オリンピック開会式のテレビ中継で森山未來が出てきた。コロナ禍等で亡くなった人達を追悼する旨のアナウンスがあり、ひとり森山がギリシャ風の衣裳で踊ったのだ。当然この舞台が頭に浮かんだ。もう二ヶ月以上経ったが、強烈な印象はいまも消えていない。
岡田利規 作・演出『未練の幽霊と怪物 —「座波」「敦賀」—』の3日目を観た(6月7日 月曜 19:00/KAAT 神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉)。昨年6月の公演が新型コロナで中止となり、代わりに二日間だけ前シテがハケルまでの映像版が無料配信された。その本公演だ。以下、だらだらとメモしたい。
音楽監督・演奏:内橋和久/演奏:筒井響子、吉本裕美子/舞台美術:中山英之/宣伝美術:松本弦人/企画製作・主催(横浜公演):KAAT神奈川芸術劇場
興奮した。 岡田利規の舞台は感覚と思考を刺激する。既成の形式やフレームを自明視せず、つねに新たな方法を模索しているからだろう。これはたしかに能だ。『地面と床』(2013)でも能へのオマージュを感じたが、今回は丸ごと〝能のフォーマット〟(岡田)を採用している。『敦賀』では廃炉が決まった高速増殖炉もんじゅをモティーフに「核燃料サイクル政策の亡霊」を、『座波』では新国立競技場のデザイン案を撤回され急死した建築家「ザハ・ハディド」をそれぞれ後シテに、その未練を、果たされなかった夢を舞台に現出させる。痺れた。
『敦賀』ワキ(旅行者):栗原類 シテ(波打ち際の女):石橋静河 アイ(近所の人):片桐はいり 後シテ(核燃料サイクル政策の亡霊):石橋静河 歌手:七尾旅人
舞台には四角形の白いリノリューム(?)が敷かれている。その左端は橋がかりのようにシモテ奥へ延び、その手前に三つの黄色いコーンが等間隔で置かれている。松の代わりか。上方には四角形の〝屋根〟が掛かり、舞台を見おろす平面が鈍い光を放つ。この「曇り空」は「グローブ座の平土間から見上げた丸い空」がヒントらしい(美術:中山英之)。白い床シートの正面奥に3人の演奏者(地謡)が、カミテ端の、床シートの外側に歌手(謡手)七尾旅人が陣取る。
内橋和久らが奏するダクソフォンから、二胡を弾くような動作とは裏腹に、笛、小鼓、大鼓のような電子音が生み出される。旅行者(ワキ=栗原類)がオレンジ色の大きなショルダーバッグを床に引き摺りながら「橋がかり」から登場。「ぼくは今こう見えて、ドライブ中なんですけど。今走っているのは福井県の、日本海の海岸沿いを行く道」と(『未練の幽霊と怪物 座波/敦賀』白水社、2020年、以下同様)。これだけでもなんか可笑しい。やがて波打ち際の女(シテ=石橋静河)が登場。旅行者と「もんじゅ」についてあれこれ問答し、去る。今度は近所の人(アイ=片桐はいり)登場。片桐は、エレキギター(内橋和久)のインプロとコラボで散文詩を饒舌に発する。無論からだの動きも連動して。面白い。その後、何事もなかったかのように近所の人が去ると、核燃料サイクル政策の亡霊(後シテ=石橋)が薄ピンクの衣裳を纏い登場(両膝のサポーターは後の女優業を考えてか)。昨今よく目にするアクリル板のような透明の仮面を付けている。よく子供がおどけて顔を窓ガラスに貼り付けるが、仮面越しの顔はかなり不気味。なるほど、よく考えられている。それにしても石橋がこんなに踊れるとは。しかも、人間の未練や恨みなら分かるが、〝政策〟を踊るのだ。石橋の舞(コンテンポラリーダンス)と七尾旅人の謡はもんじゅの、否、核燃料サイクル政策の〝夢〟を見事に形象化した。ワキの栗原は、後シテの、めくるめくような踊りを目の当たりにしたあと、表情を変えずゆっくり去って行く。栗原のからだは、石橋の発したエネルギーを吸収し尽くした。そう感じた。また彼の表情の無さは、客席に居るわれわれの鏡として機能した。観る者は、そのなんとも言えない無の表情に、自分の内部で起きたドラマを勝手に読み取ることになるから。
ここで休憩。
『座波』ワキ(観光客):太田信吾 シテ(日本の建築家):森山未來 アイ(近所の人):片桐はいり 後シテ(ザハ・ハディド):森山未來 歌手:七尾旅人
観光客(ワキ=太田信吾)は、新国立競技場の「絶賛建設工事中」現場を一回りしている。そこに、日本の建築家(シテ=森山未來)登場。モスグリーンの柔らかそうなシャツとパンツに黄色のスニーカー姿の建築家は、一心に工事現場を眺め、独白する。「悔やんでいる、けれどもわたしたちには悔やむ資格があるんだろうか?/やり直せても、おそらくわたしたちは踏むだろう、同じ轍を。/過ちは繰り返さないと心から、誓うことができない、ならば、/祈る資格が、あるのかわたしたちに、安らかに眠ってほしいと」。(この前後で残念ながら前列中央の男性の携帯が鳴った。)
…この建築家は旅行者に問われ、答える。「今建てられようとしているものを眺めているのではなく、本来建つはずであったものを思い描いているんです」。旅行者「あー、でもあのデザイン、当時日本でかなり評判悪かったんですよね?[…]コストがべらぼうだっていうんでとにかく批判されてたんじゃなかったでしたっけ[…]それであの案結局白紙撤回になったんでしたよね」。建築家「あなたも、あのときあの建築と建築家に向けられた、あてつけ、悪意あるキャンペーンに乗せられた、一人ですね」。
そう、あの巨大な流線型のデザインに美的な違和を感じた自分も、その一人だったと思う。
歌手「汚名を着せても 彼女になら/気の強そうな エキセントリックそうな/外国人の 女の 建築家になら/話をなかったことにして/ゼロ・ベースに戻して/約束を破っても/構わないと思っていたんだろう/ぼくたちは」
こう歌う七尾の歌声は、胸に突き刺さる。
建築家が去り、近所の人(アイ=片桐)が登場すると、エレキを持って立ち上がった内山は、チラッと片桐の顔を見て思わずほくそ笑む。さりげない遣り取りを観取する悦びはライブならでは。こっちもつい頬が緩む。近所の人と旅行者の問答の後、近所の人とエレキ(内山)のコラボが勃発。
近所の人「そのオリンピックやりたいありきで競技場も新しくしようってんでデザイン募って国際コンペ、そしたらザハさんのがいちばん躍動感みなぎって未来的、スポーティーって選ばれて、それがオリンピック招致にもかっこいいじゃない、フューチャリスティックじゃない、ってアピールしたのが功を奏して招致に成功した部分は大だったんだからそれはもう立役者ですよ、それを白紙撤回ゼロベースってあんまりだ![…]コスト高は要因は発注サイドのそもそもの設計要件が収容人数まえの国立競技場よりたくさん入るようにしたい、あとオリンピック終わったあと元取る意味でもコンサート・イベント、ガシガシやりたい、だから屋根は全天候対応の開閉式の付けたい自動式の、そんな要件入れて設計したら予算高くなるのは当然。そもそもコスト管理は」…。
エレキの音が少し強すぎる気もしたが、こうした言葉がラップのようなノリで矢継ぎ早に放たれる。
…「発注サイドで付かなくなった収拾、こんがらがった経緯、すったもんだ、ディスオーダー、ぜんぜんうまくいってない、どうすんだこれ? それ受注サイドの責任にして、誰が悪いんだ、ザハが悪いんだ、世の中も雰囲気的にそれ黙認して、システム全体の、社会のそこかしこの、責任の耐えられない負わなさ。それが、ザハを殺したんだとその人[シテ=日本の建築家]は感じているとか、いないとか。それに対して申し訳なく思っているとか、いないとか。今建とうとしているあの国立競技場は、あれ完成すると上から見たときの形が数字のゼロに見えるようになるらしいんですよ。だからあれはね、その人からすると、ザハのデザインがゼロ・ベースにされたことを忘れないために建てられた、巨大な碑(いしぶみ)なんだということだそうですよ」。近所の人退場。
ザハ・ハディド(後シテ=森山)登場。ギリシャ悲劇を思わせるコスチュームは薄グレーと淡いグリーンがかったグレーのパンツ(袴みたい)。例のアクリル板に見える面を付けて素足で。建築家の愉悦を歌いながら、建つはずだった競技場の構造や形状を空間に描き、配していく。ドリルの音。建築現場のノイズ。それがリズムとなり、森山は舞い続ける。トランス状態か。ジャンプし、バタンと座り込む(能でよくやるやつ*1)。恨み辛みではなく、一心不乱に建築物を構築していく動き。この間の七尾の歌(謡)がまた素晴らしかった。胸がすくような歌声。グッときた。かなり。われわれはザハ・ハディドの思い(未練)を目の当たりにし、その一端を共有した。共有? ザハの追い落としに加担したわれわれが、彼女の未練を共有? だけど、たしかにそうしたと思う。〝加害者〟が〝被害者〟の思いを共有する。これ以上の追悼があるだろうか。
岡田利規の舞台を初めて見たのは『エンジョイ』(2006年12月,新国立小劇場)で、だらだら喋りよりもセリフの話法に興味をそそられた。直接話法と間接話法の混交。人形浄瑠璃の義太夫節みたいに。鈴木雅明の《受難曲》に関するコメントが頭によぎったのを思えている。曰く、受難曲ではオペラと違って、ドラマが内面で生じる等々…。当時のプログラムから走り書きした紙切れが出てきた。
悲惨な青春 今時の、断定しない若者言葉が〝詩的〟に響く 話者の不定性(転移) 役者(話者)と人物の関係が固定化しない 感情同化を拒否 バッハの受難曲を想起 ドラマが舞台上ではなく見る(聞く)者の内面で生じる(鈴木雅明) ラスト近くで初めて登場する岩本えりの明るいエロス=救い(ある意味、古典的な図式) ラストは映像化されたカップル 映像とライブのズレ 仕掛けを見せる=ブレヒト的 舞台の重苦しさ=現代の日本社会のそれ が、フランスの学生デモの映像は…? セリフと共に見せる奇妙な身振り=社会化されていない若者たちのありようをリアリスティックに表象
15年前に感じたのも、やはり方法的な側面だった。
これまで見た岡田利規(チェルフィッチュ)の舞台(演出のみを含む)を以下に記す。
- 『エンジョイ』2006.12/新国立小劇場
- (演出)安部公房『友達』2008.11/シアタートラム
- (演出)デーア・ローアー『タトゥー』三輪玲子訳(美術:塩田千春)2009.5/新国立小劇場
- 『ゾウガメのソニックライフ』2011.2/KAAT
- 『現在地』2013.12/芸劇シアターイースト
- 『地面と床』2013.12/KAAT
- 『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』2014.12/KAAT
- 『God Bless Baseball』2015.12/あうるすぽっと
- 『部屋に流れる時間の旅』2017.6/シアタートラム
- 『3月の5日間 リクリエーション』2017.12/KAAT
*1:森山はオリンピックの開会式でも似たような動きをしたが、あれは「五体投地」らしい。「五体投地」も色々あるようだが、森山がやったのは東大寺修二会の「お水取り」で僧がおこなう行のひとつで、飛び跳ねて片膝を木に打ちつけ「罪障」を「懺悔」し祈願する行法の由。「お水取り」は今年3月にNHKの生中継で見たが暗くてよく分からなかった。いずれにせよ、天皇や総理大臣、都知事をはじめ国民が注視するなか、〝ザハ・ハディドのデザインがゼロにされた巨大な碑(競技場)〟のど真ん中で、「罪障」を「懺悔」する行を舞ったとは! この意義は計り知れない。岡田利規は森山未來になにかアドバイスしたのだろうか。一方、KAATの舞台の踊りはそれとは異なり、能の舞を採り入れたものと思われる。