新国立劇場バレエ団〈ニューイヤー・バレエ〉2021 ライブ無料配信/観客不在の意味

無観客の「ニューイヤー・バレエ」ライブ配信を見た(1月11日 14:00)。無料。画質の質がよくないのは、ライブ配信だから? それとも準備の時間がなかったせい? 高画質でないためか、ぐっと注視しずらい感じ。

指揮:冨田実里/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

 以下、ごく簡単にメモする。

第1部

『パキータ』音楽:レオン・ミンクス/振付:マリウス・プティパ/美術:川口直次/衣裳:大井昌子/照明:立田雄士/出演:米沢 唯、渡邊峻郁

『パキータ』は久し振り。前に見たのは何年前だろう。たしかヴィシニョーワとコルプが出ていたはずだが。西川さんの悔し涙も覚えてる(調べたらあれが2003年の新国立初演で、なんと18年前!)。米沢のオーラ。大きく丁寧な踊り。フェッテはトリプルを最後まで? すごい。渡邊は前よりよくなってる。プレッシャーのなかよく踊った。トロワの速水は別格の踊り。

第2部

『Contact』音楽:オーラヴル・アルナルズ/振付:木下嘉人/出演:小野絢子、木下嘉人

 コロナ禍でいかにコンタクトせずにコンタクトするかを追求したようなパ・ド・ドゥ。小野はとてもよい。相手が木下だからか。 それにしても作品として短すぎる印象。昨年8月大和市シリウスホールで米沢と木下が踊るのを観た。そのときは他にも何人か出演者がいて、もっと長かったような。気のせい?

『ソワレ・ド・バレエ』音楽:アレクサンドル・グラズノフ/振付:深川秀夫/出演:池田理沙子、中家正博

本作(1983)は新国立では2017年に「ヴァレンタイン・バレエ」で米沢・奥村が初演。今回は池田・中家。中家の主演を見るのは嬉しい。丁寧できれいな踊り。もっと思い切りよく踊ってもよいか。それには真ん中での場数がもっと必要。池田はいわゆる「カワイイ」から脱却しつつある。ただ、米沢・奥田組と比べるとテンポが遅く作品本来(?)の味わいが薄い気も。

『カンパネラ』音楽:フランツ・リスト/振付:貝川鐵夫/ピアノ演奏:山中惇史/出演:福岡雄大

福岡の気合いと力強さ。さすが。一方、生ピアノの気が足りない(ライブではミスタッチよりそっちが大事)。

第3部

ペンギン・カフェ音楽:サイモン・ジェフス/振付:デヴィッド・ビントリー/美術・衣裳:ヘイデン・グリフィン/照明:ジョン・B・リード/[出演]ペンギン:広瀬 碧/ユタのオオツノヒツジ:米沢 唯/テキサスのカンガルーネズミ:福田圭吾/豚鼻スカンクにつくノミ:五月女遥/ケープヤマシマウマ:奥村康祐/熱帯雨林の家族:本島美和、貝川鐵夫/ブラジルのウーリーモンキー:福岡雄大 

8年振りぐらいか。新国立では2010年に初演し、13年に再演した(そのメモ)。やはり素晴らしい作品。ケープヤマシマウマは、銃声なしでも、しっかり殺されてた。鳴らなかったのはアクシデント? ひとり残されるペンギンの佇まいなど、演出がやや甘めの印象。入国制限の変更でビントリーが来日できずやむをえないが。ぜひ完全なかたちで(客を入れて)再演して欲しい。

急遽ライブの無料配信を決行した劇場の英断は評価したい。客を入れての中継ならもっとよかったが。結果、無観客の舞台がいかに味気ないか、よく分かった。

舞台芸術は客席との相互作用なしには成立しない。演者のエネルギーが客席に伝わるだけなら、一方通行の映画と同じだ。が、舞台は、演者から受け取ったエネルギーに観客のエネルギーが加わり、それが舞台の演者へ跳ね返る。すると、その波動を受けた演者が変容し、その波動がさらに客席へ伝わって…、劇場内に波状的なうねりが生じる。

「演劇は、観客と俳優のあいだで絶えず行き来する精神的なエネルギーの交換によってこそ、命をもつ」(スタニスラフスキー

とか、

「演技は観客の息づかいにふれ、観客のからだにおいて成り立つ」(竹内敏晴)

とか、

「一人で芝居なんかできませんよ。お客さんがいるからできるんです。お客さんの波動が芝居をつくる。[中略]パフォーマンスを左右するのは観客である私なんです」(片桐はいり

というのは、すべて、この〝相互作用〟のことを言っているのではないか。

とすれば、今回の配信は、舞台芸術において、生身の演者(ダンサー、俳優、歌手等々)のみならず、生身の観客がいかに重要か、再確認させてくれた。

観客は、劇場へでかけて「何ものかを受信」してくるのではなく、「何ものかを共有」してくるのであり、「受信」の場合は、その伝えられる「何ものか」の内容によって、感動したりしなかったりであるが、「共有」の場合は、その伝えられる「何ものか」の内容に関わりなく、「共有した」という体験の中に、「演劇的感動」が含まれている、ということがある。(別役実

この「演劇的感動」は「劇場的感動」といいかえてもよいだろう(西洋語では同じ言葉だ)。

客が入った『ドン・キホーテ』や『くるみ割り人形』の配信は、この〝相互作用〟や〝波状的なうねり〟が生じたさまを、外から見たことになる。無観客の配信より「感動」は伝わるとしても、そこに参加することは叶わない。ゆえに、生の「劇場的感動」とは千里の径庭があるというべきだ。