詩森ろば『おとうふコーヒー』劇団銅鑼公演 2018

劇団銅鑼の『おとうふコーヒー』を観た(3月13日 14:00/東京芸術劇場シアターイースト)。
詩森ろばの作品を見たのは二年前の『残花――1945 さくら隊 園井恵子』が初めてで、強く印象づけられた。今回はどうか。簡単にメモする。

美術:田中敏恵 照明:杉本公亮 音楽:後藤浩明 音響:青木タクヘイ
衣裳:山田靖子 舞台監督:松下清永
音声ガイド:佐藤響子 バリアフリーサービス:鯨エマ
演出助手:向暁子 舞台監督助手:村松眞衣
宣伝美術:山口拓三(GAROWA GRAPHICO)
制作:田辺素子 小関直人 平野真弓 佐久博美

キャスト
金山泰司(特養ホーム「おさんぽ」利用者):千田隼生
永谷ふみ子(「おさんぽ」利用者):谷田川さほ
田上和代(「おさんぽ」職員):栗木 純
辻誠二(「おさんぽ」所長):三田直門
戸部市子(「おさんぽ」栄養士):竹内奈緒
旗本良一(民生委員):井上 太
石塚太郎(医者):久保田勝彦
真柴花恵(ボランティア):深水裕子
永谷瑞樹(ふみ子の孫):齋藤千裕
宮田希美(「おさんぽ」職員):早坂聡美
加後純也(ボランティア):大竹直哉


助成:文化庁文化芸術振興費補助金舞台芸術創造活動活性化事業)

ある地域の特別養護老人ホーム。その食堂兼ラウンジのような空間が舞台。認知症老婦人の最期を看取る日がフォーカスされている。その日、大型台風が接近し川の冠水で橋が渡れなくなり、ホームは孤立無援となる・・・そんな設定だ。部屋の壁には、ボケ防止のためか「今日は2017年9月17日」との表示がある。舞台が過去へカットバックする度に、日にちは同じで「年」だけ「2016年」「2015年」・・・と遡る。過去と現在を往還しながら、特養に出入りする人々――所長や女性職員、女性栄養士や男女のボランティア、利用者の家族や地域の民生委員、医者等――が抱える様々な問題を描いていく。

・・・2013年(4年前)まで遡行した場面で、老婦人 永谷ふみ子(谷田川さほ)に孫娘 永谷瑞樹(齋藤千裕)が初めて面会に来る。ふみ子はすでに認知症が見られるが、さほどでもない。瑞樹はそんな「ばあちゃん」にみずからの性同一性障害を告白する。いずれ手術して男になるつもりと。とても受け入れられないふみ子は「うちの孫娘ではなかった」「人違いでした」と所長(三田直門)に告げる。が、少し時間が経過し、ケロリとした祖母は、孫と一緒に散歩へ行こうとする。戸惑う孫は「もしかしてぼくの命がけのカミングアウト、無かったことになってます?」 所長「その可能性あります」。それでも祖母と散歩にでかける瑞樹・・・。観客は、ふみ子と瑞樹にはこんな経緯があったのか、と知る。が、その直後、再び現在に戻り、孫の瑞樹を含めた関わりの深い人々がふみ子の最期を看取る。・・・エピローグで瑞樹は観客に語りかける。「ばあちゃん」の死後、所長はホームの部屋に残されたメモ帳を送ってくれた。そこには「瑞樹ちゃんは男の子」と記されていた・・・。

冒頭のシーンには驚いた。襞のついた粗めの白いカーテンや白布をセットの壁やテーブル等に掛けて、認知症が進んだ「ばあちゃん」の脳内が表象される。その中に入った孫が白くなった神経繊維や萎縮した海馬の説明をするのだ。見事な導入だと思う。
時間が前後する場面転換ごとに紗幕が降りて(単に照明の明度が落ちて?)くる。その紗幕越しに(?)、車椅子に座っていたり、ラウンジに運び込まれたベッド(死の床)に寝ていたりした「ふみ子」は、その都度むっくり立ち上がり、起き上がって、移動する。そのふっくらとした谷田川の身体が、その存在感がとてもよかった。認知症に効くと信じて豆腐を黙々と食べながらコーヒーを飲む彼女の姿も。ふみ子が実際に何を考え、どんな風に感じていたのか、直接語られることはない。ただ、人物間のみならず現在と過去との対話や瑞樹の語り(ふみ子が記したメモ等)により、あるコンテクストが形成される。観客はこのコンテクストのなかで、ふみ子/谷田川の身体を感じながら、想像し考えるよう促される。認知症性同一性障害、職場のイジメ、夫婦別姓等々。扱われている問題は深刻だが、観劇後の印象はけっして暗くない。
齋藤千裕の演技を見ながら、これは当て書きかと思ったら、昨日の朝日新聞に「劇作家の詩森ろばが、齋藤が演じやすいようにこの役を作った」とあった(3月15日)。まあ同じことか。齋藤は昨年の『彼の町――チェーホフ短編集より』で初めて見たが、迷いのないクリアな演技をする俳優。所長役の三田直門、職員の栗木純や早坂聡美など、みな活き活きと演じていた。やはり本がよいと役者のモーティヴェーションも高まるらしい(もっと〝新劇〟らしくない、より自然な演じ方をしてほしいと思うこともあったが)。ボランティア役の深水裕子は久し振りに見た。劇団銅鑼は社会問題等を扱う芝居の上演が多い。いわゆる啓蒙的に書かれた台本は演劇的な魅力が乏しくなりがちで、結果、観客を啓蒙できない。一方、非啓蒙的(=演劇的)に書かれた台本こそ、見るものを真の意味で啓蒙できるのではないか。詩森ろばの芝居を見ながら、つくづくそう思った。