新国立劇場 演劇『るつぼ』/前半は総じて芝居臭い/プロクター夫妻の最後のやりとりは見応えが/【追記】追加場面「第2幕 第2場」について

今日アーサー・ミラーの『るつぼ』を新国立小劇場で観てきた(11月1日 13時)。

翻訳:水谷八也
演出:宮田慶子

美術:長田佳代子
照明:中川隆一
音響:長野朋美
衣裳:加納豊美
ヘアメイク:川端富生
歌唱指導:伊藤和美
演出助手:渡邊千穂
舞台監督: 堀 吉行

張り出し舞台で、左右にも二列ずつ座席が設けられている。舞台は板張りで調度はシンプル。長方形の枠がドアを表し、出入りする際、効果音が鳴る。
第1幕は、パリス牧師(壇臣幸)をはじめトマス・パットナム(木村靖司)等、総じて芝居臭い(いわゆる新劇臭さ)。力みすぎではないか。ただならぬ事態が起きていることを示したいのは分かるが、大仰な台詞回しはいただけない。それとも喜劇的な狙いがあるのか。とても笑えないが。アン・パットナム夫人(松熊つる松)はアビゲイル鈴木杏)ら少女たちと年齢差が感じられなかった。少女たちは好い。マーシー・ルイスを演じた日沼さくらは自然な台詞回しで客席の重い空気に微風を吹き込んだ。プロクターを演じた池内博之は役柄の〝強さ〟や〝男らしさ〟を台詞に込めようとするのか、力むあまり言い回しが重くなり、時折台詞が聴きづらくなる。池内はそのままでじゅうぶん男らしい。普通に喋っても強いプロクターが現出するはず。栗田桃子は、病弱で少々陰気だが芯の強いエリザベスを見事に演じ切った。
後半(第3・第4幕)は悪くない。プロクターとエリザベスの愛のかたち。プロクターとアビゲイルとの不倫は史実にはないが(ミラーが彼女の年齢を実際より引き上げたのはそのためだ)、この設定がよく効いている。エリザベスは外見の弱々しさとは裏腹に、実に強い女性だ。自分(エリザベス)は夫(ジョン・プロクター)ではない。自と他をけっして混同しない強さ。そのぶん孤独の深さ。最後、獄につながれたプロクターは悪魔と会った(魂を売った)と嘘の告白をして生きるか、告白を拒否して絞首刑になるか、究極の選択を迫られる。「聖人のように絞首台に上ることは」「ごまかし」だと考えるプロクターは、告白しようかと妻に問う。妻は「あなたの望むように。私はそれを受け入れる」と判断を夫に委ねる。だが「生きていてほしいわ、ジョン。それはたしか」とも。これではダブルバインディングだ。エリザベスは、プロクターにいっさい助け船を出さない。まるで、親が子の自立と成長を促すように。「自分の信じるようにして。誰にも裁かせちゃだめ。この世には、プロクター以上に崇高な裁判官はいないのよ! 許して、許して、ジョン——この世界にこういう人間らしさ(goodness)があるなんて、知らなかったの!」(彼女は顔をおおい、泣く)。ある意味、冷酷だ。エリザベスのいう 'goodness' は嘘の告白を暗に禁じているのではないか。それでもプロクターは一旦は告白し、告白書にも署名するが、それが公表されると知るや、告白書を引き裂いてしまう。「自分の名前を失くしてどうやって生きていける?」最終的に死を選んだ夫は涙を流すエリザベスと初めて「情熱を込めた」口づけを交わす。それは 'goodness' が全うされることを選んだ〝ご褒美〟のように見えた。誰からの? 妻からの(神から?)。だが、同時にこの世の別れとなるのだが。
アビゲイル鈴木杏は想像通りの演技。メアリー・ウォレン役の深谷美歩は、振幅の激しい不安定な少女を自在に演じ、舞台に大きく貢献した。ホーソン判事役の亀田佳明は発話・演技とも自然で好感を持った。どこかで見たと思えば、文学座アトリエ公演の『ナシャ・クラサ』に出ていたらしい。レベッカ・ナースの佐々木愛はさすがに慈愛に満ちたアウラを醸していた。ダンフォース副総督の磯部勉は別格の演技で3幕以降の裁きの場を一段上のレベルに引き上げていた。先に触れた深谷美歩や日沼さくら、ヘリック署長の竹田桂、チョウ・ヨンホ(ホプキンズ)等、新国立の研修所修了生たちはみな力まず自然な演技で、見ていて気持ちが好かった。
第1・第2幕および第3・第4幕の幕間は、照明を絞った舞台上で出演者らの賛美歌斉唱(無伴奏)により繋いでいた。濃密な宗教色に染め上げられた当時の空気を示すためか。ただ、この趣向は会衆のまとまりを印象づける効果もあり、パットナム夫妻とナース夫妻やプロクター等との対立軸の背景や、少女たちのヒステリックな狂言を動機付けたと思われる厳格な「清教徒文化が支配する閉鎖的同質社会」(水谷八也/プログラム)を表象するには不十分だ。それにしても、セットを含め、総じて芸術としての一貫性があまり感じられない。いま『るつぼ』を舞台に載せる意味は何なのか。演出意図がよく分からなかった。
【追記】今回の公演では、ブロードウェイ初演の幕が開けた後、追加で書かれた「第2幕 第2場」が上演された。森でプロクターがアビゲイルに会う短い場面だ。ジェラルド・ウィールズによれば、この部分は1971年まで、作者によって全集版等から除外されていた。1965年にローレンス・オリヴィエがオールド・ヴィックで上演した際、さらに改訂されたこの場面に当初オリヴィエは夢中になったが結局採用しなかったという。先の削除は、この事実と関連しているだろう。「読む分には素晴らしいが、ドラマを先へ進めるテンポが壊れる」というのがその理由(ヴァイキング・クリティカル・ライブラリー)。セイレムの文化史的コンテクストをほとんど共有しないわれわれ観客には、アビゲイルの異常さやその背景を考えさせる意味では、一定の効果があったかも知れない。ただ、直前の第2幕 幕切れで、妻エリザベスが逮捕されたプロクターは「神の氷のように冷たい風が、吹きすさぶだろう」と叫ぶ。間に休憩が入ったとはいえ、森の静寂な邂逅場面の挿入は、プロクターの尋常ならざる絶叫の余韻を殺ぐ効果もあったといわざるをえない。

ところで、右手の中央部あたりから、補聴器からと思われるノイズが絶えず聞こえ、集中しずらかった。先日も、サントリーホールの2階席で、指揮者の登場直後に、補聴器のかなり耳障りなノイズがあったが、二人のアテンダントが即座に出所を探し当て、事なきをえた(読響定演/ツェンダー「般若心経」の世界初演)。このときは、演奏前に携帯電話と共に補聴器の調整への注意を促すアナウンスが流されたが、効果はなかったことになる。それでも、アナウンスは続けるべきだろう。新国立劇場では、オペラ『ルサルカ』の公演時、かなり激しい補聴器ノイズで前半の舞台は散々だったが、休憩後、アテンダントが音源を特定し、解決したことがあった。この問題は〝明日は我が身〟だ。本人も自分(の器具)が発するノイズで他の観客の舞台享受が阻害されるのは本意でないはず。今後は新国立でも補聴器についてのアナウンスをぜひ加えてほしい。それでなくなるとは思えないが、やらないよりはましである。