青年団 第84回公演『眠れない夜なんてない』2021 初日・5日目

『眠れない夜なんてない』の初日と5日目を観た(1月15日 19:00,19日 14:00/吉祥寺シアター)。初日の席は最前列で全体像が見えにくかった。受付では4列目のチケットを渡されたが、支援会員でない同行者の席が最前列で不安そうだったので交代したためだ(飛沫の問題はまったくなかったので念のため)。二回目は4列目の中央で見やすかった。

作・演出:平田オリザ[出演]猪股俊明(客演)羽場睦子(客演)山内健司 松田弘子 永井秀樹 たむらみずほ 小林智 島田曜蔵 能島瑞穂 井上三奈子 堀 夏子 村田牧子 井上みなみ 岩井由紀子 吉田 庸[スタッフ]舞台美術:杉山 至/舞台監督:中西隆雄 小川陽子/照明:井坂 浩/照明操作:西本 彩 高木里桜/音響:泉田雄太/音響操作:秋田雄治/衣裳:正金 彩/宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子/宣伝写真:佐藤孝仁/宣伝美術スタイリスト:山口友里/制作:太田久美子 赤刎千久子 金澤 昭

初日のアフタートークで、平田作品が好んで「日常」を描く話がフロアから出た。たしかに。もっとも今回の設定は「マレーシアの日本人向けリゾート地」だから、観客には必ずしも〝日常〟とはいえないが、そこで暮らす人々には日常だろう。その何気ない日常にじつは様々な非日常が、というか非日常への回路が隠されている。平田オリザは、一見すると平凡な日常会話が、それこそ「眠れない夜」に繋がりかねない非日常と表裏にあるさまを描くのだ。

入居者の千寿子(能島瑞穂)を日本から訪ねてきた友人の直枝(松田弘子)は、お土産に大量のチューインガムを千寿子に渡す。そこに隠された高校時代の二人の関係(後者による前者への陰湿ないじめ)はあとで顕在化する。入居者の磯崎賢一(猪股俊明)は一見ふつうの高齢者だが、後に、病気(たぶん癌)が見つかっていたことや、シベリア(抑留)帰りの過去が、娘二人の来訪により明らかになる。他にも短期入居者のカップル(島田曜蔵・井上みなみ)がじつは〝離婚旅行〟で来ていたこと、ビデオの配達人 原口充(吉田庸)の日本での「引きこもり」や彼と千寿子との意外な〝関係〟が、少しずつ分かってくる。ただし、平田作品の場合、そこから大きく展開して意外な結末に至ることはまずない。代わりに、歌がうたわれ(プチ カタルシス)、日常の向こうにかすかな希望(明日はみんなで日の出を見に行く)が示唆されて終わる。

[ちなみに、近年見る機会が増えたiaku(横山拓也)の場合、何気ない日常と、隣接する非日常やその後の展開が、リアルな時間性をこえて(あるいは時間性を攪乱して)、交互に、もしくはカットバックで舞台化される。ちょっとフォークナーの小説みたいだ。観る者はそこから何が得られるか。あっという驚きと認識の喜び、何気ない日常の不可知性、わからなさ等々。]

二回目の19日は2008年の初演舞台をビデオで見たうえで臨んだ。

セリフが重なるシークエンスやチューインガムの〝ラブシーン〟など、全体的に初日よりスムーズ。後者のシーンで、ソファーに座っていた千寿子(能島)は、いったん風船を大きく膨らませたあと少し小さく萎ませ、テーブルを隔てた反対側のスツールに座る原口(吉田)の膨らんだガム風船に、身を乗り出して近づく。なんともいえない緊迫感。このとき能島はテーブルのラジカセのボリュームを巧みに上げていた(初日は見えなかった)。が、けっして初演時のように風船を接触させない。コロナ禍ではリスクが大きいからだろう。ビデオでは男が女のガムを吸引するが、今回の台本では「千寿子がすべて口に入れる」とあり、千寿子の〝積極性〟を強調する狙いだったのか(蜷川幸雄 演出の唐十郎 作『黒いチューリップ』で李麗仙と柄本明が同じチューインガムを口に含み、そのままどんどん離れていってガムを引き延ばしたシーンを思い出した)。その後、千寿子はガムにまつわる高校時代のいじめ被害を原口に話し、自分の時代にも登校拒否があればよかった、と。だから、直枝(松田)には絶対ここへ来させない、どこまで行っても日本が追いかけてくる、等々。

父(磯崎健一)の病気を知った娘 好江(たむらみずほ)と保奈美(岩井由紀子)が三橋明(山内健司)に、父の病気のことや日本に帰りたがらない理由について相談する。三橋は、たぶん日本が嫌いなんだと思う、と応じる。これは自分の話で磯崎さんの気持ちは分からない、としながらも、むしろ磯崎さんの方がそうかもしれない、一度、国に捨てられてますからね、と。シベリア帰りの磯崎は満州に住んでいた(日本は「国体護持」つまり天皇制さえ維持できれば、日本軍兵士や満州居留民らを労働力としてソ連に提供することもやむなしと考えていた)。こうしたやりとりが、昭和が終焉しようとする1988年12月に設定された舞台で展開されるのだ。

ところで三橋は還暦(つまり終戦時は17歳)の設定で、演じた山内は58歳ぐらいだからこの配役に計算上は問題ない。初演版(2008年)は時代設定が異なるものの、三橋を演じた篠塚祥司は当時64歳。ビデオを通してだが、戦時を語るに十分耐える身体性と見えた。これは、たぶん絶対年齢というより、観る者との相対的な年齢差に関わるのだろう。私は劇中の沼田勇人(島田曜蔵)同様、「怪傑ハリマオ」のジャスト世代だ。幼いころ三橋と同年の母親に風呂敷を頭に巻いてもらい「ま〜っかな太陽、燃えている〜」と唄いながら近所を走り回っていた。そのせいか、戦争を語る山内の、巧みではあるがコミカルに傾きがちな発話に少し違和感を覚えた。おそらく、より若い世代の観客には特に問題ないだろうし、彼の軽妙さは歴史への啓蒙の意味ではむしろ好ましいのかもしれない。いずれにせよ、昭和が終わろうとしているとき、彼らは軍歌や「怪傑ハリマオ」を一緒に歌う(島田は声がいいし歌もうまい)。一方で、健一は、昔ばっかり思い出すくせに、戻りたいとは思わない、とも言うのだ。彼が発する「天皇より先に死なないよ、俺は」のセリフは初日より力強く響いた。日本の暗い過去を共有する健一と三橋のあうんの呼吸(共感)がよく利いている。

マレーシアの日本人向け保養地で交わされる日常的な対話から、昭和が終わろうとする日本での自粛のこと、ひきこもり(外こもり)やいじめの問題、戦争の過去などが、じんわりと浮かび上がってくる。久し振りに見るフルレングスの平田作品はやっぱり面白いし、見応えがあった。もっと東京での公演を増やしてほしいと思うのは自分だけではないはずだ。