新国立劇場 演劇『ブレス・オブ・ライフ〜女の肖像〜』/二人の役者の在り方

『ブレス・オブ・ライフ』の初日を観た(10月8日 19時/新国立小劇場)。

シリーズ「二人芝居─対話する力─」Vol. 1
作:デイヴィッド・ヘア
翻訳:鴇澤麻由子
演出:蓬莱竜太
美術:伊藤雅子
照明:中川隆一
音響:長野朋美
衣裳:前田文子
ヘアメイク:鎌田直樹
演出助手:城田美樹
舞台監督:福本伸生

キャスト
マデリン:若村麻由美 
フランシス:久世星佳


平成26年度(第69回)文化庁芸術祭主催公演

舞台は「イギリスのワイト島にあるテラスハウス」。正面中央には高い天井まで届く窓ガラス。その両側にやはり背の高い二つの本棚が聳える。下手に大きなデスク。机上のみならずその回りの床にも数々の書籍が積んである。上手にソファーとテーブル。下手の袖は玄関、上手は別の間(台所?)へ通じる。天井まで達する二つの本棚は『長い墓標の列』(2013年3月)のセットを思わせる。プログラムを見ると美術は同じ伊藤雅子だ。部屋の住人マデリンはかつて博物館で働いていた美術研究者らしい。ここへ、元は主婦だがいまは流行作家となったフランシスが訪ねてくる。マデリンはフランシスの元夫マーティンの愛人だったが、そのマーティンはいまでは別の若い女アメリカで暮らしている。
フランシス役の久世星佳の力量を見せつけられた。といっても、派手な熱演など微塵もない。平田オリザばりの静かな演技だ。久世の言葉はすべて相手役のマデリン(若村)に対して発せられる。これは当たり前のようだが、実はそうではない。特に幕開け時はかなり低い声なのだが、台詞は相手役の身体を通じて観客にも伝わるはず。そう信じているかのよう(竹内敏晴の「呼びかけのレッスン」を想起した)。実際、伝わった。三場の夜中、窓辺に腰掛けて煙草を吸うシーンは男役としての往時を彷彿させ(見たことはないが)前半には見られなかった色気が漂う。後半の朝のシーンでフランシスは、マーティンとマデリンが60年代にアメリカで撮った写真を見る。これを機に、イギリスで二人が再会したときの話をマデリンに聞き出す条りで、久世は小さな椅子に座り客席に背中を向けたまま「頭にくる!」と叫ぶ。ここをピークに、声量のレンジを配分したのかも知れない。
一方、若村麻由美は、久世とは対照的に、相手役ではなく不特定多数の観客に向けて芝居をした。結果、声は大きいが、聞き手の中で意味を結びにくい台詞がいくつかあった。強い女の役作りが不自然だったのか。少し不安定。だが、ラストの朝日が差し込む窓を背に、先に触れたマーティンとイギリスで再会した経緯を語るシーンはよかった。客席にまっすぐ顔を向けたため、意識の分散が解消されのだろう。(が、このとき、前方上手寄りの客席からポリ袋をいじる強烈なノイズが断続し、二人(三人?)の客が靴音を立てて出て行った。高齢であったとしても、ひどい。後方では、口に手を当てず何度も咳をする者。位置からするとたぶん招待客。芝居を見る動機付けも能力も乏しい客が少なくないのが、この劇場の問題だ。)
愛人(マデリン)をめぐる夫の言葉に妻フランシスが返した言葉を、フランシス自身がマデリンの前で再現するシーンは興味深い。このとき、聞き手の若村は、フランシスの夫の役を演じる劇中劇のような様相を現出させる。つまり、マデリン(若村)は不倫の相手(フランシスの夫)に感情移入し、再現しているフランシスに言葉を返すのだ。
二人の女性による対話から、フランシスの元夫つまりマデリンの元不倫相手(マーティン)の人物像が浮かび上がってくる。舞台に一度も登場することのない存在が、二人のやりとりから、観客のこころのなかで造形される。面白い。想像力が促されると観客は喜びを感じる。演劇の醍醐味の一つだろう。先に触れた二人の役者の対照的な在り方を一つの方向にディレクトできたら、もっとよくなるのではないか。