東京交響楽団《フィガロの結婚》演奏会形式 2018

ジョナサン・ノット率いる東響の《フィガロの結婚》を聴いた(12月9日 13:00/サントリーホール)。
これでダ・ポンテ3部作の完結。2016年《コジ・ファン・トゥッテ》(芸劇コンサートホール)、17年《ドン・ジョヴァンニ》(ミューザ川崎シンフォニーホール)も素晴らしかったが、今回は両者を凌駕した。以下、簡単にメモする。

指揮/ハンマーフリューゲル:ジョナサン・ノット
演出監修/バルトロ/アントニオ:アラステア・ミルズ

フィガロマルクス・ウェルバ
スザンナ:リディア・トイシャー
アルマヴィーヴァ伯爵:アシュリー・リッチズ
アルマヴィーヴァ伯爵夫人:ミア・パーション
ケルビーノ:ジュルジータ・アダモナイト(エイブリー・アムロウは本人の都合でキャンセル)
マルチェリーナ:ジェニファー・ラーモア
バルバリーナ:ローラ・インコ
バジリオ/ドン・クルツィオ:アンジェロ・ポラック

合唱:新国立劇場合唱団(指揮:河原哲也)
管弦楽:東京交響楽団

演奏会形式だが、これまで同様、椅子や衣装スタンド等だけで演出(アラステア・ミルズ)し、音楽を際立たせた。特に印象的なのが第2幕のフィナーレ。ここでは伯爵夫妻の二重唱にスザンヌが加り、さらにフィガロが、アントニオが、マルチェリーナとバジリオとバルトロが加わっていく。この幕切れの七重唱でノットのゾーンに入ったダンサー顔負けの指揮振りが、めくるめくようなモーツァルト的興奮のるつぼを倍加した。モーツァルトの重唱には奇跡的な喜びがある! 思えば、伯爵やバルトロやマルチェリーナやバジリオらは大喜びで有頂天だが、他方のフィガロやスザンナや伯爵夫人らは困惑し、嘆き、絶望している。この両者が、同じメロディとハーモニーで同時に歌うのだ。まるでモーツァルトは、いがみ合いや対立や争いを、丸ごと音楽で包み込み抱擁しているかのよう。ノットの高揚しながらも巧みに音楽をコントロールする様を見ながら、そう感じた。

歌手はみな歌も芝居も本当にうまい。リディア・トイシャーの第4幕のアリア「早くおいで、美しい喜びよ」はこれまで聴いたベストかも。けっしてこれ見よがしにならず、どこまでもスザンナとして歌いきった。ミア・パーションの第2幕のカヴァティーナ「愛の神様」はもっと伯爵夫人の諦念というか熟した感じがほしい気もした。が、第3幕のレチタティーヴォとアリアはキツい感じが功を奏し、素晴らしい歌唱。近年、コンテッサ役の歌い方がこのように変化しているのは、女性のあり方が時代と共に変わってきたからか。女性といえば、第4幕でマルチェリーナが歌う「牡山羊と牝山羊は仲がいい」はフェミニズムの先駆みたいなアリアだが、ジェニファー・ラーモアはノットを男の代表に見立て、すぐ側で皮肉たっぷりに歌い上げた。会場は喝采の嵐(ラーモアは2016年に新国立版《イェヌーファ》にコステルニチカ役で出ていた)。ケルビーノ役は代役のジュルジータ・アダモナイト。第1幕のアリア「自分で自分が分からない」はとてもよい。第2幕のアリエッタ「恋とはどんなものなのか」では、訳の分からぬものが突き上げてくる思春期のエロスをよく出していたともいえる。ただ、気張りすぎたか、少し不安定な箇所も聞き取れた。代役だとついそうなるのかも。アルマヴィーヴァ伯爵のアシュリー・リッチズは、上演直前に「体調不良だが、本人の強い意向で出演」とのアナウンスが流れた。が、とてもそんな風には見(聞こ)えず。上背があり芝居も歌も見事(万全だとさらに声量が出るのか)。フィガロマルクス・ヴェルバも相変わらずノリがよいし、アンジェロ・ポラックはバジリオ/ドン・クルツィオ役ではもったいない気もした。バルバリーナ役のローラ・インコに至っては、出番が後半のわずかしかないのにこのハイレベルかと思わせるほど。新国立劇場合唱団はさすがの歌唱。ピリオド奏法を採り入れたオケは生き生きしかつ瑞々しい。ナチュラル(?)ホルンが少し不安定だったのは低い気温も影響したか。
【付記】ホール内はかなり寒く、体が固まった。そういえば昨年《ドン・ジョヴァンニ》の芸劇でもそうだった。ホール内でコートを着たままオペラを聴かねばならぬ状況はなんとかしてほしい。