Dance New Air 2014 カンパニ―デラシネラ『赤い靴』/受容者の「予知」について

カンパニ―デラシネラ『赤い靴』の初日を観た(9月12日 19時/青山円形劇場)。

演出・出演:小野寺修二
出演:片桐はいり, Sophie Brech, 藤田桃子
美術:Nicolas Buffe
演出助手・通訳:保科由里子
演出助手・稽古場代役:傳川光留
テキスト:山口茜
照明:吉本有輝子
照明オペレーター:伊藤泰行
音響:井上直裕
音響オペレーター:池田野歩
衣装アドバイザー:堂本教子
衣裳アシスタント:及川千春
舞台監督:シロサキユウジ
演出部:岩谷ちなつ
制作協力:小野塚央

協力:株式会社スターダストプロモーション

円形の舞台と空間を活かした佳作。赤い靴をめぐり女三人と男一人(赤服だから黒衣ならぬ〝赤衣〟か)が動き、語る。ストーリーらしきものがありそうだが、よく分からない。帰宅後、アンデルセン童話の「赤いくつ」を読んでみて納得した。そうか、話のフレームはこの童話に依拠していた。もっとも、小野寺はかなり自由に解釈、翻案している。
原作は、貧しい少女カーレンが〝赤い靴〟に象徴される外面的な(みずからの)美しさにとらわれる。彼女は自身を美しく飾りたいとの欲望に打ち克てず、養育してくれた老婦人への恩義を蔑ろにする。あげく、その「靴」(欲望)を制御できなくなり、意志に反して踊り続ける赤い靴を、履いた足ごと切り取り、改悛し、最後は天使に救われる。きわめてキリスト教的な教訓譚だ。小野寺は、プログラムの短文どおり、「「赤い靴」を選ぶ人生、選ばない人生」の両方を舞台に乗せ、後者の、原作にはない選択に潜む「無意識的」な「怯え」や、ゆえに抑圧され「眠っていた(欲望の)種」に重点を置く。
舞台で藤田は問う、「大切なものはなんですか?」。片桐があたかもアドリブのようにリアルに応える、「目的?」「平和?」。Brechが力強く介入する、「Myself!」・・・。
片桐は、裸足の片足が地面から離れなくなり、足が自分の言うことを聞かない動きをじつに巧みにかつコミカルに見せた。あれは、コントロールが利かなくなった〝赤い靴〟だったのか。たしかに、少女が靴ごと両足を首切り役人に切り落とさせる事態は、とても「平和」とはいえまい。赤い靴を履いた人形に紐を付け、四人が四つ裂き刑のごとく引っ張り、赤服の小野寺が足を切り離した。あれは「赤い靴」を選ばない女の怯えを、その由来を形象化したものなのか。だが、もっとも印象に残ったのは、工員を思わせるお仕着せ姿の三人の女が机の前に座り、箱に入ったエナメルの赤い靴を検品するシーンだ。位置的に片桐の動きを注視したが、その細やかな手つきは、茶道で器を吟味するように、靴のヒールを持ってくるりと裏返し、丁寧に薄紙を巻いてまた箱に入れる。いわゆるダンス部分でも、女優片桐はいりの動きになんら遜色はない。Sophie Brechは体つきからバレリーナかと思ったが(脹ら脛の筋肉!)、本業は俳優らしい。どうりで台詞回しの強度が高い。藤田桃子の動きは相変わらず。
それにしても、原作があるなら読んでいくべきだった。そうすれば、もっと発見があったかも知れない。舞台との〝対話〟がより活発にできただろう。チラシやサイトでひとこと原作のアンデルセンに触れて欲しかった。日本には別の話もあるのだ(アンデルセン作は1845年、野口雨情の童謡は1922年)。
最近あれこれの舞台(特に演劇)を見ていて頻りに思うのは、かつて受容理論で用いられた「予知」や「期待の地平」といった概念のこと(ヤウスは演劇人ではなく文学者だが)。平たくいえば、受容者(観客)の予備知識だ。新しい作品はそれ自体では成立しない。受容者との共同作業によってはじめて完結する。しかも、両者間の交流の場(地平)には必ず「予知」や予備知識が重要な要素として介在する。創作者は、そうした「知」を利用して作品を創ることになる。だが、近頃は観客の「予知」やコンテクストを軽視したような〝高踏的〟作品が目に付く。『赤い靴』はその限りではないが、プログラムや広報の在り方に、アンデルセン童話ぐらいみな読んでいるだろうとの前提、もしくは社会的配慮の欠如を感じる。「Dance New Air 2014」のプログラムにダンサー紹介がない点も同様だ(ウェブサイトを見ろということか)。いずれにせよ、新作の場合、創作の材料を受容者が共有できれば、それだけ作品を深く享受しうる確率は高まるはず。
平田オリザは「演劇がいかに人を騙すか」という〝からくり〟を観客が周知した上での観劇を望んだ。「演劇とはすべての手の内をさらけ出したところから始まる芸術なのではないか」。この認識から社会に開かれた演劇の在り方を提唱し、「アートリテラシー」を唱えたのだ(『演劇入門』)。彼がその実例として挙げたのは、古代ギリシアの演劇祭だった。ついでにいえば、アリストテレスの『詩学』は演劇(悲劇)の仕組みをマニュアル的に分析したメモである。「いかなる能力の行使もそれ自体愉快なもの」(『ニコマコス倫理学』)と見做すこの哲学者は、劇の仕組みや構造を理解(認識能力のひとつ)すれば、劇から得られる喜びをいっそう高めることが出来ると信じていた(マルカム・ヒース)。そうだとすれば、先に触れた、受容者による創作材料の共有は、仕組みを含む作品理解に重要な手助けとなるだろう。舞台芸術の活性化を目指すなら、このような社会的(受容者的)視点は不可欠だと思われる。