新国立劇場 オペラ《フィガロの結婚》2021

フィガロの結婚》の初日を観た(2月7日 日曜 14:00/新国立劇場オペラ)。

このプロダクション初演は2003年。忘れもしない、トーマス・ノヴォラツスキー新芸術監督のオープニングだった。同時にプルミエ会員になったからよく覚えている。印象深いのは、何といってもケルビーノ役のエレーナ・ツィトコーワだ。思春期の自己撞着的な恋心(火のような氷、高鳴る胸の苦しみ…)を見事に歌いきり、大喝采を浴びて戸惑うさまが、まさに、自分で自分が分からない無意識の少年ケルビーノだった。このとき以来、ホモキ演出の舞台は何度も再演を重ね、今回で7回目。いずれも見てきたが、時として、〝何もない空間〟に少し飽き飽きすることもあった。だが今回、久し振り(4年ぶり)に見てみると、悪くないというか、新鮮に感じた。

1786年 初演/全4幕 イタリア語上演/日本語及び英語字幕付/原作:ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ(1732-99)戯曲『フィガロの結婚』1778/台本:ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749-1838)/作曲:ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(1756-91)

指揮:沼尻竜典エヴェリーノ・ピドが降板を申し出たため)演出:アンドレアス・ホモキ/美術:フランク・フィリップ・シュレスマン/衣裳:メヒトヒルト・ザイペル/照明:フランク・エヴァン/再演演出: 三浦安

アルマヴィーヴァ伯爵:ヴィート・プリアンテ(早めのビザ取得で来日)/伯爵夫人:大隅智佳子(セレーナ・ガンベローニが12/28の入国制限変更により来日不可のため)/フィガロ:ダリオ・ソラーリ(フィリッポ・モラーチェが同理由で来日不可のため《トスカ》に出演のソラーリが急遽代役)/スザンナ:臼木あい/ケルビーノ:脇園 彩/マルチェッリーナ:竹本節子/バルトロ:妻屋秀和/バジリオ:青地英幸/ドン・クルツィオ:糸賀修平/アントーニオ:大久保光哉/バルバリーナ:吉原圭子/二人の娘:岩本麻里、小酒部晶子

合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団

 過去6回はすべて東フィルだったが、今回は東響が新国立のピットに入る(そこに元新日フィルの首席フルーティスト白尾彰の姿が見えた)。同オケの《フィガロ》といえば、近年では井上道義が振った野田秀樹版の「〜庭師は見た」(2015)や音楽監督ジョナサン・ノットが指揮したコンサート形式(2018)で演奏済み。少し前だと、ニコラ・ルイゾッティが振ったサントリーの〝ホールオペラ〟で《フィガロ》を含むモーツァルトの三オペラをやっていた(2008)。いずれもモーツァルトらしいドライで推進力があった印象だ。以下、メモを簡単に記す。

白一色の〝何もない空間〟が舞台で宙に浮かんでいる感じ。この空間が、第1幕ではフィガロとスザンナの新居に、第2幕では白い衣裳箪笥が運び込まれて伯爵夫人の居間に、第3幕は婚礼の祝いを整えた大広間に、終幕では夜のあずまやに、それぞれ見立てられる。「非歴史的な空間」にすることで「普遍的な問題を描」こうとしたようだ(ホモキ「Production Note」)。この空間(部屋)は、進行と共に少しずつ傾き、崩れ、やがて裂開する。モノトーンの衣裳は「様式化された歴史的」なものだが、次第に剥ぎ取られ、終幕では白い下着姿に近づく。いずれも、領主権に象徴される封建的な貴族社会が崩壊する(召使いが主人を/女性が男性をやっつける)さまを表すためだ。

序曲が始まると、引越し用の白いダンボール箱が黒子(召使い?)によって奥から〝部屋〟のなかへ積み上げられる。箱には LONDON, VIENNA,  トウキョウ等の地名が見える。序曲の演奏はいまひとつ。フィガロ役のソラーリは《トスカ》のスカルピアより合っていると感じた。ブッファの軽さがもっと欲しい気もするが、悪くない。その許嫁スザンナ役の臼木の声は少しキャンキャン聞こえるのは残念(第4幕のアリア「早くおいでよ」ではそうならずに聴かせた)。

ケルビーノの脇園が登場すると一気に空気が変わり、舞台が活性化した。存在自体にエネルギーが感じられ、最初のアリアも〝わけの分からない〟感じがよく出ていた(指揮者はテンポをもっと速くとってもよい)。第2幕のアリエッタ「恋とはどんなものか」はクラリネットの前奏だけでわくわくする。脇園の歌唱はズボン役の艶もあり、気に入った。伯爵(プリアンテ)の来訪にスザンナが慌ててケルビーノを隠すのは、従来は段ボールのなか。が、今回は感染防止のためか、ケルビーノは積み上げられた箱の陰にあちこち移動した。脇園のエネルギッシュな身軽さは、見ているだけでも楽しい(本当はもっと聴きたいがこの役はあまり歌わない)。

見つかったケルビーノが伯爵に軍隊行きを命じられ、フィガロがアリア「もう飛ぶまいぞ」を歌う。ソラーリの歌唱はしっかりと鳴り響いた。このとき黒服を着た召使いの男らがモップを銃に見立て、ケルビーノを銃殺するしぐさで悪ふざけ。ゴヤの絵のパロディだろう(向きは反対だ)が、同時に、二週間前の《トスカ》の悲劇的な銃殺シーンを想起させた(後者のカヴァラドッシ銃殺を命じた悪役が、いまはフィガロ役でこのアリアを歌っている!)。

第2幕の冒頭。伯爵夫人は、いきなりのカヴァティーナで姿を見せずに歌い始める。聴かせ所だけに歌手は大変。さすがに大隈は緊張のせいか少し伸びやかさが不足した。が、その後は尻上がりによくなり、第3幕のレチタティーヴォとアリア「スザンナは来ないかしら」は好かったと思う。

第3幕では、ケルビーノを挟んだ伯爵夫人とスザンナの三角関係的な暗示がもっと欲しい気もした。ただ、ケルビーノが女の衣裳を身につけるシーンは見応えがあり。脇園は、ズボン役の「性別越境的快楽」(室田尚子/プログラム)をしっかり意識していたと思う。伯爵夫人の部屋に伯爵が突然来訪し、慌てたケルビーノは衣装箪笥に身を隠す。夫人は不審顔の夫に、スザンナと一緒だったがもう部屋へ帰ったと嘘をつく。そのとき衣装箪笥のなかで物音が。これほど大きな音はちょっと記憶にない!(脇園の思い切りのよさ)。夫人はうろたえ、つい、なかにスザンナがいると苦し紛れ。二人の押し問答のさなか、スザンナが戻ってくる(このときもっと驚いてもよい)。スザンナは身を隠して二人を窺い、伯爵は狼狽する妻を不審に思い、夫人はあれこれ取り繕い…。秀逸な三重唱の始まりだ。ここで伯爵夫人が歌う上昇メロディは本当に美しい。大隈は最高音まできれいに歌いきった。この歌手は芝居もうまく、コミカルな味も出せる(面白がるタイプか)。伯爵のプリアンテは、歌唱・演技とも安定感が際立ち、今回の舞台を中心で支えた功労者だと思う。第3幕で伯爵夫人が偽の手紙をスザンナに口述する「そよ風」の二重唱はいまひとつ調和せず。

合唱は部屋のなかとその下とに分かれて歌った。第4幕のラストで伯爵は夫人ではなく客席に向かって跪いた。また、本作に頻出する男女のコンタクトは回避され、離れたかたちに修正された。これらはもちろん感染リスクを減らすための措置だろう。

そのラスト。伯爵は妻を疑ったことが間違いだった(必ずしもそうはいえないのだが)と知り、跪いて「コンテッサ、ペルドーノ」(公爵夫人よ、どうか許しておくれ)とアンダンテで歌い出し、コンテッサが「私は貴方より素直です。はいと申しましょう」と赦しの言葉を返す。すると、皆が「ああ、これでみんな/満足するだろう」と賛美歌のような美しいハーモニーを響かせた直後、テンポはアレグロ・アッサイとなり、

苦しみと気紛れと/狂気のこの日を、/ただ愛だけが満足と陽気さで/終わらせることができるのだ。

花嫁花婿よ、友人たちよ、さあ踊りに行こう、楽しく過ごそう。/爆竹に火をつけよう!/楽しい行進曲の音に合わせて、/みんなでお祝いをしに行こう!(戸口幸策訳)

と、一気に駆け抜けて幕となる。まさにタイトル通り「たわけた(狂気の)一日」(ラ・フォル・ジュルネ)に相応しい、血がたぎり胸が躍るような幕切れだ。が、舞台上はともかく、オケにいまひとつ熱が足りないと感じた(指揮者のあの振り方、あり方でオケメンバーのからだを変容させることができるのか…)。

第4幕のマルチェッリーナのアリア「牡山羊と牝山羊は仲がいい」は、この版ではいつも割愛されてきた。「男尊女卑の社会を憂えて歌う」アリアだが(田辺秀樹/プログラム)、失言や撤回が尾を引く〝時節柄〟ぜひ竹本節子に歌って欲しかった。