新国立劇場オペラ 新制作《カルメン》初日 2021/若者目線の演出

新制作の《カルメン》初日を観た(7月3日 土曜 14:00/新国立劇場オペラハウス)。《カルメン》の新制作はこれが三回目。

全3幕〈フランス語上演/日本語及び英語字幕付〉指揮:大野和士/演出:アレックス・オリエ/美術:アルフォンス・フローレス/衣裳:リュック・カステーイス/照明:マルコ・フィリベック/[出演]カルメン:ステファニー・ドゥストラック/ドン・ホセ:ミグラン・アガザニアン[「本人の都合により」キャンセル]→村上敏明(演技・セリフ)+村上公太(歌)エスカミーリョ:アレクサンドル・ドゥハメル/ミカエラ:砂川涼子/スニガ:妻屋秀和/モラレス:吉川健一/ダンカイロ:町英和/レメンダード:糸賀修平/フラスキータ:森谷真理/メルセデス:金子美香/合唱:新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル/児童合唱:TOKYO FM少年合唱団/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

開始が遅れ、大野和士がピットではなく舞台にマイクを持って登場。そのさい少し躓き「これが舞台の魔力でしょうか。歌手でなくてよかった」。話は、ドン・ホセ役のアガザニアンが14日間の隔離期間を調整できず(これを「本人の都合」と表記された本人に同情する)キャンセルしたが、その代役村上敏明は初日の今日まで調子が上がらない。そこで、彼には演技とセリフに専念させ、歌の方は「もう一人の村上(公太)さんが、ここ(シモテの端)で、代わりに歌う」と。要するにホセ役の歌の部分は口パクでやることに。15分遅れでスタート。以下、例によってだらだらとメモする。

舞台には天上まで鉄パイプが構造体のように組まれていて工事現場みたいだが、ライブ会場の見立てらしい。序曲で警察官たちが舞台の手前を横切り、続いてロック歌手やそのファンたちが横切る。コロナ禍で集団を混ぜない工夫か。…警官たちの交代をはやし立てる生徒(子供)たちには、女教師の引率が付く。けっこうリアル。…ハバネラはロック歌手カルメン(ステファニー・ドゥストラック)が奥のかなり高いステージでチェロを伴奏に歌い、それをライブのスタッフが側からビデオで撮っている。その映像がステージの背後に大きく映し出される趣向。下には熱狂的なファンらがカルメンを見上げ聴いている。ハバネラのソロはかなり遅めだが、それ以外はテンポを速める大野。ビデオ映像と相まって、カルメンの存在の大きさや余裕(自由奔放さ)を印象づけた。歌の最後でステージ上のカルメンが花を投げると、下の暗がりにいた警察官のドン・ホセ(村上敏明)がそれを拾う。なるほど。…訪ねてきたミカエラ(砂川涼子)と故郷の母へ思いを馳せるホセとの二重唱は、手前の舞台中央で歌われる。というか、実際に歌うのは、シモテ端の暗がりで譜面台を立てた村上公太…。どこを見たらいいのか戸惑った。二人(三人)のドメスティックな歌の中、奥の高いステージではカルメンが他の女と掴み合いを始める。花を投げた「悪魔」カルメンとミカエラ(望郷・母)の絶妙なコントラスト…。喧嘩の処理を命じられたホセはカルメンを捕まえ、手錠を嵌める。が、歌(セギディーリャ)の魅惑で籠絡され、逃がしてしまう。

ロック歌手やライブのファンらが歌詞の煙草工場の女工たちとどう関わるのか…。意味不明のまま先へ進む。

長閑でとぼけた調子の間奏曲(アンダルシアの俗謡「アルカラの竜騎兵」)に続く第2幕は、カルメンがホセに再会を示唆したリーリャス・パスティアの酒場。…色々あってエスカミーリョ登場。「闘牛士の歌」はいつも難しいなと思う。しっくり聴けたことがない。今回のアレクサンドル・ドゥハメルは恰幅の割に声が届かず残念(フランス人ドゥストラックには同国人歌手の存在で安心できたかも)。ダンカイロ役の町英和は歌唱も好いが、上背のある身体性といかにも麻薬の密売人(本来は密輸人)らしい演技で、カルメンとの遣り取りもいたって自然。レメンダードの糸賀修平も同様。この三人にフラスキータ(森谷真理)とメルセデス(金子美香)を加え、密売計画を話し合う5重唱の早口言葉はキレキレで、アンサンブルが秀逸だった。ところが、恋を理由に参加を断るカルメン。…カルメンを逃がしたため営倉に入っていたホセが間奏曲と同じメロディを歌いながらカミテから(歌うのはホセに合わせカミテ奥に居るはずの村上公太)登場。やがて二人きりになり、カルメンは逃がしてくれたお礼にカスタネットで踊り歌う。途中から帰営ラッパに合わせて歌う例のシーンだが、ドゥストラックはカスタネットさばきがメチャクチャ巧い! 点呼に帰ろうとするホセに腹を立てるカルメン。マッテマシタの「花の歌」は、カルメンがシモテへ行き、カミテ奥からシモテへ移動したらしい村上公太がさらに端へ寄って歌う。中央にいるホセが(本来は)歌うのを、シモテのカルメンは聴いているわけだが、実際に歌っているのはそのすぐ脇にいる代役だ。この場のドラマを味わうには、歌っている中央のホセを見るカルメンに注視すべきだろう。が、どうしても、実際に声を発しているシモテ袖の代役とそのすぐ横で中央のホセを見ている(と同時に右隣の歌を聴いているに違いない)カルメンとを見比べながら聴いてしまう(何度も感じたこの〝ちぐはぐさ〟は声と身体についていろいろ考えさせる)。「おまえの投げた この花を」で、ホセは干涸らびた花をポケットから出すのかと思いきや、シャツのボタンを外し、なんと胸に彫った花のタトゥーをカルメンに見せた。薄暗いのでよく見えなかったが、たぶんそう。面白い。公太の歌唱は必ずしも十全とはいえないが、ホセの〝性根〟を感じることはできた(少なくともこれ見よがしでない点は好い。さもないと役から外れてしまう)。カルメンへの愛憎に引き裂かれつつ、結局はその魅惑に抗しえなかった男の愛の告白だから。

だが、カルメンは、本当に私を好きならどこまでも自分についてくるはずだと、先の計画にホセを引きずり込もうとする。このあと上司のスニガ(妻屋秀和)がカルメン目当てに再来店し、ホセと争いになる。カルメンの仲間たちも交えてスッタモンダの末、スニガは追い出され、ホセはカルメンらのワルと同行することに。彼らのいう「自由」の世界へ。

休憩後の第3幕第1場。ハープとフルートが奏する牧歌的な間奏曲が終わると、ツアー用と思しきドレッサーの前にカルメンが煙草を吸いながら座っている。上方にはここで初めて青空が見える。野営地のアジトなのか。…カルメンが〝死の運命〟を知る「カルタの三重唱」、再度訪ねてきたミカエラのアリア、共にカルメンを愛するホセとエスカミーリョがナイフで決闘する二重唱…。ホセはミカエラから故郷の母が死ぬ前に会いたがっていると聞き、二人で去る。

第2場。本来は闘牛場の前の広場だが、今回は舞台手前にレッドカーペットが敷かれている。そのシモテから映画スター(?)や車椅子の映画監督(プロデューサー?)らが現れ、センターでポーズを取る。映画祭なのか。奥の鉄骨が上がり、ファンが出てきてカミテから登場するスターたちを待つ。歓声があがり、スマホで写真を撮る…。最後に正装した闘牛士エスカミーリョがカルメンと腕を組んで現れる。闘牛士は、いまでいえば映画スターや監督と同じだ、と言いたいのだろう。

…ラストシーン。ホセがカルメンを三回刺したと分かるのは「ウッ、ウッ、ウッ」とカルメンの声が聞こえたから。ドゥストラックは殺され方が大変うまい。自由に生き、自由に死ぬカルメン。これも愛の行為なのか(状況はまったく異なるがオールビーの一幕物『動物園物語』の結末を思い出す)。ホセは「おれを逮捕してくれ……おれが殺したんだ!」本来はここで闘牛場の群衆が出てくるが、最後まで二人きり。「O ma Carmen! ma Carmen adorée! ああ、おれのカルメン! おれの大好きなカルメン! 」ホセ村上敏明は追いつめられた動物のような眼で客席の方を見る。すると、上から鉄パイプの構造体が降りてくる。殺人者を閉じ込める檻のように。グッときた。本作を締め括る音楽にはいつも心を動かされる。闘牛場で興奮するファンらの合唱。「心臓の真ん中を一突きされて、/牛は倒れる! みごと勝利の/闘牛士に栄光あれ!」(安藤元雄訳)オケの奏でるテーマが歪むのは、生を賭した当事者(闘牛士と牡牛=カルメンとホセ)への〝聞こえ〟を音楽化したからだろう。いま気づいたが、そうか、カルメンの方がトレアドールで、ホセは牡牛なのか。これまでは逆に考えていたが、そうではなく、牛がトレアドールを突き殺したのだ(プログラムを読み直したら演出家自身そう言ってた)。村上が動物に見えたのはそのためだ。村上公太の歌には、ドン・ホセのハラがあった。それがすべて声になってはいなかったとしても。ベルカント村上敏明のホセも聞きたかった。ホセの身体から発する歌声を。

セリフは吐くが歌は口パクのホセ役と共演したドゥストラックは、さぞやりにくかったろう。が、そんなことは微塵も感じさせず、見事に演じ、歌いきった。深い暗めの声で強度が高く、なんというか歌と演技が切り離せないようなあり方だった。オペラなら当然そうあるべきだが実際は稀少。役柄とは矛盾するようだが人の好さも感じた。彼女はフランシス・プーランク(1899-1963)の甥か姪の娘らしい。砂川涼子はこの劇場では三回目のミカエラ役だが、今回はさほど嵌まっていない印象。《ホフマン物語》アントニアや《魔笛》パミーナの素晴らしい歌声はいまでも覚えているだけに…。スニガの妻屋秀和は声量と上背で存在感を示した。フラスキータを歌った森谷真理には、もっと重要な役を付けてほしい。BCJポッペアの戴冠》(2017)や上岡敏之=新日フィルのマーラー《復活》などで彼女の質の高さは分かっている。昨年4月の《ジュリオ・チェーザレ》が中止になったのは本当に残念だった。

大野和士はアクシデントの只中でよく集中してオケを鼓舞しコントロールしたと思う。頼もしい芸術監督だ。

歌が代役となった舞台は、北とぴあ国際音楽祭の《フィガロの結婚》(2013)で遭遇した。ケルビーノ役の波多野睦美が体調不良のため、マルチェリーナ役の穴澤ゆう子が、マルチェリーナをやりながらケルビーノの歌(アリアとレチタティーヴォ)だけ代役した。ただ、あれはセミステージ形式で、なによりケルビーノはさほど出番が多くないから出来たとも言える。今回は主役級のドン・ホセだから、事情がだいぶ異なる。《フィガロ》の代役は開演10分前に決めたというが、今回も似たような状況だったろう。こうしたアクシデントはもちろんない方がいいのだが、同時に、舞台芸術の面白さやかけがえの無さが垣間見えたともいえる。

演出のアレックス・オリエは、カルメンをロック歌手に見立て、舞台を現代の日本でも違和感のないライブのコンサート会場に設定した。とても興味深いアイデアだが、メイヤック+アルヴィのリブレットと矛盾する部分も散見された(もちろんメリメの原作小説とも)。おそらく細かな辻褄合わせより、若者の共感しやすさを最優先させた結果だろう。日本でもオペラやクラシック・コンサートの客席は高齢化が激しく進んでいる。これは一朝一夕に解決できる問題ではない。だが、今回のように若い世代にも理解でき、共感を呼ぶような演出が増えれば、オペラの持続可能性はたとえ僅かでも高まるかもしれない。その意味で、次代を見据えた今回のチャレンジは高く評価したい。

コーラスの動きや隊列などは、ソーシャル・ディスタンス確保の制約から多少ぎこちなさが見られた(2019年の《トゥーランドット》は見事だった)。が、正直、2007年から続いた前のプロダクションでは、そうした制限がないにもかかわらず人の動かし方は眼を覆いたいほど稚拙だった(特に第1幕)。

現代日本に設定された演出では、服装もいま風だから、親しみはあるとしても、日本の歌手や助演らの身体性(の貧しさ)が露わになった。もちろんそれを〝リアル〟と見る向きもあるだろう。だが、いやしくも舞台に立つからには、舞台人として、立ち姿や歩き方は「見(魅)せる」レベルにクオリティを上げることはできるはず(レッドカーペットでのスターの歩き方等々)。舞台に立つ際の基礎は、教育機関で早い時期から徹底的に学ぶ必要がある。もちろん歌手の演技も!