生きる20歳の元気な女性。花楽に放つ軽口は救いとしての笑いを生む。沢渡裕美のザンヨウコは現実のギャラリーオーナーにそっくり。過去の克との微妙な関係を絶妙に匂わせた。ラスト近くで克(モロ)はテーブルの上に座り、襖の向こうで泣き崩れる妻に向けて「初天神」を一心に語る。噺のなかの息子〝金坊〟のセリフは、子供時分に覚えた花楽に言わせる。初めは嫌がるが次第に本気でやり始める花楽。本作のクライマックスだ。このとき、側でかつての弟弟子(平塚直隆)が口をあんぐり開けて聞いている、その表情が実に秀逸だった。過去のスグル(克)を演じた長橋遼也はめっちゃうまい。マサコ(雅子)役の橋爪未萠里は横山演劇に必須の女優。二人の優れた演技が本筋を見事に歴史化していた。

文学座公演の『ジャンガリアン』も横山氏の新作だ。とても楽しみ。

【追記】横山演劇の「二重の時間軸」が興味深いのは、第一に、二つの時間が積層し攪乱される点。観客は当初それが異なる時間軸と分からないまま見続ける。やがて、あれはそういうことだったのか、とあとで納得することになる。これは現実世界のメタファーだ。ひとは簡単に分かり合えないし、他人を理解するにはかなり時間がかかるだろう。二つ目は、現在の時間に生きる人間の身体が、過去に生きた人間の身体と、同じ平面に現前し、交差し、場合によっては、両者が(暗黙の)対話を交わすのを、観客が目の当たりにできる点。そこから、演劇ならではの希有な喜びと思考が生まれると思う。