新国立劇場 演劇『十九歳のジェイコブ』

『十九歳のジェイコブ』を観た(6月21日 13時/新国立小劇場)。

原作:中上健次(1946–92)『十九歳のジェイコブ』1986年/角川書店(『野生時代』1978年7月号〜79年10月号・80年2月号連載の「焼けた眼、熱い喉」を加筆・改題)
台本:松井 周
演出:松本雄吉


音楽監修:菊地成孔 美術:杉山 至 照明:吉本有輝子 音響:渡邉邦男 衣裳:堂本教子 演出助手:野村政之 舞台監督:米倉幸雄

キャスト
ジェイコブ:石田卓也 ユキ:松下洸平 キャス:横田美紀 ケイコ/ロペ:奥村佳恵 君原:有薗芳記 高木直一郎:石田圭祐 直一郎の妻/女中:西牟田 恵 西脇/上村/補導員/ジェイコブの兄/ナイフを持った男:中野英樹 𠮷/四十男/ヤクザ2:チョウ ヨンホ 矢城/ヤクザ1/ユキの兄:酒井和哉 友子/ユキの姉:山口惠子 ミオ:新部聖子 声の出演:松角洋平/佐野陽一/日沼さくら

木道、もしくは緩い傾斜の滑り台のようなボードが横にいくつか並列してあり、役者たちはこの上を歩いたり、座ったりする。また、この〝木道〟の位置は進行によって変化し、山場では撤去される。「空間性ではなく、時間性でこの物語を捉え」た松井周の台本に沿い、「どんどん時間性で場所がねじれて変わっていく」さまを舞台化するための工夫だろう(松本雄吉/松井周との対談「中上健次の世界を劇する」/プログラム)。
芝居としてふつうに見れば、これも一つか。ふつうにとは、中上健次という固有名を除けばの話。そもそも中上の原作でなければ見ることはなかった。以前、岸田今日子らが『オリュウノオバ物語』を上演したことがある(調べてみると2005年秋、演劇集団円によるシアタートラムの公演で、脚本は獄本あゆ美、構成・演出が大橋也寸)。岸田今日子とオバ役とのミスマッチをはじめ、種々の不満を感じた記憶はあるが、今回のような違和感はなかった。以下、この異和についてメモしたい。
若手の役者たちはみな悪くない。というか、ジェイコブ役の石田卓也、ユキ役の松下洸平、キャスの横田美紀、ケイコ/ロペの奥村佳恵をはじめ、他の出演者たちも好演したと思う。だが、中上健次が描くあの時代の若者を演じるには、あまりに陰影が希薄でのっぺりしている。赤電話や黒電話はともかく、ジャズや革命(バクーニン)と彼らの佇まいがどうもしっくりこないのだ。さらに、原作の「草いきれのにおいのする山がある故郷」(中上紀「鳥の傷跡」プログラム)がほぼ捨象されたため、舞台はいっそう中上的世界から遠ざかる。
この演出家は、好んで役者を、特に若者たちを、操り人形のように動かす。白塗りした役者たちが隊列を組み、同じ動きを繰り返すと、個性も内発性も欠如しているようにしか見えない。大阪南港で観た『流星』(2000年)がそうだったし、『nocturne』(2003年/新国立中劇場)は堪えきれず途中で出たが、懲りずに確認しに出かけた野外劇『風景画――東京・池袋』(2011年/西武池袋本店4階まつりの広場)もやはり同じだった。今回も、白塗りこそしていないが、基本的には変わらない。たとえば、数人の役者がかたちを揃え同じ動きで場面転換するとき。あるいは、冒頭のグリューネヴァルトばりの立体〝宗教画〟も、その象徴性より、役者を画材のようにモノ化する扱いへの違和感が上回った。これらは、内側からの衝迫を持て余す「鬱屈した」中上の人物像とは真逆の在り方ではないか。
そのことと根は同じだが、この演出家には、演出(支配)の痕跡をわざと舞台に残そうとしている節がある。先週立て続けに見たビントレーの振付・演出作品などは、まさにこれとは対極にある。詩とは「個性の表現ではなく、個性からの逃避である」といったのはT. S. エリオットだが、演出も同じだといいたくなる。
中上健次の世界と今回の舞台との齟齬から、のっぺりとした気味の悪い世界にいま自分が生きていることを再確認させられた。これが、無理して出かけた収穫か。
ところで、中上健次と同年の演出家は、プログラムでこういっている、「中上健次には、いわゆる蔵書がない家の分かりやすさがある。三島由紀夫なんかは、世界文学全集がビシーッと並んでるとこで万年筆で書いてるイメージでしょ。でも中上はせいぜい雑誌が転がってる家で、チラシの裏に鉛筆で書いてる印象。僕なんかはそこに強烈なシンパシーを感じてるんです」。ちょっと吃驚。〝イメージ〟は出発点としては意味を持つが、思考や創作を経たら、打ち砕かれているべきものだ。「もともと大変な読書家であった」(斉藤環/プログラム)中上だが、そうした痕跡は彼の創作にはどこにも見当たらない。そこにも、中上文学の凄さがある。
【追記】芝居が終わっても役者が出て来ることはなく、アテンダントが公演は終了した旨を告げていた。演劇でカーテンコールをしなかったのは私の経験では『NINAGAWAマクベス』(1980/日生劇場)ぐらいか。ただ、あのときは千秋楽のみ平幹二朗栗原小巻が勝ち誇ったように〝仏壇〟の奥から再登場した。今回の千秋楽ではどうだったのだろう。