新国立劇場バレエ『眠れる森の美女』2021【訂正・追記】

『眠れる森の美女』の初日と2日目ソワレを観た(20日 土 14:00,21日 日 18:30/新国立劇場オペラハウス)。2日目マチネは取れず(宣言下の座席制限50%でB席以下の販売は僅かだった模様)。

当初予定の〈吉田都セレクション〉『ファイヴ・タンゴ』 [新制作] /『A Million Kisses to my Skin』 [新制作] / 『テーマとヴァリエーション』は「新型コロナウイルス感染症に係る現下の情勢に鑑み、一部作品の公演準備を万全の状態で進めることが困難と判断」(劇場HP)され、本演目に差し替えられた。

振付:ウエイン・イーグリング(マリウス・プティパ原振付による)/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術:川口直次/衣裳:トゥール・ヴァン・シャイク/照明:沢田祐二/指揮:冨田実里/管弦楽:東京交響楽団

イーグリング版の初演は2014年で大原新監督のオープニング。2017年に再演しているから、今回が三回目【四回目】となる【2018年6月の公演を失念していた】。
初日の小野絢子は、芸術監督から受けた指導や言葉をこの舞台に活かそうと必死で踊った。その懸命さと覚悟が痛いほど感じられた。他方、2日目ソワレの米沢唯は、観客からの熱い視線や波動を全身で受け止めつつ、役を生きることに集中し、伸びやかに踊った。そこには舞台に立つ喜びが漲っていた。

思えば六週間前「ニューイヤー・バレエ」が中止となり、急遽、バレエ団は無観客のライブ配信を敢行した。観客不在の舞台で踊った経験がよい影響を与えたのかもしれない。

今回の舞台では、吉田都芸術監督の指導(視線)がすみずみまで行き渡っていると感じた。特に6人の妖精のヴァリエーション、リラの精たち、カヴァリエ等々。

「私たちは選ばれてバレエを踊っているわけではない。好きで踊っている」【NHKプロフェッショナル 仕事の流儀」2021.1.5 だったか】。吉田監督が告げたこの言葉を、ダンサーたちはインタビュー等で口々に繰り返していた【配信動画「新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』〜公演までの日々」等】。よほど響いたのだろう。監督の意図は明白だ。世界にはロシア(ソ連)のように祖父母の代まで体型をチェックされ、真の意味で「選ばれて」踊っているダンサーたちがいる。そうでない「私たち」はよほどの努力を重ねなければ勝負にもならないと。これは、自国のなかで「選ばれて」自足していたかもしれない新国立劇場のダンサーに、その地平を開き、世界のバレエ界と地続きにする、そんな狙いがあったのだろう。いわゆる意識改革だ。それが少しずつ効いてきたのか。以下、簡単に感想をメモする。

20日 オーロラ姫:小野絢子/デジレ王子:福岡雄大 

席は3階左バルコニー。東響はいつも聴く東フィルより音がデカいし、響きが分厚い。小野絢子は1幕より3幕が好いと思った。特にヴァリエーションでは、なぜか吉田都を通り越して森下洋子を彷彿とさせた(ライブは見てないが「きっちんもりした」でハンバーグステーキを食べた)。表現が細かく分節され、からだ全体で幸福感を作ろうとしている、そう感じた。ローズ・アダージョで小野が取り損ねて床に落ちたバラをロシアの王子(中家正博)がさりげなく拾い上げ、ベルトに挿した。

福岡雄大は第2幕の鹿狩りの場で、王子のあり方を遺憾なく発揮。伯爵夫人(寺田亜沙子)とのデュエットも王子の踊りだし、ソロも味わいのあるりっぱな踊り。後者のソロはデ・グリューの自己紹介のソロにそっくり。目覚めのPDDは、踊りはよかったが、イーグリングの振付はどうも…。『眠り』のクラシカルな様式に突然マクミラン的なスタイルが混入すると、生理的に気持ち悪い。意識的な様式の撹乱ならアートとして分かるけど、たぶんそうではないだろう。

カラボスの本島美和は大きく美しいマイムとシャープな踊りで魅せた。リラの精の木村優里はしっかりした踊りだが、もっとgoodnessが欲しいと思わせる。親指トムの井澤諒が晴朗な踊りを見せたのはなんか嬉しい。式典長(菅野英男)の演技はあれでよいのか。特にカラボスから帽子や髪の毛をむしられた時の反応と、王の命に背き針で編み物をしてる女たちを見つけたときの叱り方。前者はもっとユーモアが欲しいし、後者はもっと厳しく。

国王の貝川鐵夫ははまり役でカッコイイ。王に見える。第3幕のアダージョオーボエが出遅れた。アポテオーズのオケは迫力満点。

21日ソワレ オーロラ姫:米沢 唯/デジレ王子:渡邊峻郁

席は15列の中央ブロック。やはり正面だと全体がよく見える。ローズ・アダージョのオーロラ(米沢唯)は16歳のあり方と踊り(13歳のジュリエットみたい)。王子らの手を一人ずつ取っていくシークエンスで始めは目を合わさずに進むが、最後のイタリアの王子(浜崎恵二郞)とだけ目が合い、恥じらうオーロラと喜ぶ王子。一人ずつ手を介してバランスを取るときもバラをもらって回転するときも、すべて役のなかで踊る。客席とステージとで交わされるエネルギーが指揮者(冨田)を介してオケに伝わり、音楽の高揚を見事に築いた。ロシアの王子(中家)に踊ってくださいと促され、両親の方を見て許可を得てから踊り始める。踊りながら時々母親の方を見ると、母は大丈夫よと頷く。仮面舞踏会でのジュリエットを思わせるやりとりだ(マクミラン版『ロミ&ジュリ』)。こうした娘(米沢)の視線が王妃(関晶帆)を母にした。

渡邊王子は演技も踊りもやや軽め。伯爵夫人との踊りも、あとのソロも様式性がほしい。幻影の場は少し暗すぎる。姫とリラの精と王子のトロワは、初日も集中しずらかったが、この日も同じ。たぶんチェロのソロが重いというのか、自意識が強すぎる印象。目覚めのパ・ド・ドゥで米沢のラインがきれい。王子はやはり軽い。この振付は、上記の通り、様式が古典作品に不釣り合いだし、音楽のヴァイオリンソロと合ってる気がしない(ニキティンのソロは例によってヴィルトゥオーソ風)。ここも照明が暗すぎ。

第3幕のアダージョ。米沢オーロラの気品ある踊り。フィッシュダイブでは王子の線が細いぶん心配したが、問題なし。音楽の高まりに見合う素晴らしいパ・ド・ドゥ。渡邊のヴァリエーションはジャンプも高いし、踊りも丁寧。リハーサルの充実を窺わせる。が、どこか踊りが平面的な印象も(やはり様式性の問題か)。米沢のヴァリエーションは、精神のあり方を大事に踊ったように見えた。きらきらと…。リラの精の木村優里は、初日とは違って見えた。悪くない(彼女は精神の構えが変わればずっと好くなる)。ゴールドの速水渉悟は重みのある柔らかな踊り。彼が王子を踊るのは時間の問題。芸監はカンパニーの秩序を考えているのだろう。その日が楽しみだ。終幕後、何回目かのカーテンコールでスタンディング・オベイションに。ステージも客席も無観客配信の経験が、この舞台をより特別なものにしたのだろう。

 確かにパンデミックは日本のアーティストを育てている。冨田実里は以前よりよくなった印象。音楽に適度な荒々しさが出てきたし、舞台上の〝いまここ〟で立ち上がるドラマに応じて、熱や気をオケに伝えるようになった。そう感じた。やはり「場数が物を言う」ということか。

バレエを見るのは5月の『コッペリア』までおあずけだ。が、その前に、明日、埼玉の入間市で米沢唯の即興ダンスや島地保武とのコラボがある。楽しみ。

新国立劇場 オペラ《フィガロの結婚》2021

フィガロの結婚》の初日を観た(2月7日 日曜 14:00/新国立劇場オペラ)。

このプロダクション初演は2003年。忘れもしない、トーマス・ノヴォラツスキー新芸術監督のオープニングだった。同時にプルミエ会員になったからよく覚えている。印象深いのは、何といってもケルビーノ役のエレーナ・ツィトコーワだ。思春期の自己撞着的な恋心(火のような氷、高鳴る胸の苦しみ…)を見事に歌いきり、大喝采を浴びて戸惑うさまが、まさに、自分で自分が分からない無意識の少年ケルビーノだった。このとき以来、ホモキ演出の舞台は何度も再演を重ね、今回で7回目。いずれも見てきたが、時として、〝何もない空間〟に少し飽き飽きすることもあった。だが今回、久し振り(4年ぶり)に見てみると、悪くないというか、新鮮に感じた。

1786年 初演/全4幕 イタリア語上演/日本語及び英語字幕付/原作:ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ(1732-99)戯曲『フィガロの結婚』1778/台本:ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749-1838)/作曲:ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(1756-91)

指揮:沼尻竜典エヴェリーノ・ピドが降板を申し出たため)演出:アンドレアス・ホモキ/美術:フランク・フィリップ・シュレスマン/衣裳:メヒトヒルト・ザイペル/照明:フランク・エヴァン/再演演出: 三浦安

アルマヴィーヴァ伯爵:ヴィート・プリアンテ(早めのビザ取得で来日)/伯爵夫人:大隅智佳子(セレーナ・ガンベローニが12/28の入国制限変更により来日不可のため)/フィガロ:ダリオ・ソラーリ(フィリッポ・モラーチェが同理由で来日不可のため《トスカ》に出演のソラーリが急遽代役)/スザンナ:臼木あい/ケルビーノ:脇園 彩/マルチェッリーナ:竹本節子/バルトロ:妻屋秀和/バジリオ:青地英幸/ドン・クルツィオ:糸賀修平/アントーニオ:大久保光哉/バルバリーナ:吉原圭子/二人の娘:岩本麻里、小酒部晶子

合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団

 過去6回はすべて東フィルだったが、今回は東響が新国立のピットに入る(そこに元新日フィルの首席フルーティスト白尾彰の姿が見えた)。同オケの《フィガロ》といえば、近年では井上道義が振った野田秀樹版の「〜庭師は見た」(2015)や音楽監督ジョナサン・ノットが指揮したコンサート形式(2018)で演奏済み。少し前だと、ニコラ・ルイゾッティが振ったサントリーの〝ホールオペラ〟で《フィガロ》を含むモーツァルトの三オペラをやっていた(2008)。いずれもモーツァルトらしいドライで推進力があった印象だ。以下、メモを簡単に記す。

白一色の〝何もない空間〟が舞台で宙に浮かんでいる感じ。この空間が、第1幕ではフィガロとスザンナの新居に、第2幕では白い衣裳箪笥が運び込まれて伯爵夫人の居間に、第3幕は婚礼の祝いを整えた大広間に、終幕では夜のあずまやに、それぞれ見立てられる。「非歴史的な空間」にすることで「普遍的な問題を描」こうとしたようだ(ホモキ「Production Note」)。この空間(部屋)は、進行と共に少しずつ傾き、崩れ、やがて裂開する。モノトーンの衣裳は「様式化された歴史的」なものだが、次第に剥ぎ取られ、終幕では白い下着姿に近づく。いずれも、領主権に象徴される封建的な貴族社会が崩壊する(召使いが主人を/女性が男性をやっつける)さまを表すためだ。

序曲が始まると、引越し用の白いダンボール箱が黒子(召使い?)によって奥から〝部屋〟のなかへ積み上げられる。箱には LONDON, VIENNA,  トウキョウ等の地名が見える。序曲の演奏はいまひとつ。フィガロ役のソラーリは《トスカ》のスカルピアより合っていると感じた。ブッファの軽さがもっと欲しい気もするが、悪くない。その許嫁スザンナ役の臼木の声は少しキャンキャン聞こえるのは残念(第4幕のアリア「早くおいでよ」ではそうならずに聴かせた)。

ケルビーノの脇園が登場すると一気に空気が変わり、舞台が活性化した。存在自体にエネルギーが感じられ、最初のアリアも〝わけの分からない〟感じがよく出ていた(指揮者はテンポをもっと速くとってもよい)。第2幕のアリエッタ「恋とはどんなものか」はクラリネットの前奏だけでわくわくする。脇園の歌唱はズボン役の艶もあり、気に入った。伯爵(プリアンテ)の来訪にスザンナが慌ててケルビーノを隠すのは、従来は段ボールのなか。が、今回は感染防止のためか、ケルビーノは積み上げられた箱の陰にあちこち移動した。脇園のエネルギッシュな身軽さは、見ているだけでも楽しい(本当はもっと聴きたいがこの役はあまり歌わない)。

見つかったケルビーノが伯爵に軍隊行きを命じられ、フィガロがアリア「もう飛ぶまいぞ」を歌う。ソラーリの歌唱はしっかりと鳴り響いた。このとき黒服を着た召使いの男らがモップを銃に見立て、ケルビーノを銃殺するしぐさで悪ふざけ。ゴヤの絵のパロディだろう(向きは反対だ)が、同時に、二週間前の《トスカ》の悲劇的な銃殺シーンを想起させた(後者のカヴァラドッシ銃殺を命じた悪役が、いまはフィガロ役でこのアリアを歌っている!)。

第2幕の冒頭。伯爵夫人は、いきなりのカヴァティーナで姿を見せずに歌い始める。聴かせ所だけに歌手は大変。さすがに大隈は緊張のせいか少し伸びやかさが不足した。が、その後は尻上がりによくなり、第3幕のレチタティーヴォとアリア「スザンナは来ないかしら」は好かったと思う。

第3幕では、ケルビーノを挟んだ伯爵夫人とスザンナの三角関係的な暗示がもっと欲しい気もした。ただ、ケルビーノが女の衣裳を身につけるシーンは見応えがあり。脇園は、ズボン役の「性別越境的快楽」(室田尚子/プログラム)をしっかり意識していたと思う。伯爵夫人の部屋に伯爵が突然来訪し、慌てたケルビーノは衣装箪笥に身を隠す。夫人は不審顔の夫に、スザンナと一緒だったがもう部屋へ帰ったと嘘をつく。そのとき衣装箪笥のなかで物音が。これほど大きな音はちょっと記憶にない!(脇園の思い切りのよさ)。夫人はうろたえ、つい、なかにスザンナがいると苦し紛れ。二人の押し問答のさなか、スザンナが戻ってくる(このときもっと驚いてもよい)。スザンナは身を隠して二人を窺い、伯爵は狼狽する妻を不審に思い、夫人はあれこれ取り繕い…。秀逸な三重唱の始まりだ。ここで伯爵夫人が歌う上昇メロディは本当に美しい。大隈は最高音まできれいに歌いきった。この歌手は芝居もうまく、コミカルな味も出せる(面白がるタイプか)。伯爵のプリアンテは、歌唱・演技とも安定感が際立ち、今回の舞台を中心で支えた功労者だと思う。第3幕で伯爵夫人が偽の手紙をスザンナに口述する「そよ風」の二重唱はいまひとつ調和せず。

合唱は部屋のなかとその下とに分かれて歌った。第4幕のラストで伯爵は夫人ではなく客席に向かって跪いた。また、本作に頻出する男女のコンタクトは回避され、離れたかたちに修正された。これらはもちろん感染リスクを減らすための措置だろう。

そのラスト。伯爵は妻を疑ったことが間違いだった(必ずしもそうはいえないのだが)と知り、跪いて「コンテッサ、ペルドーノ」(公爵夫人よ、どうか許しておくれ)とアンダンテで歌い出し、コンテッサが「私は貴方より素直です。はいと申しましょう」と赦しの言葉を返す。すると、皆が「ああ、これでみんな/満足するだろう」と賛美歌のような美しいハーモニーを響かせた直後、テンポはアレグロ・アッサイとなり、

苦しみと気紛れと/狂気のこの日を、/ただ愛だけが満足と陽気さで/終わらせることができるのだ。

花嫁花婿よ、友人たちよ、さあ踊りに行こう、楽しく過ごそう。/爆竹に火をつけよう!/楽しい行進曲の音に合わせて、/みんなでお祝いをしに行こう!(戸口幸策訳)

と、一気に駆け抜けて幕となる。まさにタイトル通り「たわけた(狂気の)一日」(ラ・フォル・ジュルネ)に相応しい、血がたぎり胸が躍るような幕切れだ。が、舞台上はともかく、オケにいまひとつ熱が足りないと感じた(指揮者のあの振り方、あり方でオケメンバーのからだを変容させることができるのか…)。

第4幕のマルチェッリーナのアリア「牡山羊と牝山羊は仲がいい」は、この版ではいつも割愛されてきた。「男尊女卑の社会を憂えて歌う」アリアだが(田辺秀樹/プログラム)、失言や撤回が尾を引く〝時節柄〟ぜひ竹本節子に歌って欲しかった。

新日本フィル #630 定演 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉阪哲朗の渋さ

新日本フィル #630 定演 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉を聴いた(5日 金曜 19:15/すみだトリフォニーホール)。

指揮は「ドイツ国内における新型コロナウイルス感染状況と上岡(敏之)氏ご本人の渡航上の困難をふまえ(中略)出演見合わせの決定が」なされ、代わりに阪哲朗が務めた。これに伴い曲目も一部変更された。

昨年の9月初旬だったか、半年ぶりに再開した定演で団員がステージに登場すると拍手が起きた。それはこの日も変わらない。変わったのは、入ってきた団員が拍手のなか正面を向いて立っていたこと。時間差でコンマスが入ると拍手は強まり、彼がお辞儀をして全員が座るのだ。アーティストと聴衆が一堂に会し、生の音楽を共有する。当たり前だと見なされてきたそのことが、文字どおり〝有り難い〟いま、両者が互いにその〝有り難さ(感謝)〟を表明し合うのだ。なんかいいですね。(ただしアフタヌーン・シリーズ/ルビーでは、自分が居合わせた限り、団員たちが客席を向いて立ったままでもコンマスが登場するまで拍手は起きなかった。つまりコロナ禍以前と同じ。このシリーズの聴衆は終曲後の反応も相変わらず鈍いまま)。

阪哲朗といえば、2003年の新国立劇場オペラ《ホフマン物語》と05年の再演を思い出す。前者ではニコラウス/ミューズ役にエリナ・ガランチャ、アントニア役にアンネッタ・ダッシュが、後者ではホフマン役にあのフロリアン・フォークトが出演した(当時の芸監は元ウィーン国立歌劇場 制作部長のノヴォラツスキー)。あとはずっと間が空いて、山形交響楽団の「さくらんぼコンサート2019」で《ドン・ジョヴァンニ》、《コジ・ファン・トゥッテ》、《リゴレット》の名場面等を聴いたぐらいだ(共演は森麻季と大西宇宙)。今回はどうだったか。

この日のコンマスは崔文洙。以下、ごく簡単にメモする。

モーツァルト(1756-91):交響曲第13番 ヘ長調 K.112(1771)

 明るく快活な作品で、演奏もそう。期待が膨らむ。

J.シュトラウスⅡ(1825-99):ワルツ「芸術家の生涯」 op. 316(1867)

音が鳴った直後は、懐かしさが込み上げる。ヨハン・シュトラウスの魔力か。だが、次第に醒めてきた。ツボを外さぬウィンナーワルツだが、けっして酔わせることはない。どこまでも〝渋い〟のは指揮者の個性か。

R.シュトラウス(1864-1949):クラリネットファゴットのための二重協奏曲 TrV 293(1947)

クラリネット:重松希巳江(NJP首席クラリネット奏者)/ファゴット:河村幹子(NJP首席ファゴット奏者)

室内楽のような趣もあった。クラリネットファゴットはもとより、各弦楽器のトップらがアンサンブルやソロで聴かせるのだ。至る所でリヒャルト・シュトラウス節が顔を出す。音色もそう。絢爛ななかに甘さや切なさが感じられる。第三楽章は複数の人間がお喋りしている感じも。

ここで20分休憩。 

J.シュトラウスⅡ:ワルツ「南国のバラ」 op. 388

 シュトラウスのワルツを聴いていると、なにか郷愁に似た、甘酸っぱい感情に襲われる。が、一発のタンギングでその思いは削がれた。残念。

モーツァルト交響曲第38番 ニ長調 K. 504 「プラハ」(1786) 

同じ作曲家でも15歳の冒頭曲で感じた清澄さが、30歳の本作ではさほど聞き取れない。音楽に厚みが増したこともあるが、ヴァイオリン群などの透明感は共存して欲しい。指揮者の〝渋さ〟が効きすぎたのか。第3楽章で、《フィガロの結婚》第2幕の第15曲、スザンナとケルビーノのあわてふためく二重唱のテーマが出てくる。2日後に新国立劇場でこのオペラを見た。その意味では絶好のアペリティフだったが音色の〝渋さ〟ゆえか、さほど楽しめず。


アンコールは

ヨハンと弟ヨーゼフ(1827-70)との合作「ピツィカート・ポルカ」(1869)

久し振りのアンコールは嬉しいが、めくるめくような快楽は生まれなかった。日常からいまひとつ〝離陸〟できない。なぜなのか。あれこれ考えながら帰途につく。奏者のからだが変わらなければ、彼/彼女らが発する音も変わらない?  奏者のからだを変えるのは指揮者(幾分かは聴衆)のあり方しかないだろう。楽曲への深い理解や指揮のテクニックは当然として、他に何が物を言うのか。指揮者(のからだ)が発する〝気〟や熱量の問題? 

 

2月のフィールドワーク予定 2021/入国制限による出演者変更など【再追記】

1月7日に発令の緊急事態宣言で客席は再び50%以下に抑えられた(それ以前に売れた分は OK)。また12月28日に入国制限が変更され海外アーティスト(音楽家)の来日が再度不可能となり、今月も出演者の変更が相次いでいる。ただ 1月23日に開幕した新国立劇場オペラ《トスカ》の場合、早めに来日した海外アーティスト4名全員が、やる気全開の実演を見せた。一方、今月の《フィガロの結婚》は、下記の通り、一部来日が叶わず国内アーティストが代役を務める。タイトルロールは偶々《トスカ》で来日中のダリオ・ソラーリがそのまま残って歌うらしい。スカルピアより適役かもしれない。伯爵夫人に抜擢された大隅智佳子は、すでに昨年10月 オペラ《夏の夜の夢》でヘレナの代役を見事にこなしている。今回それとはまったく異なるコンテッサ役で見られるのは嬉しい。どんな歌唱と演技を披露してくれるのか。期待したい。

BCJの演奏会でも昨夏から日本人歌手が歌い続けている。今月の《ヨハネ受難曲》はどんな演奏になるのだろう。じっくり見守りたい。

ドイツ在住の新日本フィル音楽監督 上岡敏之は「ドイツ国内の感染状況」と「本人の渡航上の困難をふまえ」「出演見合わせの決定」が12月の段階でなされた。上岡氏の契約は今季限りだから、このままだと最後のシーズンに音楽監督がまったく振らないことになる。新国立劇場では欧州から歌手や指揮者が、読響では常任指揮者のドイツ人ヴァイグレが、【東響では音楽監督ジョナサン・ノットが、都響では桂冠指揮者のエリアフ・インバル】などが続々と来日している。そうした現状があるだけに、「本人の渡航上の困難」が何を意味するのか不明のため、サブスクライバーとしてはどうも釈然としない。

新国立劇場バレエ団は、ここ数年、海外のゲストダンサーに頼らない自前の上演を実現してきた。これはかつて芸術監督(2010-14)を務めたデイヴィッド・ビントリーの遺産といってよい。ただし、新制作の演目では海外からスタッフ(指導者等)を招聘する必要がある。そのため、当初「吉田都セレクション」と銘打つ新制作のトリプル・ビルを予定していたが、イーグリング版『眠れる森の美女』に差し替えられた。個人的には『くるみ割り人形』の二ヶ月後にまた苦手な版が続くと思うとちょっと…。木村・井澤組の回は座席 50%の影響かチケットが取れなかった(こちらの気合い不足か)。米沢唯が入間市の武蔵ホールで音楽家や島地保武とのコラボで踊る。待ち遠しい!

5日(金)19:15 新日本フィル #630 定演 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉モーツァルト交響曲第13番 ヘ長調 K.112/J.シュトラウスⅡ:ワルツ「芸術家の生涯」 op. 316/R.シュトラウスクラリネットファゴットのための二重協奏曲 TrV 293/J.シュトラウスⅡ:ワルツ「南国のバラ」 op. 388/モーツァルト交響曲第38番 ニ長調 K. 504 「プラハ」/指揮:阪 哲朗[「ドイツ国内における新型コロナウイルス感染状況と上岡(敏之)氏ご本人の渡航上の困難をふまえ(中略)出演見合わせ」(12/31 楽団 HP)のため指揮者変更。これに伴い二重協奏曲以外の曲目もすべて変更]クラリネット:重松希巳江(NJP首席クラリネット奏者)/ファゴット:河村幹子(NJP首席ファゴット奏者)@すみだトリフォニーホール

7日(日)14:00 新国立劇場オペラ《フィガロの結婚指揮:沼尻竜典エヴェリーノ・ピドが降板を申し出たため)/演出:アンドレアス・ホモキ/美術:フランク・フィリップ・シュレスマン/衣裳:メヒトヒルト・ザイペル/照明:フランク・エヴァン/[出演]アルマヴィーヴァ伯爵:ヴィート・プリアンテ(早めのビザ取得で来日できたらしい)/伯爵夫人:大隅智佳子(セレーナ・ガンベローニが12/28の入国制限変更により来日不可のため)/フィガロ:ダリオ・ソラーリフィリッポ・モラーチェが同理由で来日不可のため《トスカ》に出演のソラーリが急遽代役)/スザンナ:臼木あい/ケルビーノ:脇園 彩/マルチェッリーナ:竹本節子/バルトロ:妻屋秀和/バジリオ:青地英幸/ドン・クルツィオ:糸賀修平/アントーニオ:大久保光哉/バルバリーナ:吉原圭子/二人の娘:岩本麻里、小酒部晶子/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団 @新国立劇場オペラハウス

【11日(木・祝)田中一村展」/「常設 田中一村と千葉ゆかりの作家たち」/「プラチスラバ世界絵本原画展」@千葉市美術館】←追記

【14日(日)11:00 芸劇ウインド・オーケストラ・アカデミー 第7回演奏会 Stage.4 クラリネット四重奏/J-P.ラモー:ダンス組曲より/J.S.バッハ:イタリア協奏曲 第3楽章/W.A.モーツァルト:歌劇『魔笛』より/F.メンデルスゾーン:無言歌集第6巻 第2曲「失われた幻影」、劇音楽『夏の夜の夢』より「スケルツォ」/G.ジェイコブ:スケルツェット、パヴァーヌとゴパーク/P.ハーヴェイ:クラリネット四重奏のための「一楽章の幻想曲」/T.エスケシュ:クラリネット四重奏のための「超絶的タンゴ」/G.コネッソン:クラリネット四重奏のための「プレリュードとファンク」/トレーナー:アレッサンドロ・べヴェラリクラリネット 東京フィルハーモニー交響楽団首席奏者)/アカデミー生:近野千昌、設楽正義、吉川清香(クラリネット)@芸劇シアターイースト】←追記

【17日(水)「木下晋 初の自伝『いのちを刻む』 刊行記念展」@永井画廊】←追記

19日(金)19:00 BCJ #141 定演《ヨハネ受難曲》指揮:鈴木雅明エヴァンゲリストテノール):櫻田 亮(ジェイムズ・ギルクリストが入国制限変更により来日不可のため)/ソプラノ:松井亜希(ハナ・プラシコヴァが同理由で来日不可のため)/アルト:久保法之(ダミアン・ギヨンが同じく来日不可のため)/テノール谷口洋介/バス:加耒 徹(クリスティアン・イムラーが入国制限変更により来日不可のため)/合唱&管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパンサントリーホール

20日(土)14:00 新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』振付:ウエイン・イーグリング(マリウス・プティパ原振付による)/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術:川口直次/衣裳:トゥール・ヴァン・シャイク/照明:沢田祐二/指揮:冨田実里/管弦楽:東京交響楽団/[主演]オーロラ姫:小野絢子/デジレ王子:福岡雄大 @新国立劇場オペラハウス←当初予定の〈吉田都セレクション〉『ファイヴ・タンゴ』 [新制作] /『A Million Kisses to my Skin』 [新制作] / 『テーマとヴァリエーション』は「新型コロナウイルス感染症に係る現下の情勢に鑑み、一部作品の公演準備を万全の状態で進めることが困難と判断」(劇場HP)され、演目が差し替えられた

21日(日)18:30 新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』オーロラ姫:米沢 唯/デジレ王子:渡邊峻郁 @新国立劇場オペラハウス←同上

28日(日)14:00  「音楽×空間×ダンス」第二回公演/バッハ:無伴奏フルート パルティータよりCorrente/笠松泰洋「The garden in the South, or Solitude for piano」/木ノ脇道元「月は有明のひんがしのやまぎはに細くていづるほどいとあはれなり」「UKIFUNE」/ドビュッシー前奏曲より/シューベルト:三つのピアノ曲 D946より/即興演奏と即興ダンス/[出演]ダンス:米沢 唯/振付+ダンス:島地保武/作曲+フルート:木ノ脇道元/ピアノ:松木詩奈 @音の降りそそぐ武蔵ホール

 

新国立劇場バレエ団〈ニューイヤー・バレエ〉2021 ライブ無料配信/観客不在の意味

無観客の「ニューイヤー・バレエ」ライブ配信を見た(1月11日 14:00)。無料。画質の質がよくないのは、ライブ配信だから? それとも準備の時間がなかったせい? 高画質でないためか、ぐっと注視しずらい感じ。

指揮:冨田実里/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

 以下、ごく簡単にメモする。

第1部

『パキータ』音楽:レオン・ミンクス/振付:マリウス・プティパ/美術:川口直次/衣裳:大井昌子/照明:立田雄士/出演:米沢 唯、渡邊峻郁

『パキータ』は久し振り。前に見たのは何年前だろう。たしかヴィシニョーワとコルプが出ていたはずだが。西川さんの悔し涙も覚えてる(調べたらあれが2003年の新国立初演で、なんと18年前!)。米沢のオーラ。大きく丁寧な踊り。フェッテはトリプルを最後まで? すごい。渡邊は前よりよくなってる。プレッシャーのなかよく踊った。トロワの速水は別格の踊り。

第2部

『Contact』音楽:オーラヴル・アルナルズ/振付:木下嘉人/出演:小野絢子、木下嘉人

 コロナ禍でいかにコンタクトせずにコンタクトするかを追求したようなパ・ド・ドゥ。小野はとてもよい。相手が木下だからか。 それにしても作品として短すぎる印象。昨年8月大和市シリウスホールで米沢と木下が踊るのを観た。そのときは他にも何人か出演者がいて、もっと長かったような。気のせい?

『ソワレ・ド・バレエ』音楽:アレクサンドル・グラズノフ/振付:深川秀夫/出演:池田理沙子、中家正博

本作(1983)は新国立では2017年に「ヴァレンタイン・バレエ」で米沢・奥村が初演。今回は池田・中家。中家の主演を見るのは嬉しい。丁寧できれいな踊り。もっと思い切りよく踊ってもよいか。それには真ん中での場数がもっと必要。池田はいわゆる「カワイイ」から脱却しつつある。ただ、米沢・奥田組と比べるとテンポが遅く作品本来(?)の味わいが薄い気も。

『カンパネラ』音楽:フランツ・リスト/振付:貝川鐵夫/ピアノ演奏:山中惇史/出演:福岡雄大

福岡の気合いと力強さ。さすが。一方、生ピアノの気が足りない(ライブではミスタッチよりそっちが大事)。

第3部

ペンギン・カフェ音楽:サイモン・ジェフス/振付:デヴィッド・ビントリー/美術・衣裳:ヘイデン・グリフィン/照明:ジョン・B・リード/[出演]ペンギン:広瀬 碧/ユタのオオツノヒツジ:米沢 唯/テキサスのカンガルーネズミ:福田圭吾/豚鼻スカンクにつくノミ:五月女遥/ケープヤマシマウマ:奥村康祐/熱帯雨林の家族:本島美和、貝川鐵夫/ブラジルのウーリーモンキー:福岡雄大 

8年振りぐらいか。新国立では2010年に初演し、13年に再演した(そのメモ)。やはり素晴らしい作品。ケープヤマシマウマは、銃声なしでも、しっかり殺されてた。鳴らなかったのはアクシデント? ひとり残されるペンギンの佇まいなど、演出がやや甘めの印象。入国制限の変更でビントリーが来日できずやむをえないが。ぜひ完全なかたちで(客を入れて)再演して欲しい。

急遽ライブの無料配信を決行した劇場の英断は評価したい。客を入れての中継ならもっとよかったが。結果、無観客の舞台がいかに味気ないか、よく分かった。

舞台芸術は客席との相互作用なしには成立しない。演者のエネルギーが客席に伝わるだけなら、一方通行の映画と同じだ。が、舞台は、演者から受け取ったエネルギーに観客のエネルギーが加わり、それが舞台の演者へ跳ね返る。すると、その波動を受けた演者が変容し、その波動がさらに客席へ伝わって…、劇場内に波状的なうねりが生じる。

「演劇は、観客と俳優のあいだで絶えず行き来する精神的なエネルギーの交換によってこそ、命をもつ」(スタニスラフスキー

とか、

「演技は観客の息づかいにふれ、観客のからだにおいて成り立つ」(竹内敏晴)

とか、

「一人で芝居なんかできませんよ。お客さんがいるからできるんです。お客さんの波動が芝居をつくる。[中略]パフォーマンスを左右するのは観客である私なんです」(片桐はいり

というのは、すべて、この〝相互作用〟のことを言っているのではないか。

とすれば、今回の配信は、舞台芸術において、生身の演者(ダンサー、俳優、歌手等々)のみならず、生身の観客がいかに重要か、再確認させてくれた。

観客は、劇場へでかけて「何ものかを受信」してくるのではなく、「何ものかを共有」してくるのであり、「受信」の場合は、その伝えられる「何ものか」の内容によって、感動したりしなかったりであるが、「共有」の場合は、その伝えられる「何ものか」の内容に関わりなく、「共有した」という体験の中に、「演劇的感動」が含まれている、ということがある。(別役実

この「演劇的感動」は「劇場的感動」といいかえてもよいだろう(西洋語では同じ言葉だ)。

客が入った『ドン・キホーテ』や『くるみ割り人形』の配信は、この〝相互作用〟や〝波状的なうねり〟が生じたさまを、外から見たことになる。無観客の配信より「感動」は伝わるとしても、そこに参加することは叶わない。ゆえに、生の「劇場的感動」とは千里の径庭があるというべきだ。

新国立劇場オペラ《トスカ》初日 2021/苦手演目だが【追記】

《トスカ》の初日を観た(1月23日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

 全3幕〈初演1900年/イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉

作曲:ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)/台本:ジュゼッペ・ジャコーザ&ルイージ・イッリカ/原作:ヴィクトリアン・サルドゥーの戯曲『トスカ La Tosca』(1887)/指揮:ダニエレ・カッレガーリ/演出:アントネッロ・マダウ=ディアツ/美術:川口直次/衣裳:ピエール・ルチアーノ・カヴァッロッティ/照明:奥畑康夫

トスカ:キアーラ・イゾットン/カヴァラドッシ:フランチェスコ・メーリ/スカルピア:ダリオ・ソラーリ/アンジェロッティ:久保田真澄/スポレッタ:今尾 滋/シャルローネ:大塚博章/堂守:志村文彦/看守:細岡雅哉/羊飼い:渡邉早貴子

合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団

当プロダクションの初演は2000年で今回が8回目。初演は見逃し、2002年の2回目からはずっと見てきた(5回目/2012年公演の簡単なメモ)。が、どうも苦手な演目。第二幕の残忍で暴力的な悪趣味はちょっと堪えがたい。だが今回は、コロナ禍で世界のオペラ劇場が閉鎖するなか来日し、14日間の隔離を経て出演した二人のイタリア人歌手が素晴らしかった。冒頭から幕切れまでいっさい手を抜かない。お陰で〝イタオペ〟の神髄を多少なりとも味わえた。席は3階左バルコニー。以下、感想を簡単にメモする。

第一幕後半「テ・デウム」の人数がいつもより少なめ。感染リスクを避けるためだろう。オケと合唱もさほどの強奏ではなかったか。ここは、聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会を模したリアルな美術と音楽が相乗する絢爛豪華な場面である。だが、司祭や大勢の信者たちが荘厳に神を讃える一方で、警視総監スカルピア(ダリオ・ソラーリ)は残虐で好色な企みをほくそ笑みながら吐露するのだ。考えてみれば罰当たりな趣向ではある。

そのスカルピア男爵の残忍さが露わになる第二幕。彼は脱獄したアンジェロッティ(久保田真澄)の逃亡を助けた廉で逮捕した画家カヴァラドッシ(フランチェスコ・メーリ)を拷問させ、その呻き声を恋人のトスカ(キアーラ・イゾットン)に聞かせて、その居場所を彼女に吐かせる魂胆だ。卑劣極まりない! 愛する人の呻吟を耳にすれば、トスカでなくとも白状するだろう。あまつさえこの卑劣漢は、カラヴァドッシ処刑の回避と引き換えに、自分に身を任せるようトスカに要求するのだ。レイプ犯まがいのマゾ的嗜好を吐露しながら。この絶体絶命下で歌われるのが、あの「歌に生き、愛に生き」である。初めてこのオペラを見たときは驚嘆した。聞き慣れたあの綺麗なアリアが、まさかこんな醜悪極まりないシチュエーションで歌われるとは!

…これまで私は芸術(歌)に生き、愛に生きてきた。いつも揺るがぬ信仰で祈りを捧げ、貧しい人々には手を差し伸べてもきた。それなのに、主よ、なぜこんな報いが与えられるのか云々…。

だが、何度かこの場面を見るうち、このアリアはスカルピアの要求を受け入れるため、納得するために(納得など出来ないが)歌われるのかと思ったりした。いや、そもそも歌は、アウシュビッツを生き延びたフィリップ・ミュラーが『ショアー』で証言したように、危機においてこそ歌われるものなのかもしれない。

今回トスカ役のイゾットンは、第一幕から全開で迫力満点だったが、このアリアでは内にこもる抑えた歌唱で美しく聴かせた。トスカはスカルピアの要求を受け入れるが、条件として、二人が逃亡するさいの通行証を書くよう要請する。スカルピアが書き終わると、トスカは目に留まったテーブルのナイフで、迫る男を刺し殺す。この後の動きは見応え十分だ。トスカは死んだ男の手に握られた通行証をもぎ取る。続いて、文机の二本の蝋燭を手に取り、横たわる死体の両脇に置き、十字架を死者の胸の上に置く。突如、スネアドラムのロール音が響き、トスカと共にわれわれ観客もビクッとする! トスカは自分の赤いショールが死体の下敷きになっているのに気づき、怖ごわそれを引き出して立ち去るのだ。これら一連のトスカの動作には、アリアの歌詞と呼応した、彼女の信心深さや人の好さが滲み出ている。このアリアとト書きがなかったらこのオペラはとっくに消えていただろう。

第三幕、牢獄のカヴァラドッシは、自らの生がまもなく尽きる(処刑される)前にトスカへ手紙を書こうとする。「星は光りぬ」は、そのときの思いを歌ったアリアだ。

…星々は輝き、大地は香ばしかった、そんな夜、私は彼女を抱擁し、甘美な口づけを交わして… だが愛の夢は永遠に消え去ったのだ、私は絶望のうちに死んでいく、これほど生を愛しいと思ったことはなかった…

エミリ・ディキンスンではないが、それが存在しなくなると知って初めてその尊さや掛け替えのなさが分かるとは、なんとも人間は因果な生き物である。

そこにトスカが現れ、彼に事の次第を説明し、銃殺は空砲でかたちだけだと告げる。突然ひらけた未来への希望。二重唱。巧く倒れる演技をするよう何度も念を押すトスカ。だが、スカルピアの残忍さは死後も生きていた。銃殺は空砲ではなかったのだ。カヴァラドッシの死体に取りすがるトスカ。スカルピアを殺したトスカに追っ手が迫り、彼女は城壁から飛び降りて幕となる。逃亡していたアンジェロッティも自殺したから、主要な四人はみな死んだことになる。

トスカ役のキアーラ・イゾットンの強声は迫力満点だが、どこか古風な味わいを感じさせるソプラノだ。カヴァラドッシ役のフランチェスコ・メーリも、終始、気持ちの入った演技と歌で、緊急事態宣言下に集まった聴衆にイタリアオペラの快楽を味合わせてくれた。特に第3幕では「星は光りぬ」をはじめ、弱音から強音まで自在にコントロールした素晴らしい歌唱を聴かせた。イタリア人テノールにありがちな(?)これ見よがしに声を張り上げることはなく、慈しむように歌っていたのが印象的。メーリとイゾットンには(指揮のダニエレ・カッレガーリも)オペラを愛するイタリア人の誇りを感じた。スカルピアのダリオ・ソラーリは、オケが抑えたシークエンスではそれなりに強く響くが、オケの強奏場面では声が埋もれてしまう。歌声に密度がない分、残忍なスカルピアとしては少し物足りないが、力を尽くしてはいた【ソラーリは《トスカ》終了後も日本に残り、次作《フィガロの結婚》のタイトルロールを歌うらしい。入国制限の変更でフィリッポ・モラーチェが来日できなかったためだ。ソラーリモーツァルトの方が合っているかも】。

美術セットは実在の聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会や聖アンジェロ城などをリアルに再現していて見応えがある(この装置家は想像力を刺激するイマジナティヴな美術には向いていないらしく、バレエ『くるみ割り人形』や『眠れる森の美女』などは評価できない)。

カーテンコールで、メーリやイゾットンはピットや客席に手を振ってとても嬉しそう。久し振りの舞台だったのだろう。歌手も観客も、舞台芸術にしか味わえない格別の喜びを噛みしめていた。そう感じた。メーリが再演演出の田口道子を袖から呼んだ。イタリアの主要な劇場での経験が豊富らしい。彼女の存在はメーリら海外アーティストにはさぞ心強かったのだろう。

青年団 第84回公演『眠れない夜なんてない』2021 初日・5日目

『眠れない夜なんてない』の初日と5日目を観た(1月15日 19:00,19日 14:00/吉祥寺シアター)。初日の席は最前列で全体像が見えにくかった。受付では4列目のチケットを渡されたが、支援会員でない同行者の席が最前列で不安そうだったので交代したためだ(飛沫の問題はまったくなかったので念のため)。二回目は4列目の中央で見やすかった。

作・演出:平田オリザ[出演]猪股俊明(客演)羽場睦子(客演)山内健司 松田弘子 永井秀樹 たむらみずほ 小林智 島田曜蔵 能島瑞穂 井上三奈子 堀 夏子 村田牧子 井上みなみ 岩井由紀子 吉田 庸[スタッフ]舞台美術:杉山 至/舞台監督:中西隆雄 小川陽子/照明:井坂 浩/照明操作:西本 彩 高木里桜/音響:泉田雄太/音響操作:秋田雄治/衣裳:正金 彩/宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子/宣伝写真:佐藤孝仁/宣伝美術スタイリスト:山口友里/制作:太田久美子 赤刎千久子 金澤 昭

初日のアフタートークで、平田作品が好んで「日常」を描く話がフロアから出た。たしかに。もっとも今回の設定は「マレーシアの日本人向けリゾート地」だから、観客には必ずしも〝日常〟とはいえないが、そこで暮らす人々には日常だろう。その何気ない日常にじつは様々な非日常が、というか非日常への回路が隠されている。平田オリザは、一見すると平凡な日常会話が、それこそ「眠れない夜」に繋がりかねない非日常と表裏にあるさまを描くのだ。

入居者の千寿子(能島瑞穂)を日本から訪ねてきた友人の直枝(松田弘子)は、お土産に大量のチューインガムを千寿子に渡す。そこに隠された高校時代の二人の関係(後者による前者への陰湿ないじめ)はあとで顕在化する。入居者の磯崎賢一(猪股俊明)は一見ふつうの高齢者だが、後に、病気(たぶん癌)が見つかっていたことや、シベリア(抑留)帰りの過去が、娘二人の来訪により明らかになる。他にも短期入居者のカップル(島田曜蔵・井上みなみ)がじつは〝離婚旅行〟で来ていたこと、ビデオの配達人 原口充(吉田庸)の日本での「引きこもり」や彼と千寿子との意外な〝関係〟が、少しずつ分かってくる。ただし、平田作品の場合、そこから大きく展開して意外な結末に至ることはまずない。代わりに、歌がうたわれ(プチ カタルシス)、日常の向こうにかすかな希望(明日はみんなで日の出を見に行く)が示唆されて終わる。

[ちなみに、近年見る機会が増えたiaku(横山拓也)の場合、何気ない日常と、隣接する非日常やその後の展開が、リアルな時間性をこえて(あるいは時間性を攪乱して)、交互に、もしくはカットバックで舞台化される。ちょっとフォークナーの小説みたいだ。観る者はそこから何が得られるか。あっという驚きと認識の喜び、何気ない日常の不可知性、わからなさ等々。]

二回目の19日は2008年の初演舞台をビデオで見たうえで臨んだ。

セリフが重なるシークエンスやチューインガムの〝ラブシーン〟など、全体的に初日よりスムーズ。後者のシーンで、ソファーに座っていた千寿子(能島)は、いったん風船を大きく膨らませたあと少し小さく萎ませ、テーブルを隔てた反対側のスツールに座る原口(吉田)の膨らんだガム風船に、身を乗り出して近づく。なんともいえない緊迫感。このとき能島はテーブルのラジカセのボリュームを巧みに上げていた(初日は見えなかった)。が、けっして初演時のように風船を接触させない。コロナ禍ではリスクが大きいからだろう。ビデオでは男が女のガムを吸引するが、今回の台本では「千寿子がすべて口に入れる」とあり、千寿子の〝積極性〟を強調する狙いだったのか(蜷川幸雄 演出の唐十郎 作『黒いチューリップ』で李麗仙と柄本明が同じチューインガムを口に含み、そのままどんどん離れていってガムを引き延ばしたシーンを思い出した)。その後、千寿子はガムにまつわる高校時代のいじめ被害を原口に話し、自分の時代にも登校拒否があればよかった、と。だから、直枝(松田)には絶対ここへ来させない、どこまで行っても日本が追いかけてくる、等々。

父(磯崎健一)の病気を知った娘 好江(たむらみずほ)と保奈美(岩井由紀子)が三橋明(山内健司)に、父の病気のことや日本に帰りたがらない理由について相談する。三橋は、たぶん日本が嫌いなんだと思う、と応じる。これは自分の話で磯崎さんの気持ちは分からない、としながらも、むしろ磯崎さんの方がそうかもしれない、一度、国に捨てられてますからね、と。シベリア帰りの磯崎は満州に住んでいた(日本は「国体護持」つまり天皇制さえ維持できれば、日本軍兵士や満州居留民らを労働力としてソ連に提供することもやむなしと考えていた)。こうしたやりとりが、昭和が終焉しようとする1988年12月に設定された舞台で展開されるのだ。

ところで三橋は還暦(つまり終戦時は17歳)の設定で、演じた山内は58歳ぐらいだからこの配役に計算上は問題ない。初演版(2008年)は時代設定が異なるものの、三橋を演じた篠塚祥司は当時64歳。ビデオを通してだが、戦時を語るに十分耐える身体性と見えた。これは、たぶん絶対年齢というより、観る者との相対的な年齢差に関わるのだろう。私は劇中の沼田勇人(島田曜蔵)同様、「怪傑ハリマオ」のジャスト世代だ。幼いころ三橋と同年の母親に風呂敷を頭に巻いてもらい「ま〜っかな太陽、燃えている〜」と唄いながら近所を走り回っていた。そのせいか、戦争を語る山内の、巧みではあるがコミカルに傾きがちな発話に少し違和感を覚えた。おそらく、より若い世代の観客には特に問題ないだろうし、彼の軽妙さは歴史への啓蒙の意味ではむしろ好ましいのかもしれない。いずれにせよ、昭和が終わろうとしているとき、彼らは軍歌や「怪傑ハリマオ」を一緒に歌う(島田は声がいいし歌もうまい)。一方で、健一は、昔ばっかり思い出すくせに、戻りたいとは思わない、とも言うのだ。彼が発する「天皇より先に死なないよ、俺は」のセリフは初日より力強く響いた。日本の暗い過去を共有する健一と三橋のあうんの呼吸(共感)がよく効いている。

マレーシアの日本人向け保養地で交わされる日常的な対話から、昭和が終わろうとする日本での自粛のこと、ひきこもり(外こもり)やいじめの問題、戦争の過去などが、じんわりと浮かび上がってくる。久し振りに見るフルレングスの平田作品はやっぱり面白いし、見応えがあった。もっと東京での公演を増やしてほしいと思うのは自分だけではないはずだ。