秋元松代『近松心中物語』KAAT 2021【追記】

秋元松代の『近松心中物語』を観た(9月9日 木曜 18:30/KAAT神奈川芸術劇場 ホール)。

【追記:席は平日夜割引 A席の2階5列(最後列)で3000円。夜割は15回公演のうち2回だけだが、大変有り難い。ちなみにS席 9500円、A席 6000円】

40年前に見た帝劇の舞台が、長塚圭史の演出で、等身大の、明るく哀しい舞台に生まれ変わった。適材適所のキャスティングはめったに出会えないが、出演者は子役を含めみな役にはまっていた。ちょっと心配していた大阪弁もみな巧かった(指導者の記載が見当たらないけど)。以下、感想メモをだらだら記す。

作:秋元松代(1911-2001)/演出:長塚圭史/音楽:スチャダラパー/美術:石原敬/照明:齋藤茂男/音響:武田安記/衣裳:宮本宣子/ヘアメイク:赤松絵利/振付:平原慎太郎/所作指導:花柳寿楽/音楽アドバイザー:友吉鶴心/演出助手:大澤遊/舞台監督:横澤紅太郎

[出演]亀屋忠兵衛:田中哲司/傘屋与兵衛:松田龍平/遊女梅川:笹本玲奈/傘屋お亀:石橋静河丹波屋八右衛門:石倉三郎/傘屋お今:朝海ひかる綾田俊樹、石橋亜希子、山口雅義、清水葉月、章平、青山美郷、辻本耕志、益山寛司、延増静美、松田洋治蔵下穂波,藤戸野絵、福長里恩/藤野蒼生(子役Wキャスト)

舞台の床は焦げ茶色の三角形。奥へいくと狭まり(三角形の頂点)、上も同型同色の天井で閉じられ、左右の袖は襞に見える折り目のような複数の壁が三角形の二辺を塞ぎ、演者は襞の間から出入りする(美術:石原敬)。基本、三角形の〝なにもない空間〟に最低限のセットが加わる。どの場もシンプルだ。そのぶん物語の中身がすっきりと飲み込める。

飛脚宿 亀屋の場では、床に数個の帳場机が整然と置かれ、奥の一つに亀屋後家 妙閑が座る。番頭や手代らの佇まいが好い。傘屋の場では、千手観音などの仏像や甲冑や琴など古物をぎっしりはめ込んだフレームが帳場の背後に降りてくる。瞬時に古道具古物商の店の間が現出する仕掛けだ。封印切りの越後屋の場は、華やかな朱色の行灯が座敷にいくつか置かれるだけ。八右衛門の来訪に忠兵衛と梅川が隠れるのは中二階ではなく、同じ座敷の行灯の奥、屏風の陰だ。傘屋長兵衛の表の場は、カミテに中二階の窓がありその下に大長持が置かれている。五十両の件で家を出ていた与兵衛がお亀に詫びにくるのだが、月明かりに忍んできた与兵衛が二階のお亀に地上から囁く図は、『ロミ&ジュリ』のバルコニーシーンのよう。蜆川堤の場では、川に見立てた長い布があるだけだ。最初は一筋、やがて三筋に。両端を持つ二人の黒子が布を波打たせると川の流れになる。驚いたのは、黒子が布を高く持ち上げ、その下を与兵衛とお亀に潜らせる趣向だ。数回繰り返されるが、まるで縄跳び遊びのよう。従兄弟同士で幼馴染みの道行きにはぴったりだった。

長塚演出の田中哲司は正直いつも不満だったが、見た中でベスト。なまの自分を無理なく出す。それが功を奏した。気弱で律儀で短気の忠兵衛をぶっきら棒に生きてみた。そんな感じ。封印切りもそうだが、心中シーンの、おたおたした、かっこ悪い、無様なあり方が、とてもかっこよかった。梅川役の笹本玲奈は儚げな美しさが姿・科白・所作によく出ていた(見世女郎にしては少し品がありすぎたか)。与兵衛の松田龍平は例の脱力系が全開で、ひょうひょうとしたあり方が役にはまり何度も笑わされた。生きる気力の無さそうなさまが、同郷で幼なじみの忠兵衛に頼りにされると、一変。見違えるほど生き生きし、後先考えずに五十両(約500万円)を貸してしまう。いやはや。お亀の石橋静河は、音感のよさ(大阪弁)に舌を巻いた。科白回しと動きも素晴らしく、箱入り娘のあっけらかんとした率直さが見事に生きられていた(『未練の幽霊と怪物』とは別人に見えた)。そんなお亀と与兵衛が「曽根崎心中」の蜆川まで逃げた挙げ句、心中未遂でお亀だけ死ぬ。他方、与兵衛は「済まんけど、寿命のくるまで生かしといてや」と死にきれずに生き残る。なんとも皮肉だ。石倉三郎が演じた八右衛門は、忠兵衛に封印を切らせる大事な役。〝友人〟忠兵衛との年齢差が少し気になったが、安定感があり悪役になりすぎない点は見事だった。朝海ひかるが扮したお今は大店の女房として未熟な義娘夫婦を躾ける一方、情もなくはない(二人の叔母でもある)。その機微を巧みに演じていた。亀屋後家 妙閑(女)と傘屋 長兵衛(男)の二役を演じた綾田俊樹は、いずれも養子の息子への情愛が滲み出た。さすが。

ラップグループのスチャダラパーによる音楽もまったく違和感なし。出演者が鉦や太鼓を叩き、秋元が作った歌詞を唄う。簡素な舞台によく合っていた。結果〝美的〟にならず、カラッとした明るい心中物語に仕上がった。でも要所ではグッとくる。

秋元はなぜ二つの心中カップルを作品に盛り込んだのか。梅川と忠兵衛の心中は、近松浄瑠璃原作にはないが、典型的かつ理想的に見える。その意味で、フィックションの純度が高い。一方、お亀と与兵衛の場合、お亀のミーハー的な「曽根崎心中」への憧れが突発的に心中を敢行させ、与兵衛は死にきれず未遂となる。この点について作者は「与兵衛を死なせないことによって、元禄期の町人と昭和の時代のわれわれとの通路にすることができる」と書いていた(「あとがきにかえて」『元禄港歌・近松心中物語』新潮社、1980)。これは言いかえれば、お亀と与兵衛の心中〝未遂〟は、前者の美的な心中よりもフィクション性が低く、現在の観客には身近ということだ(後者が、前者より、客席から近い舞台手前で演じられたのはこの事と無関係ではないはず)。【また、一方のカップルは遊女と大店の養子だが、他方は遊女ならぬ大店の娘と婿養子の夫婦である点にも観客との「通路」(近さ)が見出せる。】蜷川演出では、前者の心中は、まさに虚構美の極致だったと記憶する。だが、今回の長塚演出では、ここでも(特に忠兵衛は)リアルで無様な演技をさせていた。梅川の哀しく美しい死に方で、辛うじて心中の〝理想〟をとどめていたが。いずれにせよ、三百年前の封建的な時代に流行った「心中物語」をフラットな現代社会(ほんとか)の観客に無理なく受容させるには、後者の「通路」が必須だったのだろう。加えて、昭和から平成を経て令和となったわれわれには、フィクション性の高い前者ですら、一定のリアル(無様)が必要になった。演出家はそう感じたのではないか。

かつての蜷川演出では冒頭で一気に観客を圧倒し、フィクション世界へワープさせる絢爛で厚塗りの舞台だった。今回の長塚演出は、観客の想像力を尊重し徐々にその世界へと導いていく。80年代は前者が効果的で意味を持った。だが、やがて、それだと鬱陶しい、うるさいと感じるようになる。激しくシャウトする舞台から、静かな舞台へ。前者はもちろんエネルギーに満ちていた。そのギラギラしたエネルギーが耐えがたくシンドイと感じるほど、みな疲れてしまったのだろうか。かつて蜷川演出の『ハムレット』(スパイラルホール/私は未見)が朝日の劇評で批判されたのも、同じ問題だったと記憶する(蜷川はその反論を壁に貼り出したらしい)。今回の舞台にもエネルギーはあった。むろんそれは人を圧倒する類いのものではない。注視し、耳を澄ませば、間違いなく感取できるもの。つまり、舞台と客席のあいだで行き来するエネルギーの交流だ。90年代以降、個人的には次第に蜷川演出を見なくなっていった(浅丘ルリ子主演の『にごり江』などは違っていたし、後の一連のチェーホフなども趣が変わっていたが)。その理由は主役にアイドルを登用しチケットが取れなくなったから、だけではない。今回の公演で、そのことを改めて思い返した。

KAATでは、嬉しいことに、椅子やテーブルやソファなど「居場所」があちこちに作られていた。たとえ舞台を見なくとも、憩える場所としての劇場を捉え直す芸術監督の意向だろう。家からはちょっと遠いけど、応援したくなった。