新日本フィル #630 定演 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉阪哲朗の渋さ

新日本フィル #630 定演 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉を聴いた(5日 金曜 19:15/すみだトリフォニーホール)。

指揮は「ドイツ国内における新型コロナウイルス感染状況と上岡(敏之)氏ご本人の渡航上の困難をふまえ(中略)出演見合わせの決定が」なされ、代わりに阪哲朗が務めた。これに伴い曲目も一部変更された。

昨年の9月初旬だったか、半年ぶりに再開した定演で団員がステージに登場すると拍手が起きた。それはこの日も変わらない。変わったのは、入ってきた団員が拍手のなか正面を向いて立っていたこと。時間差でコンマスが入ると拍手は強まり、彼がお辞儀をして全員が座るのだ。アーティストと聴衆が一堂に会し、生の音楽を共有する。当たり前だと見なされてきたそのことが、文字どおり〝有り難い〟いま、両者が互いにその〝有り難さ(感謝)〟を表明し合うのだ。なんかいいですね。(ただしアフタヌーン・シリーズ/ルビーでは、自分が居合わせた限り、団員たちが客席を向いて立ったままでもコンマスが登場するまで拍手は起きなかった。つまりコロナ禍以前と同じ。このシリーズの聴衆は終曲後の反応も相変わらず鈍いまま)。

阪哲朗といえば、2003年の新国立劇場オペラ《ホフマン物語》と05年の再演を思い出す。前者ではニコラウス/ミューズ役にエリナ・ガランチャ、アントニア役にアンネッタ・ダッシュが、後者ではホフマン役にあのフロリアン・フォークトが出演した(当時の芸監は元ウィーン国立歌劇場 制作部長のノヴォラツスキー)。あとはずっと間が空いて、山形交響楽団の「さくらんぼコンサート2019」で《ドン・ジョヴァンニ》、《コジ・ファン・トゥッテ》、《リゴレット》の名場面等を聴いたぐらいだ(共演は森麻季と大西宇宙)。今回はどうだったか。

この日のコンマスは崔文洙。以下、ごく簡単にメモする。

モーツァルト(1756-91):交響曲第13番 ヘ長調 K.112(1771)

 明るく快活な作品で、演奏もそう。期待が膨らむ。

J.シュトラウスⅡ(1825-99):ワルツ「芸術家の生涯」 op. 316(1867)

音が鳴った直後は、懐かしさが込み上げる。ヨハン・シュトラウスの魔力か。だが、次第に醒めてきた。ツボを外さぬウィンナーワルツだが、けっして酔わせることはない。どこまでも〝渋い〟のは指揮者の個性か。

R.シュトラウス(1864-1949):クラリネットファゴットのための二重協奏曲 TrV 293(1947)

クラリネット:重松希巳江(NJP首席クラリネット奏者)/ファゴット:河村幹子(NJP首席ファゴット奏者)

室内楽のような趣もあった。クラリネットファゴットはもとより、各弦楽器のトップらがアンサンブルやソロで聴かせるのだ。至る所でリヒャルト・シュトラウス節が顔を出す。音色もそう。絢爛ななかに甘さや切なさが感じられる。第三楽章は複数の人間がお喋りしている感じも。

ここで20分休憩。 

J.シュトラウスⅡ:ワルツ「南国のバラ」 op. 388

 シュトラウスのワルツを聴いていると、なにか郷愁に似た、甘酸っぱい感情に襲われる。が、一発のタンギングでその思いは削がれた。残念。

モーツァルト交響曲第38番 ニ長調 K. 504 「プラハ」(1786) 

同じ作曲家でも15歳の冒頭曲で感じた清澄さが、30歳の本作ではさほど聞き取れない。音楽に厚みが増したこともあるが、ヴァイオリン群などの透明感は共存して欲しい。指揮者の〝渋さ〟が効きすぎたのか。第3楽章で、《フィガロの結婚》第2幕の第15曲、スザンナとケルビーノのあわてふためく二重唱のテーマが出てくる。2日後に新国立劇場でこのオペラを見た。その意味では絶好のアペリティフだったが音色の〝渋さ〟ゆえか、さほど楽しめず。


アンコールは

ヨハンと弟ヨーゼフ(1827-70)との合作「ピツィカート・ポルカ」(1869)

久し振りのアンコールは嬉しいが、めくるめくような快楽は生まれなかった。日常からいまひとつ〝離陸〟できない。なぜなのか。あれこれ考えながら帰途につく。奏者のからだが変わらなければ、彼/彼女らが発する音も変わらない?  奏者のからだを変えるのは指揮者(幾分かは聴衆)のあり方しかないだろう。楽曲への深い理解や指揮のテクニックは当然として、他に何が物を言うのか。指揮者(のからだ)が発する〝気〟や熱量の問題?