チェルフィッチュ『地面と床』/死者と生者、格差と戦争

チェルフィッチュの『地面と床』を観た(12月15日 14時/KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)。
先日F/Tで観た『現在地』は、3.11以降の日本の文脈では極めて selfish と見えたはずの行動やそこから派生した情念を見事に創作へ転化し昇華しえた舞台だった。もっとも「震災後」を扱うとはいえ、犠牲者への追悼や被災者の苦境に思いを馳せるいわゆる「絆」志向とは真逆の作り。そこに強い違和感を覚える向きもあるいはあったかも知れない。だが、そもそも、そうした selfishness への強烈な誠実さこそが Chelfitsch の独自なスタイルを生み出したのであり、それなしには海外で高く評価されることもなかっただろう。開演前、フライヤーやプログラムに記された「世界9都市国際共同製作作品」の文言をながめながら、そう思った。

作・演出:岡田利規
出演:山縣太一(由紀夫=次男)、矢沢 誠(由多加=長男)、佐々木幸子(さとみ)、安藤真理(美智子=由多加と由紀夫の母、幽霊)、青柳いづみ(遥=由多加の妻)
音楽:サンガツ
美術:二村周作
ドラマツゥルグ:バスチャン・ブロイ
衣装:池田木綿子(Luna Luz)
解剖学レクチャー:楠美奈生
舞台監督:鈴木康郎
照明:大平智己
音響:牛川紀政
映像:山田晋平
製作:Kunstenfestivaldesarts(ブリュッセル / ベルギー)
共同製作:
 Festivals d’Automne à Paris(パリ / フランス)
 Les Spectacles vivants – Centre Pompidou (パリ / フランス)
 HAU Hebbel am Ufer(ベルリン / ドイツ)
 La Bâtie – Festivals de Genève(ジュネーブ / スイス)
 KAAT神奈川芸術劇場(横浜)
 Kyoto Experiment(京都)
 De Internationale Keuze van de Rotterdamse Schouwburg(ロッテルダム / オランダ)
 Dublin Theatre Festival(ダブリン / アイルランド
 Théâtre Garonne(トゥールーズ / フランス)
 Onassis Culutural Center (アテネ / ギリシャ
レジデンシー・サポート:KAAT 神奈川芸術劇場、Kyoto Experiment
協力:急な坂スタジオ、フェスティバル/トーキョー
企画・制作:KAAT神奈川芸術劇場、precog
助成:平成25年度 文化庁 劇場・音楽堂等活性化事業
主催:KAAT神奈川芸術劇場(指定管理者:公益財団法人神奈川芸術文化財団)

厚みのある白木のような横長の板が舞台に設えられている。奥行きは2.5〜3mぐらいに見えるが横幅は長く、舞台の間口に少し及ばない程度。これはタイトルにある「床」なのか。床(板)の下手端は1mほど黒く塗られ、上手の端近くには円形の白い物体がある。シーリングライト(天井照明器具)を上向きに置いたような感じで、じっさい青色(またはピンク色)の光を発する。やがて墓(塚)であることが分かる。その端からさらに数10cm上手に大きめの姿見(鏡)が、床に立つ役者に面して立っている。床板中央部の奥から垂直の上方に、赤十字の標章を横長に拡大したような白い十字板が設置され、ここに英語と中国語の字幕が映し出される。ときに日本語も。床板や十字板の背後は、すべて闇に包まれている。
全六場。「そう遠くない未来の日本」の話。幽霊(死者)役の美智子(安藤真理)だけスリッパを履いている。なるほど、脱げないように歩けば〝すり足〟になり、亡霊を現出させる夢幻能を想起させる。生者役の他四人はみな素足。音楽の役割(音量)が従来より増したからか、役者はみなマイクを付けていた。『現在地』では軽減された、喋りながら身体を妙な具合に動かす例の身振りは、また戻ってきた。
交通誘導警備の反射チョッキのようなベスト(?)を着けバミューダを穿いた次男の由紀夫(山縣太一)はしばしば母美智子の墓(塚)に語りかける。やっと働き口が見つかったが、無職の間、特に兄(長男)嫁からの見下すような視線は屈辱だった等々。スリッパを履いた母の幽霊が、そんな次男の背中に頭をあずける。
中国人が日本の海岸に攻めてきた「厭な夢」の話を妻に語る長男の由多加(矢沢誠)。未来のあるお腹の子が日本で幸せになるイメージをもてない妻の遥(青柳いづみ)は、この国以外の土地へ移住する意思をもつ。長男は嫁に引っ張られて母を、墓を軽視している、と幽霊の母はいう。
オレンジ色のパンツに赤白の服を着たさとみ(佐々木幸子)は眼鏡をかけている。彼女は主に観客に向かい、日本語のマイナー性について、あるいは英語や英会話広告の強(脅)迫性について、まくし立てる。時折、遅い字幕を見やりながら。巧い。さらに自分の発語に追いつかない字幕に突っ込みを入れる。後に由多加とその妻の対話から、さとみは引きこもりであることが分かるが、舞台での在り方にそんな趣は微塵もない。道化のような衣裳といい、笑いを誘うコミック・リリーフ(comic relief)的な役割か。面白い。誰も笑い声を上げなかったが。
次男由紀夫が長男夫婦に金を返しに来る。両者の社会的な格差。卑屈にいじける次男は、決まった仕事が肉体労働だと自分で明かす。破壊された道路を直すというから復興工事か。二人の前で「みじめ」じゃなく「立派な仕事」と思いたい次男。片足立ちのまま他の部位を動かす山縣太一の身振りが半端でない。
墓(塚)の前にいる由紀夫を訪ねる遥。由紀夫の母(幽霊)もそこにいる。生まれてくるのが男の子だと分かっている遥は、その子が戦争に連れていかれて死ぬことを恐れている。戦争になったら兵士になって参加するのかと由紀夫に尋ねる遥。戦時に戦うのは、怪我をしないことばかり気にかける長男(のような人々)ではなく、次男(のような人々)。後者は前者の〝身代わり〟になって死ぬ。優しいから? 由紀夫はいう「嘘に決まってるだろ。別にお前たちの身代わりで行くわけじゃない。お前たちのことなんかどうでもいいんだよ」。母(死者)が眠っている地面に寄り添い、日本語で話しかける次男。これからもそうあるよう、ささやかな望みを抱く美智子(幽霊)。最後に美智子は、次男の初めて覚えた言葉が「ママ」つまり日本語ではなかったとアイロニカルに告げて終わる。
『地面と床』(初演 2013年5月)は、震災後『現在地』(2012年2月)を書きえたからこそ生まれた作品だと思う。
『現在地』では、津波で死んだ者たちや原発事故で苦しむ人たちよりも、まずは自分(の家族)を最優先に考える地点から発想されていた。作者個人の〝危機〟を形象化したうえで、初めて、死者たちが眠る地面に留まる者と、そこから離れる者の内実および両者の対立を、死者(幽霊)を交えて舞台化することが出来た。作者のポジショナリティは、この『地面と床』では、前作よりも相対化され、時間的にも心理的にも距離化されたといえるが、両作の基本的なスタンスは変わっていない。
たしかに職に就けない由紀夫の屈辱感やルサンチマンには、幽霊(死者)の存在感と共に、かなりリアリティがあった。だが、死者が埋葬された地面と地続きの土地(日本)で生きていく由紀夫(次男)の在り方に一番の力点が置かれているわけではない。むしろ、生きているが幽霊のような引きこもりにも、死んでいる人の幽霊にも、どちらにもつきまとわれたくないという遥(長男の妻)の方に、「わたしがまもりたい、まもらなければいけない優先順位、それをじゃましようと、この場所にわたしたちをどうにかしてとどまらせようとする、べっとりした力」に屈しないと決意している身重の遥の方に、作者の愛情がより注がれていることは明らかだ。最後に母の幽霊に語らせるアイロニーも、「この国ではないところにいく」遥へのベクトルを強化している。ただ、次男由紀夫や幽霊(さらに引きこもりのさとみや本質的には長男由多加も含めて)の「地面」派をきわめてリアルに造形しえた点に、前作『現在地』を経てきた成果(余裕)を読み取ることができる。原発事故後の日本の文脈に格差の問題や日本語の問題とりわけ中国との戦争を織り込んだのは、さすがである。現政権の改憲への動きや特定秘密保護法の成立等を目の当たりにした年だっただけに、KAATの舞台はいっそうリアルに見えた。