新国立劇場 演劇研修所 第12期生修了公演『るつぼ』2019

修了公演『るつぼ』を観た(2月12日 18:30/新国立小劇場)。遅ればせながら感想メモをアップする。

この演目は正直シンドイので見るつもりはなかったが、知人から出演の知らせが入り行くことに。見てよかった。7年前の本公演も演出は同じ宮田慶子。その時より納得できる部分もあった。すでにできあがった俳優より、研修生の方が演出家はなにかと言いやすく、若い役者もそれを素直に受け入れるからか(栗山民也演出の『マニラ瑞穂記』もそうだったが『アンチゴーヌ』は例外)。

ジョン・プロクター役の河合隆汰と妻エリザベスの永井茉梨奈の対話には引き込まれた。まずは第2幕第1場、プロクター家のシーン。かつての使用人アビゲイルとプロクターの一件(不倫)が喉に刺さったまま、夫婦の寒々としたやりとりが続く。秀逸だった。

第4幕、牢獄での二人の対話で奇妙な体験をした。処刑の刻限が近づき、プロクターは決断(沈黙を守り絞首刑となるか、悪魔に会ったという嘘の告白で生き延びるか)を迫られるなか、エリザベスは夫にすがりつき、次のようにいう。「自分の信じるようにして。誰にも裁かせちゃだめ。この世には、プロクター以上に崇高な[higher]裁判官はいないのよ! 許して、許して、ジョン——この世界にこういう気高さ[goodness]があるなんて、知らなかったの!」 自己と他者との境界を決して見失わないエリザベス。日本ではとても考えられない。すごいと思う反面、冷たいとも。それでも、本公演より二人の距離が近いとも感じた。奇妙な体験とは、この goodness が、なぜか私には「気高さ」と聞こえたのだ。が、 水谷八也訳では「(まっとうな)人間らしさ」となっている。「まっとうな人間」? この訳語がいまひとつピンとこないために、あるいは「崇高な」という言葉に引っ張られて「気高さ」と聞き違えたのか。たしかに goodness の翻訳は難しいが、「人間らしさ」はどうなのか。もちろんgoodに「気高い」という意味はないし、それを提案するつもりも毛頭ないが・・・。

役の設定年齢と役者の実年齢に差がある場合、老人の声や動きを「作る」のはある程度やむをえまい。「役作り」というぐらいだし。重要なのは「作った役」を生きられるかどうかである。今回、老け役に関して若い役者たちにアドバイスはあったのだろうか。72歳のレベッカ・ナースを演じた女優(林真菜美)は、あまり老人性を作っていないように見えた。それでも、いよいよ絞首台へと赴くとき倒れそうになるレベッカをとっさにプロクターが抱きかかえる。レベッカ曰く「朝食を取ってないのよ」。最期までユーモアを失わない彼女の気丈さが見事に生きられていた。ああいうやり方もあると思う。一方で、ジャイルズ・コーリィ役(今井聡 第4期)は大変だっただろう。何しろ83歳の役だから。

 竹内敏晴によれば、俳優の演技/行動(action/acting)は「観客のからだにとどき、観客のからだに、あるふるえを起こし反応させるとき、初めて成り立つ」という。また、劇の上演は、絵を展覧会場に並べることで成立する美術とは異なり、むしろ陶器の製作に似ていると。

形を作り、釉をかけ、色をつけ、しかし、それが窯に入れられて火に焼かれたとき、どのように変わるか、に一切が賭けられる[……]。劇場は窯です、るつぼです。そこで燃え上がり、変形し、新しく生まれてくるものこそ劇のいのちです。(『劇へ——からだのバイエル』星雲書房、1975年)

 そうだとすれば、たとえ作った声や動きでも、窯(劇場)のなかで燃え上がり、変形し、新しい命が生まれてくるあり方を体得できるなら、OKということだろう。

ただ、83歳の抜け目がなく詮索好きの老人役を若い俳優が「作り上げる」ことと、その役を生き、観客との相互作用から変化しうるあり方を追求することは、矛盾するように思える。つまり、どちらを優先させるか決めなければならない。前者と後者のバランスをどうするか等々。これは、役者自身が考えることか。それとも、演出家が判断すべきなのか。今回どんなアドバイスがあったのか興味深いところである。

他にはジョン・ヘイル牧師の福本鴻介、メアリー・ウォレンの中坂弥樹、ティチューバの小川碧水(第8期)などが印象に残った。ダンフォース副総督役の西原やすあき(第2期)は強度の高い演技で舞台を引き締めた。

プロクターの最後の行動は、要約すれば、虚偽の告白書に記した「署名を晒されるより、絞首刑になる道を選ぶ」 となる。が、舞台を見ると、選んだというより、一瞬一瞬を必死で生きただけ。そう見えた。生きるために嘘の告白書に署名し、その告白書が衆人に晒されるのを知り、それを断固拒絶した。その拒絶が、結果的に、絞首台に上がることを意味した。それだけだ。この行動を言葉で要約すると「死を選択した」ことになる。たしかにそうだが、劇場/演劇では、人間が生きるさまを、その時、その場で、同時に見る【共振する】ことができる。それこそが演劇のよさだと、あらためて感じた。演劇は、なまで見てみなければ何も分からない。