平田オリザ作・演出 アンドロイド版『変身』早稲田小劇場どらま館

7ヶ月ぶりに平田オリザのアンドロイド版『変身』を観た(5月9日 15:00/早稲田小劇場どらま館)。
昨秋、城崎国際アートセンターで稽古を重ねKAATで初演された本作は、ハンガリーとフランスでの公演を経て戻ってきた。再建された「早稲田小劇場どらま館」のこけら落としとして。どらま館のキャパは72席。4列しかない横長の客席から手が届くほどの舞台空間だ。そのせいかKAATの舞台(青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト アンドロイド版『変身』 - 劇場文化のフィールドワーク)とは印象がかなり違った。

青年団国際演劇交流プロジェクト2015
青年団大阪大学ロボット演劇プロジェクト アンドロイド版『変身』
原作:フランツ・カフカ
作・演出:平田オリザ
アンドロイド開発:石黒 浩(大阪大学ATR石黒浩特別研究所)
翻訳:マチュー・カペル 小柏裕俊
2015年5月7日(木)-5月10日(日) 5ステージ
会場:早稲田小劇場どらま館

出演
グレゴワール・ザムザ:アンドロイド「リプリーS1」
父:ジェローム・キルシャー
母:イレーヌ・ジャコブカンヌ映画祭女優賞『ふたりのベロニカ』1991]
グレタ(ザムザの妹):レティシア・スピガレリ
ニコラ・ダルモン(下宿人):ティエリー・ヴュ・フー
アンドロイドの声:ティエリー・ヴュ・フー

スタッフ
舞台監督:中西隆雄 播間愛子  
舞台美術:杉山 至
照明・字幕:西本 彩
音響:泉田雄太
衣裳:カール=アンドレ・ティリオ
ロボット側ディレクター:力石武信(東京藝術大学・アートイノベーションセンター/大阪大学石黒浩研究室)
通訳:原真理子
制作:西山葉子 

音響協力:富士通テン(株)
企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場大阪大学ATR石黒浩特別研究所
エグゼクティブ・プロデューサー:ノルマンディの秋芸術祭
共同制作:臺北藝術節、テアトル・ドゥ・フドル オートノルマンディ国立演劇センター、Le TAPテアトル・オーディトリアム ポワチエ国立舞台、エスパス・ジャン・ルジョンドル コンピエーニュ国立舞台
主催:早稲田大学
協力:城崎国際アートセンター

初演時は、「機械がむき出しになったスケルトン型のアンドロイド」とフランス人俳優たちとのやりとりに目を奪われ、字幕を通した上演という媒介性も手伝って、戦争や移民や失業の問題は後景に押しやられた印象だった。だが今回、特に移民の問題は(もちろん戦争とリンクしている)がかなり強く響いてきた。役者のトーンが昨秋より激しい。そう感じる。おそらくフランスでのツアーを経たからに違いない。彼の地では移民問題は切実な現実問題である。字幕を必要としない観客の生な反応が役者の身体にフィードバックされ、おのずと役を生きる強度が高まったのだろう。中東系フランス人(名前からするとベトナム?)とおぼしきティエリー・ヴュ・フーが演じる下宿人に突然「出て行ってくれ」と言い放つジェローム・キルシャーの語気や、それをたしなめるイレーヌ・ジャコブの切迫感にも、フーの当惑同様、そうしたフィードバックの名残がはっきりと刻印されていた。

父   俺たちは、これ以上、移民も難民も受け入れられない。
下宿人 ☆あの、
母   ☆あなた、やめて、
父   申し訳ないが、
妹   お父さん、
下宿人 私はフランス人ですよ。
父   分かってるよ。
下宿人 祖父がこの国に来たのは、五十年以上前です。
父   分かってる。
下宿人 父も母も、この国で生まれました。
母   すみません。主人は、いつもはこんなことを言う人じゃないんです。
下宿人 えぇ、
父   出て行ってくれないか、
[☆ 同じ数の台詞をほぼ同時に言う]

平田のテクストは、俳優たちの強度を得て、在日韓国・朝鮮人への〝ヘイトスピーチ〟問題まで鋭く照射した。KAATでは頭で理解しても身体に届くことはなかったように思う。
脳死と植物人間の違いをめぐる話は、初演時同様、興味深く聞い(字幕を読ん)た。アンドロイドに〝変身〟してしまったグレゴワールは言う、《僕は、グレゴワール・ザムザです。フランス人です。フランスの「人間」ではありませんが。[・・・]父も母もフランス人です。[・・・]フランス製ではないかもしれませんが》。ラスト近くで、母が読みあげる宮澤賢治の詩『月天子』を聴いた後、グレゴワール(アンドロイド)が母に電源を切ってくれないかと頼むシーン。そして、月が見たいので窓を開けるよう妹(レティシア・スピガレリ)に頼む幕切れ。共になぜか初演時ほど感情が動かなかった。特に幕切れは暗転へと至る間合いが短すぎる印象。狭い空間に合わせて調整したのか。それとも舞台の近さから単にそう感じたのか。
役者を間近で見る喜び。イレーヌ・ジャコブのみならず、みなセクシー。アンドロイドとの対話は、今回も妙な間やかぶりがあったが、役者は初演時ほど気にかけていない感じ(母と息子の対話はスムーズだった)。グレゴワールの、だんだん自分が人間らしさを無くしていっているような気がする、感情もなくなっていくような気がして不安になる等々の台詞。それを、不安な気持ちになれるのは人間の証拠だ、と慰める母。平田オリザは、人間とロボットを分かつ臨界点を演劇(実験)的に探る。人間とは何か。感情は心はどこに〝在る〟のか。平田は、「感情」や「内面」をポジティヴに措定する安易な人間主義には手厳しい。手法が消去法的あるいは否定的にならざるをえないのはそのためだ。
平田の方法は、かつて柄谷行人が形式化の諸問題等を扱った手法に似ていなくもない。柄谷は、形式化を徹底させ自立的な世界(内部)の構築を目指すことにより、逆説(否定)的に自然や出来事や指示対象といった形式化しえない「外部」(社会)を照射しようとした。人間主義的な安易さを斥け、「人間」の根拠(条件)をきわめて厳密なかたちで確かめようとしている点は、両者に共通しているかも知れない。