新国立劇場バレエ『眠れる森の美女』2021【訂正・追記】

『眠れる森の美女』の初日と2日目ソワレを観た(20日 土 14:00,21日 日 18:30/新国立劇場オペラハウス)。2日目マチネは取れず(宣言下の座席制限50%でB席以下の販売は僅かだった模様)。

当初予定の〈吉田都セレクション〉『ファイヴ・タンゴ』 [新制作] /『A Million Kisses to my Skin』 [新制作] / 『テーマとヴァリエーション』は「新型コロナウイルス感染症に係る現下の情勢に鑑み、一部作品の公演準備を万全の状態で進めることが困難と判断」(劇場HP)され、本演目に差し替えられた。

振付:ウエイン・イーグリング(マリウス・プティパ原振付による)/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術:川口直次/衣裳:トゥール・ヴァン・シャイク/照明:沢田祐二/指揮:冨田実里/管弦楽:東京交響楽団

イーグリング版の初演は2014年で大原新監督のオープニング。2017年に再演しているから、今回が三回目【四回目】となる【2018年6月の公演を失念していた】。
初日の小野絢子は、芸術監督から受けた指導や言葉をこの舞台に活かそうと必死で踊った。その懸命さと覚悟が痛いほど感じられた。他方、2日目ソワレの米沢唯は、観客からの熱い視線や波動を全身で受け止めつつ、役を生きることに集中し、伸びやかに踊った。そこには舞台に立つ喜びが漲っていた。

思えば六週間前「ニューイヤー・バレエ」が中止となり、急遽、バレエ団は無観客のライブ配信を敢行した。観客不在の舞台で踊った経験がよい影響を与えたのかもしれない。

今回の舞台では、吉田都芸術監督の指導(視線)がすみずみまで行き渡っていると感じた。特に6人の妖精のヴァリエーション、リラの精たち、カヴァリエ等々。

「私たちは選ばれてバレエを踊っているわけではない。好きで踊っている」【NHKプロフェッショナル 仕事の流儀」2021.1.5 だったか】。吉田監督が告げたこの言葉を、ダンサーたちはインタビュー等で口々に繰り返していた【配信動画「新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』〜公演までの日々」等】。よほど響いたのだろう。監督の意図は明白だ。世界にはロシア(ソ連)のように祖父母の代まで体型をチェックされ、真の意味で「選ばれて」踊っているダンサーたちがいる。そうでない「私たち」はよほどの努力を重ねなければ勝負にもならないと。これは、自国のなかで「選ばれて」自足していたかもしれない新国立劇場のダンサーに、その地平を開き、世界のバレエ界と地続きにする、そんな狙いがあったのだろう。いわゆる意識改革だ。それが少しずつ効いてきたのか。以下、簡単に感想をメモする。

20日 オーロラ姫:小野絢子/デジレ王子:福岡雄大 

席は3階左バルコニー。東響はいつも聴く東フィルより音がデカいし、響きが分厚い。小野絢子は1幕より3幕が好いと思った。特にヴァリエーションでは、なぜか吉田都を通り越して森下洋子を彷彿とさせた(ライブは見てないが「きっちんもりした」でハンバーグステーキを食べた)。表現が細かく分節され、からだ全体で幸福感を作ろうとしている、そう感じた。ローズ・アダージョで小野が取り損ねて床に落ちたバラをロシアの王子(中家正博)がさりげなく拾い上げ、ベルトに挿した。

福岡雄大は第2幕の鹿狩りの場で、王子のあり方を遺憾なく発揮。伯爵夫人(寺田亜沙子)とのデュエットも王子の踊りだし、ソロも味わいのあるりっぱな踊り。後者のソロはデ・グリューの自己紹介のソロにそっくり。目覚めのPDDは、踊りはよかったが、イーグリングの振付はどうも…。『眠り』のクラシカルな様式に突然マクミラン的なスタイルが混入すると、生理的に気持ち悪い。意識的な様式の撹乱ならアートとして分かるけど、たぶんそうではないだろう。

カラボスの本島美和は大きく美しいマイムとシャープな踊りで魅せた。リラの精の木村優里はしっかりした踊りだが、もっとgoodnessが欲しいと思わせる。親指トムの井澤諒が晴朗な踊りを見せたのはなんか嬉しい。式典長(菅野英男)の演技はあれでよいのか。特にカラボスから帽子や髪の毛をむしられた時の反応と、王の命に背き針で編み物をしてる女たちを見つけたときの叱り方。前者はもっとユーモアが欲しいし、後者はもっと厳しく。

国王の貝川鐵夫ははまり役でカッコイイ。王に見える。第3幕のアダージョオーボエが出遅れた。アポテオーズのオケは迫力満点。

21日ソワレ オーロラ姫:米沢 唯/デジレ王子:渡邊峻郁

席は15列の中央ブロック。やはり正面だと全体がよく見える。ローズ・アダージョのオーロラ(米沢唯)は16歳のあり方と踊り(13歳のジュリエットみたい)。王子らの手を一人ずつ取っていくシークエンスで始めは目を合わさずに進むが、最後のイタリアの王子(浜崎恵二郞)とだけ目が合い、恥じらうオーロラと喜ぶ王子。一人ずつ手を介してバランスを取るときもバラをもらって回転するときも、すべて役のなかで踊る。客席とステージとで交わされるエネルギーが指揮者(冨田)を介してオケに伝わり、音楽の高揚を見事に築いた。ロシアの王子(中家)に踊ってくださいと促され、両親の方を見て許可を得てから踊り始める。踊りながら時々母親の方を見ると、母は大丈夫よと頷く。仮面舞踏会でのジュリエットを思わせるやりとりだ(マクミラン版『ロミ&ジュリ』)。こうした娘(米沢)の視線が王妃(関晶帆)を母にした。

渡邊王子は演技も踊りもやや軽め。伯爵夫人との踊りも、あとのソロも様式性がほしい。幻影の場は少し暗すぎる。姫とリラの精と王子のトロワは、初日も集中しずらかったが、この日も同じ。たぶんチェロのソロが重いというのか、自意識が強すぎる印象。目覚めのパ・ド・ドゥで米沢のラインがきれい。王子はやはり軽い。この振付は、上記の通り、様式が古典作品に不釣り合いだし、音楽のヴァイオリンソロと合ってる気がしない(ニキティンのソロは例によってヴィルトゥオーソ風)。ここも照明が暗すぎ。

第3幕のアダージョ。米沢オーロラの気品ある踊り。フィッシュダイブでは王子の線が細いぶん心配したが、問題なし。音楽の高まりに見合う素晴らしいパ・ド・ドゥ。渡邊のヴァリエーションはジャンプも高いし、踊りも丁寧。リハーサルの充実を窺わせる。が、どこか踊りが平面的な印象も(やはり様式性の問題か)。米沢のヴァリエーションは、精神のあり方を大事に踊ったように見えた。きらきらと…。リラの精の木村優里は、初日とは違って見えた。悪くない(彼女は精神の構えが変わればずっと好くなる)。ゴールドの速水渉悟は重みのある柔らかな踊り。彼が王子を踊るのは時間の問題。芸監はカンパニーの秩序を考えているのだろう。その日が楽しみだ。終幕後、何回目かのカーテンコールでスタンディング・オベイションに。ステージも客席も無観客配信の経験が、この舞台をより特別なものにしたのだろう。

 確かにパンデミックは日本のアーティストを育てている。冨田実里は以前よりよくなった印象。音楽に適度な荒々しさが出てきたし、舞台上の〝いまここ〟で立ち上がるドラマに応じて、熱や気をオケに伝えるようになった。そう感じた。やはり「場数が物を言う」ということか。

バレエを見るのは5月の『コッペリア』までおあずけだ。が、その前に、明日、埼玉の入間市で米沢唯の即興ダンスや島地保武とのコラボがある。楽しみ。