細川俊夫 オペラ《二人静 ~海から来た少女~ 》演奏会形式(日本初演)+グスタフ・マーラー(コーティーズ 編曲)《大地の歌》2021

サントリーホール サマーフェスティバル 2021」初日を聴いた(8月22日 日曜 18:00/サントリーホール)。

指揮:マティアス・ピンチャー/アンサンブル・アンテルコンタンポラン/アンサンブルCMA

 難民の少女に静御前の霊が取憑く《二人静》と漢詩の翻案に基づく《大地の歌》。東洋と西洋の対話・融合を体感できる素晴らしいプログラム。以下、だらだらとメモする。

細川俊夫:オペラ《二人静 ~海から来た少女~ 》(2017) [日本初演]原作(日本語):平田オリザ 能『二人静』による(1幕1場/英語上演・日本語字幕付/演奏会形式)/ソプラノ:シェシュティン(カースティン)・アヴェモ /能声楽:青木涼子 

嵐を描くターナーの油彩を水墨画にしたような、そんな音楽だった。地中海から漂着した難民少女ヘレンに日本の静御前白拍子=舞手)の霊が取憑き、シズカの悲劇を少女が英語で歌う。二人の悲劇や悲しみが、いまここで重なり合うのだ。もちろん両者は時代も文化も内実も異なる。だが、難民少女の悲しみと、サムライ(義経)を愛した踊り子の嘆きが舞台でシンクロし、背後にある男たちの戦(争)が浮かび上がってくる。それにしても、室内オペラで9世紀前の日本の悲劇が、同時代の難民少女を介して表出するとは。さすが平田オリザ。なお、今回はソーシャル・ディスタンスを考慮した演出になるらしい。

白に近い生成りのコスチュームを身につけたカースティン・アヴェモ(ヘレン)は登場後、指揮者の手前ややシモテ寄りに横座りする。海、波の音、風、嵐…。オケが緊迫した響きを次々に生成させると、アヴェモは立ち上がり「Where do I come from? 」「Where am I going?」と呆然自失の問いを発した後、ヘレンは陸にたどり着いた経緯を歌い語る。特に手を繋いでいたはずの幼い弟を失った条りから、終戦前の悲惨な空襲の手記を思い出した。…やがて生成りの装束を纏う青木涼子(シズカ)がカミテから摺り足で登場。ヘレンが誰何 Who is there? すると、指揮者手前のカミテ寄りでシズカは「きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ」とアルトより低めの声で吟ずる。百人一首で馴染みのある和歌がこの文脈で聴けると、なんか嬉しい(光孝天皇古今集)。春に雪が降る? 春は正月のこと… 英語(時に日本語)での遣り取りが続く。I will enter you, and show you. あなたのなかに入って教えよう。ヘレンは両腕を胸の前で十字にクロスさせ Stop! Hang on! やめて! 待って! …水滴の音が効果的。憑依されたヘレン「Watashi wa shizuka…」その後、英語でシズカの悲劇を歌い、語る。かたき(頼朝)の前で舞った話など。アヴェモの鋭いハイトーンは強烈で、シズカの嘆きや恨みがホールに響き渡る。ヘレンとシズカは「しづやしづ、しづの苧環(をだまき)、繰り返し、昔を今に、なすよしもがな」と謡い、青木がカミテで扇を使って舞う。ここでフルートとパーカッション、そしてバスクラリネットが和洋を融合した舞の音楽を奏する。とても印象的。…シズカ(霊)退場。少女は初めの問いを繰り返す。即物的だったこの問いが、実存の不安に由来する(ゴーギャンの絵画を想起させる)問いに聞こえてくる。少しずつ弱まる響き。照明も。暗転。すべてが沈黙と闇のなかに消失する。

出演者はみな極めて質が高い。アヴェモのハイトーンには、少女のイノセンスと、身に受けた不正を全身で訴える〝魂の(と言いたい)叫び〟が同時に聴き取れる。健気な立ち姿も好い。能楽の青木は、日本の伝統芸能西洋音楽に違和感なく融合させる稀少なアーティストだ。このふたりは身長や年格好がほぼ同じに見え、「二人静」にぴったりだった。指揮のマティアス・ピンチャーは、今フェスティバルのテーマ作曲家でもあるが、スコアへの深い理解が感じられた。オケのクオリティーは言わずもがなだ。カーテンコールでは細川俊夫氏のみならず、平田オリザ氏も登壇した。東京に来てたのか。

グスタフ・マーラー/コーティーズ 編曲:《大地の歌》(声楽と室内オーケストラ用編曲)(1908~09/2006)ピンチャーによるオリジナル編成/メゾ・ソプラノ:藤村実穂子テノールベンヤミン・ブルンス 

 素晴らしい歌唱、演奏。この曲は、大昔にメータ指揮のNYフィル+ブリギッテ・ファスベンダー&ジョン・ヴィッカーズをエイヴリー・フィッシャー・ホールで聴いたはずだが、ほとんど覚えていない。その後もマーラーのシンフォニーはよく聴いたが、この作品だけはあまり好い印象がなかった。それが、こんな素晴らしい音楽だったとは。フルオケでない分、インティメットに音楽の好さが伝わってきた。テノール(カミテ)とメゾ・ソプラノ(シモテ)は六つの楽章を交互に歌う。歌詞の内容は総じて「暗い dunkel」が、両歌手の歌唱の趣は対照的。テノールは快活かつ直情的(意識的だろう)、メゾは沈着で内省的。人間が有する二面性みたいだ。ベンヤミン・ブルンスの歌唱も見事だったが、藤村実穂子には第一声から引き込まれた。思わず落涙。藤村の深い歌唱には、言葉に注視させる力がある。とはいえドイツ語を聞き分ける力はなく、ただ字幕を読むだけだが。なかでも最終楽章は特筆に値する。

…「友は馬を下り別れの酒杯を差し出し、私に尋ねる『君はどこへ行くのか、なぜ行かねばならないのか』と」(以下すべてA. H. Meyer 等の英語版に基づく)…

この問いは、奇しくも《二人静》の冒頭および幕切れと響き合っていた。

…「友よ、私はこの世で幸せには恵まれなかった。どこへ行くのかと? 私は山のなかへ歩んで行くのだ」。「孤独なこころに安らぎを求めて。故郷へ、生まれた所へ。もう二度と見知らぬ土地をさすらうことはない。私はこころ穏やかにその時を待つのだ」。

死への想念を歌うフレーズには歌い方が穏やかなだけにグッときた。藤村の歌唱にはそれでいて揺るぎなさも感じる。が、さらに心を動かされたのはこの後だ。

「愛しい大地は春になると至る所で再び花を咲かせ、木々は緑に覆われる。至る所で、遙か彼方で、青く輝く、永遠に、永遠に」

最後にチェレスタの明るい上昇音階のなか藤村の「永遠に ewig」 の繰り返しが次第に遠ざかり、消えてゆく。まるで魂が上昇しながら大地(地球)を俯瞰で眺め*1、別れを告げているかのよう。

終曲後の長い沈黙。指揮者が手を下ろしたあとも、沈黙はさらに続く。痺れた。これほど舞台と客席の集中度が高いコンサートはいつ以来だろう。

すでに触れた通り、ブルンスと藤村の対照的な歌唱がとてもよかった。ブルンスは2017年BCJの《マタイ受難曲》でエヴァンゲリストを歌った。言葉の意味を噛みしめつつ見事に歌い語った記憶がある。昨年のN響BCJによる《ミサ・ソレムニス》で歌う予定が、残念ながらコロナでキャンセルとなった。

藤村が歌うときの立ち姿は、文字通り、揺るぎがない。変な話、身体を押しても彼女は倒れそうにない。この〝揺るぎなさ〟は歌唱のクオリティと相関している、そう思ってしまった。ところで、今回、彼女はブルンスが歌うとき椅子に座るのだが、毎回、薬かなにかを口に入れ、水を飲み、マスクを付けていた。徹底した感染予防だ。欧州等でこれだけ長く高いクオリティを維持するには、想像以上の努力や体調管理が必要なのだろう。

*1:大地(地球)を俯瞰で見るイメージは、ベートーヴェンヘーゲルヘルダーリン)と同年のウィリアム・ワーズワースのルーシー詩篇を想起させる。「…いまや彼女はまったく動かないし力もない No motion has she now, no force; /聞こえもしないし見えもしない She neither hears nor sees; /地球の日々の運行でぐるぐる回っているRolled round in earth's diurnal course, /岩や石や木々と共に With rocks, and stones, and trees. 」埋葬された「彼女」が地球(大地)の自転で自然物と一緒に回転している心象だ。もっとも、死の主体は「彼女」で、マーラー漢詩の翻案)のように「私」(本人)ではない。が、ワーズワースは「自分自身の死について、いわば、自身の墓の向こうから語りうる数少ない詩人のひとりであり、本詩の「彼女」は、実際、ワーズワースをも包含するに足るだけの大きさを備えている」との解釈もある(ポール・ド・マン)。もしそうなら、この連想はさほど見当違いではないかもしれない。