F/T13 チェルフィッチュ『現在地』/スタイリッシュな舞台の裏

チェルフィッチュの『現在地』を観た(12月2日 19:30/東京芸術劇場 シアターイースト)。

作・演出:岡田利規
出演:佐々木幸子、伊東沙保、南波圭、安藤真理、青柳いづみ、上村梓、石橋志保
美術:二村周作
音楽:サンガツ
ドラマトゥルグ:セバスチャン・ブロイ
舞台監督:鈴木康郎
音響:牛川紀政
照明:大平智己
映像:山田晋平
映像オペレーター:須藤崇規
宣伝美術:松本弦人
広報:浦谷晃代
制作:precog
製作:KAAT神奈川芸術劇場
共同製作:Doosan Art Center
協力:急な坂スタジオ
主催:フェスティバル/トーキョー

昨年2月の初演らしいが、見たのは今回初めて。
最前列の客席と地続きのオープンスペースに、白いタイル貼りの区画が正面より少し下手向きにずらして作られている。そこにはテーブル6卓と椅子がそれぞれ2脚ずつ並んでおり、ラウンジのような趣が。正面奥の壁面と手前のやや下手寄りに立つ柱には、カウンターのような板が付いている。壁の上方は明るい色だが、中ほどの、カウンターより上の部分が帯状に黒いため、遠目には黒板とチョーク置きに見える。〝黒板〟の上部には窓のような大きめのスクリーンがあり、そこに青空や宇宙空間が映し出される。下手に英語の字幕が出る。
カジュアルな服を着た七名の女性たちがマグカップを持って無造作にテーブルにつく。最初は三人の女性が奥の壁の前に立ち、話し始める。他の女性たちはテーブル席に座り、ただそれを見ている。話が終われば交代。学生が教室で芝居のリハーサルをしている感じ。
恋人とドライブ中に光を放つ青い雲を見た女。そのことがきっかけで恋人とギクシャクし、涙を流す。村が崩壊するのではないかとの噂を信じる者、信じない者。危機的な状況に直面し友達が一人も居ないことに初めて不安を覚え、ある姉妹と知り合いになろうとする孤独な女(赤いカーディガン)。別の姉妹。村を離れようとする眼鏡の姉とそれを批判する不本意な服を着た妹。普通の女(最初の姉妹の妹)が赤いカーディガンの女を絞め殺し、湖に沈める。湖の水位が下がり始める異常事態。死体と〝乗り物〟の先端が湖底から姿を現す。眼鏡の姉はその〝船〟(箱舟?)に乗り、村を出る・・・。こうした話が寓話のように語られ、時には演じられる(泣く、殺す、山=机に登る等々)。どの役者も台詞がとてもクリアで聞きやすい。台詞は「・・・だわ」という〝女性言葉〟が多用され、例によって腕や身体を妙な具合に動かしながら喋る。だが、かつてほどの動きではない。殺されることになるカーディガンの女は上体を大きく屈める姿勢が印象的。〝普通〟と違うありようを示したのか。
スタイリッシュな舞台だった。不安(不快)を微妙に喚起する軋むような音(楽)。壁に映される映像も効果的。前半は青空に浮かぶ雲。雲に隠れる月。後半は夜空の星々のなかに浮かぶ地球。殺人が起きるとその地球は姿を隠す。やがて、クレーターだらけの惑星が近づき、遠ざかる。今度は土星が近づき、見えなくなる。
災厄を機に生じた共同体の同調圧力。そこから外れる個人への批判。ほとんど〝非国民〟という言葉が舞台から聞こえるようだった。作者が「放射性物質の影響を気にして九州に移住した」(プログラム)際の体験が素材となっている。そのとき感じた同調圧への異和。『現在地』には、登場人物に対する作者の「外在の位置」を獲得しようとしてなされた創作上の「闘い」(バフチン)が感取できる。人物をすべて女性にした点。殺されるのが、村を出ようとした眼鏡の姉ではなく、友達の居ない孤立した女性である点。震災・原発事故後のありようを寓話風に作劇した点。これらは、刻々変化する空や地球を含む宇宙の映像および英語字幕の効果と共に、作者の個人的な体験をなんとか相対化(俯瞰)し、普遍化するための措置(苦闘の痕跡)だと思う。それでも、ここには作者の恨みのようなものが澱のように残存している。あのときのお前らの言動は殺人にも等しいのだ。それが分かっているのか。劇場を出た後、そうした声が頭の中で聞こえてきた。震災・原発事故の問題というより、そこから派生したきわめて個人的な問題(『三月の5日間』も同型か)。だが、前者が起こらなければ後者の問題も生じなかったことは確かだ。そこに作者は誠実であろうとした。KAATでの初演は「客席がピリピリし」ていたと相馬千秋が伝えている(プログラム)。初演以降は、首都圏以外の場所で上演されてきたのも頷ける。たとえば、これを被災地で上演したらどうなるのだろう。
震災・原発事故に関わり出演者が全員女性なのは、隣のシアターウエストで上演中の宮沢章夫の『光のない。(プロローグ?)』も同様だが、中身はかなり対照的。隣同士でかくも刺激的な舞台が同時に上演されるとは。池袋の、芸劇の文化的濃度はかなり上がっている。