チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』東京公演 2017

チェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』を観た(6月18日 14:00/シアタートラム)。
フライヤーによれば、2016年3月に京都で初演。その後、世界16都市を巡り、今回の東京公演を迎えたとのこと。見たのは三日目のマチネー。期待を裏切らぬ舞台。もっとましな体調で見たかったが、人生とはそういうものか。終演後、戯曲について尋ねると、掲載誌は昨年の『新潮』4月号ですでに売り切れらしい。確かめたい台詞が多々あるが、とりあえず簡単にメモを記す。

作・演出:岡田利規
音・舞台美術:久門剛史
出演:青柳いづみ、安藤真理、吉田庸

技術監督:鈴木康郎/舞台監督:中原和彦/音響:牛川紀政/音響オペレーター:林あきの/照明:大平智己(ASG)/衣裳:藤谷香子(FAIFAI)/英語翻訳:アヤ・オガワ/演出助手:柳雄斗/宣伝写真:川村麻純/宣伝美術:佐々木暁
製作:一般社団法人チェルフィッチュ/企画制作:株式会社precog/統括プロデューサー:中村茜/チーフプロデューサー:黄木多美子/デスク:河村美帆香/制作:兵藤茉衣/制作アシスタント:水野恵美/デスクアシスタント:岡本縁、崎山貴文
国際共同製作:KYOTO EXPERIMENT/ロームシアター京都, Kunstenfestivaldesarts, Festival d’Automne à Paris, Künstlerhaus Mousonturm Frankfurt, FFT Düsseldorf, La Bâtie ‒ Festival de Genève, HAU Hebbel am Ufer, SPRING Performing Arts Festival Utrecht
主催:一般社団法人チェルフィッチュ/提携:公益財団法人せたがや文化財世田谷パブリックシアター/後援:世田谷区
助成:芸術文化振興基金、アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団

生まれ変わるきっかけとなった3.11の地震原発事故――作者はその率直な気持ちを、直後に病死した妻ホノカに、夫と住んでいた部屋へ幽霊となっていま戻ってきた死者に、語らせる。「覚えてる?」と。これは、いま新しい恋人を部屋に迎える夫に語っていると同時に、われわれに語っているのだろう。生まれ変わってやり直すきっかけ(希望)を同様に得たはずのわれわれに。が、その後、日常の様々な現実にあれこれ対応していくなかでいつの間にか忘却し、結局は何も変わらなかったかのように日々を生きているわれわれに。
セットは一見シンプル。中央ややシモテ寄りに木製の小さなテーブルと二脚の椅子。テーブル上には朱いガーベラの花が二輪と、水の入ったグラスがある。中央背後はカーテン状の仕切りがあり、その向こう側はベランダの設定。が、カーテン越しに、中央には小さな扇風機らしきもの、またカミテ寄りには高さ150cmぐらいのスタンドが見え、その先に裸電球が付いている。今回は、これ以外にもいくつかの物体が室内に置かれ、そこにささやかな仕掛けが施されている。まずカミテ寄りに木製の小さなスツール(?)があり、そこに小さな電球を吊した棒が立てられ、スツールの上には水の入ったグラスが置かれている。のちに、差し込まれた管に空気が送られ水がブクブク泡立つ。このシモテ寄りに焦げ茶の丸い物体(あとでロクロと分かった)があり、そこに手のひら大の自然石が置かれている。その後方の床には扇風機の白い羽根が上向きに置かれ、さらにそのカミテ寄りにプラスティック製に見えるブルーのバケツのようなものがある。のちに光が電話音と同期して明滅し、ファックス受信時のような音も聞こえた。さらにその後方カミテ寄りに銅鑼のような円形の板。ここものちに光が反射する。シモテ奥には白い箱があり、のちにその中からカミテへ真横に明かりが灯る。
冒頭で恋人役の女優(安藤真理)がシモテからスタンドマイクを持って登場し、観客に目を閉じるよう指示する。次の指示で目を開けると、夫(吉田庸)が客席に背を向けて座り、そこへ妻の幽霊ホノカ(青柳いづみ)が登場し、夫に対面する。彼女はブルーのノースリーブにブルーのパンツ姿で幽霊らしく素足。椅子に座った夫の傍に立ち、震災直前のこと、直後のことを語り、新たに生まれた変化(希望)について語っていく。避難した駐車場でのこと、これまで話したこともなかった人たちと話しをしたこと等々、「覚えてる?」と。夫はずっと座ったままで妻にはわずかしか言葉を発しない。椅子の背後から見える靴を履いた彼の両足は床からかすかに離れ、身体のわずかな動きも不安定。文字通り“地に足が付かない”あり方が見てとれる。一方、妻はにこやかな優雅とすらいえる佇まいで、時折、手のやり所に注視させる動きはエロスさえ感じさせる。恋人は数回シモテから登場し、客席に向かってナレーションのように語る。ここへ向かっているバスが途中の事故で遅れている、電話したくともよりによって携帯の充電が切れていた等々。すると、先の電話音は? やがて、恋人が到着。恋人と夫の対話。互いに相手への好意を伝え合う二人。その間も、妻の亡霊は部屋のなかでやや大胆な動きを見せながら、さらに語り続ける。あなたは私が見えないふりをしているが、見えなくなることはない等々・・・。このあたりで、夫は初めて椅子から立ち上がり、もう一つの椅子に座る恋人の傍に寄り、その手を取る。そのまま、妻のホノカはシモテから普通に(幽霊然とではなく)出て行く。残った二人はそのままの姿勢で、暗転。
カーテンの揺れや点在する明かりの明滅、回転する羽根等々、進行につれて絶妙に変化するかすかな軋み音や雨音などと相俟って、非日常的な時間の現出を感じさせる。夫のもとへ死んだ妻の幽霊が現れたことを信じさせるに十分な効果だった。後半、カミテの小さな電球の側で、ロクロに置かれた石がぐるぐる回り始める。これを見て、ワーズワースのルーシー詩篇のひとつを思い出した。八行ほどの短詩だが、その後半で死んだルーシーをこう歌う――「いまや彼女はまったく動かないし、力もない/何も聞こえないし、見えもしない/地球の日々の運行のなかでぐるぐる回っている/岩や石や木々と一緒に」(『まどろみが私の精神を封印した』A Slumber Did My Spirit Seal)。3.11の津波で亡くなった人たちと大地に還り地球の自転と共にぐるぐる回るルーシーを重ね合わせていると、その妄想(まどろみ?)をあざ笑うかのように、ホノカの幽霊はぐるぐる回る石片を無造作に取り上げ、テーブルに載せてもてあそぶ。さらに、回り続けるロクロに朱い爪を当て、擦れる音を立てたりすることも。
役者はみなうまい。幽霊役の青柳いづみは奔放で妖艶な天使のようなおもむきをよく出していた。「覚えてる?」と語りかける声はいまも耳に残っている。夫役の吉田庸は4月に見た『南島俘虜記』で遠山二等兵をやった俳優らしい(こまばアゴラ劇場)。あのときは故国に残してきた娘を思い出し、涙ぐむような役だったが、今回はまったく違う。ほとんど後ろ向きに座っての演技。ときどき言葉単位で早口になるが、声がいい。恋人役の安藤真理は地味で堅実な役柄をよく理解し、超越的な存在(幽霊)とのコントラストを際立たせた。
3.11という災厄がもたらした再生への希望を、生きている夫(男)ではなく、死んだ妻(女)に語らせるのは、リアルで説得的。誰もが抱いたはずの希望も生きていくなかで次第に色褪せていく。だが、その希望を抱いた直後に死んだ者なら、逆説的だが再生への希望をいきいきと語ることができるはずだから。一方で、作者の率直な思いを、作者から遠い存在(死者/女)に語らせざるをえなかったことは、この間(3.11から現在まで)に本人が経験した苦境を告げているともいえる。『現在地』と『地面と床』(2013)に本作を加え、3.11が生んだ三部作といえそうだ)。どれも素晴らしい舞台だった。連続で観てみたい気もする。
舞台のゆったりした時間は能のようだった。ベケットのテレビ作品『ねえジョウ』(1966)に基づいた『ネエアンタ』も想起。ただ、上演中の二度の大きな落下音は残念。じっくりと耳を澄まして舞台を観るという行為が、いま、難しくなっている人たちが少なくないようだ。
本作は7月7日〜8日に仙台で上演するらしい。被災した土地の人々はどんな反応を示すのだろう。