新国立劇場 演劇『プライムたちの夜』/置き去りにされたペンギンたち/平田オリザ、カレル・チャペック

開場20周年記念公演『プライムたちの夜』三日目のソワレを観た(11月9日 19:00/新国立小劇場)。面白かった。演劇誌に台本が掲載されているかと思ったら、残念ながらその予定はないという。
アンドロイドが登場する(平田演劇のように本物ではないが)設定と浅丘ルリ子の演技に惹かれ、土曜日のマチネも観てきた(11月11日 13:00)。
以下、だらだらと話の流れや感想をメモしたい。

作:ジョーダン・ハリソン
翻訳:常田景子
演出:宮田慶子
美術:横田あつみ
照明:中川隆一
音響:上田好生
衣裳:半田悦子
ヘアメイク:宮内宏明
演出助手:金澤菜乃英
舞台監督:澁谷壽久

キャスト(台本順)
マージョリー浅丘ルリ子 ウォルター:佐川和正 テス:香寿たつき ジョン:相島一之
平成29年度(第72回)文化庁芸術祭主催公演

シンプルな居間のセット。中央にテーブルとダイニングチェア。やや上手寄りにラウンジチェアとオットマン。傍にサイドテーブル。下手寄りにイージーチェア。その後方に低めのシェルフ。正面奥にはカウンターとカウンターチェア。カウンターには花が生けてあり、シェルフには本が並んでいる。一本の白木の柱と交差する横木にライトが当たり、十字架のように見える。
85歳の老母マージョリー浅丘ルリ子)が上手から登場。彼女は、待ち受ける30代の男性(佐川和正)にエスコートされてラウンジチェアに座り、話をする。トニーという飼い犬のこと、二人が映画を見に行った帰り彼がプロポーズしたことなど。この若い男性は娘夫婦が用意したマージョリーの夫のアンドロイド(プライム)である。マージョリーは若返ったウォルター・プライムと昔話をしているのだ。だが、細かい点になるとプライムは「その情報は持ってない」と素っ気ない。もっとも、マージョリーも昔の正確な事実を語りたいわけではない。都合よく粉飾や変更を加え、思い出したくないことはなかったことにする。これが人間の常である。
娘婿のジョン(相島一之)は「支援センター」が奨励するアンドロイドの活用に積極的だが、娘のテスはそうでもない。「不気味に若返らせたヴァージョンのパパ」と老母が対話するのは、娘にとってあまり愉快ではないだろう。母に対する葛藤もあるらしい。何かというと母に味方する夫への苛立ち・・・。ウォルター・プライムは用が済むと上手奥の椅子に座る。まるで充電でもしているかのような佇まい(パワー源が電力かどうかは不明)。
別のシーン。救急車で運ばれ病院から戻ってきたマージョリーと娘婿ジョンの対話。だが彼女は覚えていない。・・・ジョンが音楽のスイッチを入れて立ち去ると、ヴィヴァルディの『四季』から「冬」の第二楽章が流れる。かつてマージョリーはオーケストラでヴァイオリンを弾いていたらしい。すると突然、「あとには何もないのね」とひとり死に怯え、ウォルターを呼ぶマージョリー。だが、そこには死んだ夫の似姿をしたプライム(アンドロイド)しか居ない。人間の口から出る安易な慰めより、本当のことを話すプライム。動きもそうだが、生身の人間とは異なるアンドロイドの機微がとてもリアル(けっして機械仕掛けの動きを模倣するわけではない)。やや落ち着いたマージョリーは、娘夫婦の前で不意にデイミアンの名を口にする。「デイミアンは眠っているの?」と。驚くテスとジョン。音楽の喚起力か。さらにマージョリーは、夫と二人でクリスマス前のニューヨークを訪れた話も。娘のテスは人に預けて夫の出張について行ったと。・・・テスはサイドテーブルの聖書に目を留め、少女時代からため込んだ母へのわだかまりを爆発させる。その直後、失禁した母をやさしくシャワーへ連れて行くテス。一方、ジョンはマージョリーが新たに想い出した事実をメモし、アンドロイドに聞かせる。つまりインプットだ。ウォルター(プライム)をよりウォルターらしくするために。ジョンによれば、あのニューヨーク旅行は息子デイミアンの自死から妻を立ち直らせるために夫が計画したものだった。50年間マージョリーは息子の名を封印し、写真もすべて隠していたのだ。それぐらいショッキングな出来事だったが、けっして忘れてはいなかった、と。
休憩15分
白いセーター姿のマージョリー。彼女と話をするテス。どうやらマージョリーは亡くなったらしい。上手奥にはアンドロイド用の椅子が一つ増えている。晩年の母そっくりのアンドロイド(浅丘ルリ子)と娘の対話。マージョリーは若いハンサムな夫を蘇らせたが、自分(テス)は死ぬ直前の母をアンドロイドに。ジョンが日本の柴犬を飼いたがっているとテスがいう。これにマージョリー(プライム)は人種差別的(?)なジョークを返す。旅行の話。マダガスカルへ行きたいというテス。もっとわたしのことを教えてほしいとプライム。自分(マージョリー)をもっと知れば、自分(プライム)はそれだけよく、人間らしく、なる。AIの学習機能だ。子供はあなた(テス)の他には居なかったの? ちょっと躊躇して、そうだとテス(人間は嘘をつく)。・・・だが、テスにとって、人種差別的発言などいかにもマージョリーらしいと感じるが、〝リアル〟からのズレ(人工知能的属性)を少しでも感取すると感情を崩しそうになる。・・・18世紀、水夫たちがマダガスカルにペンギンを連れて来て、置いて行ったとマージョリー。もう人間が居た名残は置き去りにされたペンギンだけだと。この台詞は、前半でテスが語った「人より長く生きる鸚鵡」の話同様、最後の場面を不気味に予告する。プライム退場。
テスとジョンの対話。母を亡くし、情緒不安定で感情を昂ぶらせるテス。そんな妻をなだめるジョン。亡き母の遺品の話。母を好きだった世界ランク八位(?)のフランス人テニスプレイヤー。彼からの手紙の話等々。母にはもっとやりたいようにやらせてあげればよかったと後悔するテス(晩年の母をプライムにした理由か)。母の死後、自分たちの番(老いて死ぬ)を待っているみたいとテス。「生きることが死ぬことから気を逸らすためだなんて冗談だろう」と激しくたしなめ立ち去るジョン。そんな夫に追いすがるテス。
上手奥の椅子は三つになっている。今度はテスのアンドロイドとジョンの対話。二人の話から、テスは旅行先のマダガスカルで古木に首を吊って自殺したらしい。アンドロイドの使用にあれほどポジティブだったジョンだが、いざ失った妻の不在を埋めるべくプライムと話しても全然うまくいかない。「テス、君は正しかった。ただ球が跳ね返ってくるだけだ。自分と対話しているに過ぎない」と嘆き、出て行くジョン。
調度が減り、生活感が希薄になった居間。マージョリー、ウォルター、テス。3人のアンドロイドたちの対話。人間の不在。まさに「置き去りにされたペンギンたち」。ウォルターに、ジョンはいまどこにいるのか尋ねられると「その情報は持ってない」とテス。「ルールルルールル、ルー、ルー、ルー・・・」マージョリーがヴィヴァルディの「冬」第2楽章を口ずさむ。・・・やがて昔飼っていた犬の話に。二匹目のフレンチプードルを選んだのはテス? いや、そうじゃない。選んだのはデイミアンだった、とマージョリーの「記憶」を訂正するウォルター。ヘビやトカゲが好きで、ちょっと変わっていたが、ぼくたちはそんな息子のデイミアンをとても愛していた。彼が死んだ時、可愛がっていたフレンチプードルのトニーと並べて埋葬した(前場のウォルターの話から、飼い犬のトニーを殺したのは一緒に逝けると思ったデイミアンらしい)。そうだった。いま想い出したわ、とマージョリー(学習機能か)。・・・やがてマージョリーは言う、「何て素敵なの、誰かを愛せたってことは」。少し前から「冬」のメロディーが、彼らの心の中で響くエコーのように場内に聞こえ、観客のわれわれに染み込んでくる。暗転。
3人の対話はすべて人間がインプットした情報から成り立っている。つまり、引用もしくはその変形をぎこちなくやり取りするだけ。にもかかわらず、グッときた。そこから何かが現出した。
マージョリー役の浅丘ルリ子が素晴らしい。記憶も足腰も覚束ないが、女性としての矜恃と魅力を失わないユーモラスな85歳の老母。失禁の場面はしびれた。プライム(アンドロイド)役の時は、さほどアンドロイドらしい動きはせず、声のピッチを少し高めに発声する。見事だった(以前、帝国劇場で蜷川幸雄演出の『にごり江』を観たが今回の方が印象的)。アンドロイドのみを演じたウォルター役の佐川和正は、ほどよい強度で台詞回しと動きに人工的な感触を与え、人間にはない「安定性」を有するプライム造形を見せた。ジョンの相島一之は、佐川とは対照的に自然体で人間臭い造形。娘のテス役を担った香寿たつきは、母への葛藤や不安定な性格づくりに加え、アンドロイド役もこなす難しい役だが、よく演じたと思う。ただし、母の死後ジョンとのやり取りで感情を激発させるシーンは、もっと制御したあり方も見てみたい。演出家の解釈かも知れないが、後の自死に至る理由や動機がかえって腑に落ちにくかった。
アンドロイド同士が対話するラストシーンの感動はどこから来るのか。感情はどこにあるのか。マージョリーが最後の台詞を発話したとき、浅丘の目が光って見えた。2回とも。役者の情動がこちらに伝播したのか。あれを平田オリザのように(技術的な問題は措くとして)本物のアンドロイドが演じたらどうなるか。たぶん観客は、まるでアンドロイドに心があるかのように感じるはず。俳優の内側から感情が湧き出なくとも(アンドロイドに感情はない)、それなりの状況設定とそれなりの言葉(台詞)がそろえば、それを見る/聞く者のこころは動かされる。おそらく感情は、対象と主体との間に、いわば間主観的に生じるもの、といった方が適切なのだろう。これが、ロボット演劇を含む平田オリザの舞台を見てきて得られた暫定的結論だ。
だが、今回は別のことも考えさせられた。人間とAIを分かつ境目の問題。それは愛なのか。
ロボット演劇といえばチェコの作家カレル・チャペックの『ロボット(R.U.R.)』(1920)だ。そもそも「ロボット」(人口の労働者)という言葉は、この戯曲をとおして世界に広まった彼の(兄の)造語である。この上演をたまたま8月下旬にダブリンのピーコック座(アビーシアターの地下にある)で観た。12から21歳の若者による上演(National Youth Theatre)だったが、面白かった。特にラスト近くで、男女のロボット2体から恋愛感情の萌芽が見られるシーン。humanでないはずの存在からhumanに特有の属性が現出すると、なぜかとても可笑しく、同時にグッときた。ちなみに女性ロボットの名はHelen(ヘレナ)だが、男性はPrimus(プリムス/プライムス)。つまり英語のPrimeと同根だ。この舞台から(読んだ時は気づかなかったが)、ふと、平田オリザの最初のロボット演劇『働く私』(2008)の幕切れを想起した。そういえば、あの場面もロボット同士の対話で終わるのだ(チェペックの幕切れはひとり生き残った人間の建築士アルクビストによる創世記を模した独白)。オリザの場合、現出するのは「恋愛感情の萌芽」ではないが、方向はさほど違ってはいない。夕焼けを眺めても人間のようには美しさが分からないロボットA(タケオ)は、ロボットB(桃子)にこう語る。

ロボA「あれは、誰かと一緒に見るから、いいらしいんだ。」/ロボットB(桃子)「そうかな。」/ロボA「1人で見るときでも、誰かと一緒に見たときのことを、思い出すから、美しいんだ。」/[中略]「美しいと言うことを、理解するのは、それ以外に、考えられない。/ロボB「そうか、」/ロボA「でも、僕たちは、まだ、そこまで、進化していない。・・・/ロボB(ゆっくりと下手[夕焼け]の方を見る)/ロボA(同じ方向を見る)*ゆっくり照明が落ちる。

共有の喜びを感じるには、対他的な感情(愛)が前提となる。そうだとすれば、ここでも人間とロボット(AI)との境目に「愛」が想定されているのかも知れない。(来年の三月に浜離宮朝日ホールで「さようなら」と合わせて再演される。楽しみだ。)
『プライムたちの夜』のラストは、マージョリープライム(AI)の台詞「何て素敵なの、誰かを愛せたってことは」で終わる。humanではないのに、humanのように、愛せたことの喜びを(訳も分からず)口にするプライム。それでも見ていると、humanの属性としての「感情」が不気味に立ち現れ、なんともいえない感慨に襲われる。足し算ではなく、引き算によって「人間の条件」を表出するやり方。対話の台詞が重なる点(オリザの「同時多発会話」の方が複合的でより複雑だが)も含め、作者のジョーダン・ハリソンは平田オリザの舞台を見ているのか、と想像したくなる。
いずれにせよ、AIやロボット(アンドロイド)と共存せざるをえない未来を舞台に描いた作者たちは、いずれも人間の不在で作を終えている。百年近く前のチャペックは物を作る建築士の人間をひとり残したが、あとの二人は当然ながらチャペックほどオプティミスティックではない。それでも、「愛」もしくは「愛」のようなものが喚起されて終わる点で共通していた。