新国立劇場バレエ『ラ・バヤデール』2015 初日

『ラ・バヤデール』再演の初日を観た(2月17日 19時/新国立オペラ劇場)。前日にはアトレ会員の特典で初日と同キャストのゲネプロを見た。そのお陰で、舞台芸術では観客の存在がいかに重要な役割を担うか実感としてよく理解できた。週末には別キャストで観る予定。

振付:マリウス・プティパ
演出・改訂振付:牧 阿佐美
音楽:レオン・ミンクス
編曲:ジョン・ランチベリー
舞台美術・衣裳・照明:アリステア・リヴィングストン【なぜか今回のプログラムには記載なし】
照明:磯野 睦【同上】
指揮:アレクセイ・バクラン
管弦楽:東京交響楽団


キャスト
ニキヤ:小野絢子
ソロル:ワディム・ムンタギロフ
ガムザッティ:米沢 唯
ハイ・ブラーミン(大僧正):マイレン・トレウバエフ
ラジャー(王侯):貝川鐵夫
マグダヴェヤ:福田圭吾
アイヤ:今村美由起
黄金の神像:八幡顕光
つぼの踊り:寺田亜沙子
[影の王国]第1ヴァリエーション:寺田亜沙子
第2ヴァリエーション:堀口 純
第3ヴァリエーション:細田千晶
児童バレエ:日本ジュニアバレヱ(指導:鈴木理奈)

プロダクションの初演は2000年らしいが、今回の再演は何回目だろう。いずれにせよ、これほど満足した『ラ・バヤデール』はちょっと記憶にない。音楽と踊りとドラマが三位一体となり高い水準の舞台が現出した。まずは、バクラン指揮の東京交響楽団が素晴らしい。東響のブラスの厚みは以前から定評があるが、今回は弦楽器をはじめフルート(相澤政宏)やオーボエ(最上峰行)の木管がじつによく歌っている。オペラやバレエはオケが充実しないと歌手やダンサーがいくら頑張ってもさほどよい結果は得られない。逆にいえば、彼らの演奏の質の高さが舞台の輝きを倍加させる。ゲネプロからオケの仕上がりのよさが印象的だった(副指揮者:冨田実里)。今回の東響の好演は2009年2月の新国立版『ライモンダ』(ABTのオームズビー・ウィルキンズ指揮)に匹敵する。
タイトルロールの小野絢子には驚いた。いい意味で型からほどけ、〝いまここ〟で自発的に動いている。そう見える。『眠り』でもその兆しはあったが、『シンデレラ』では無理に感情を出そうと藻掻いているかに見えた。だが今回、キャラクターが異なるとはいえ、役(ニキヤ)をとても自然に生きており、感情が自ずと湧き出ている。そう感じた。向上心と努力の成果だろう。一幕のニキヤとソロルとの密会のシーンでは、愛の歓びが滲み出た。弦楽器の清らかな音楽に見合う人物造形。
米沢唯のガムザッティ。王の娘という高い身分を演技(在り方)でも踊りでも見事に体現した。一幕二場のニキヤとのやりとりでは能を思わせる抑えた演技(腹芸)で〝恋敵〟への感情の変遷を巧みに表出した。優越感から嫉妬へ、反感から敵意へ、さらに殺意へ。一幕が終わるとあちこちで「唯ちゃん、こわーい!」の声が。二幕の婚約披露宴では、王族としての気位を保ち、難しい技でもいわば踊っていないかのように踊る(当時のインドでは王の娘が舞姫のように踊ることはありえなかったらしい)。だが、踊りはきわめて十全だ。ソロル役のムンタギロフも、ニキヤへの思いから複雑な心情を湛えながらも大きな踊りを見せた。そして、ニキヤのソロ。婚約した二人の眼前で踊る小野は、ガムザッティの、穏やかならぬ思いを内に押し込み表面はあくまで華やかに踊る在り方とは対照的に、身分の違う舞姫として、無力にかつ純真に悲歎の情をチェロ(伊藤文嗣)と共に絞り出す。このとき、いたたまれないソロル(ムンタギロフ)を隣席からじっと見つめるガムザッティ=米沢。その視線に、一種の加虐嗜好的な光が宿った。ソロル=ムンタギロフに詰め寄るニキヤ=小野。そのタイミングを測ったように、あえて手をソロルに差し出し、口づけさせるガムザッティ=米沢! 絶望するニキヤ=小野。小野は花籠を渡された後も舞姫の役を生き踊った。そして、籠に仕組まれた毒蛇によるニキヤの死。少し前から娘の横に移動したラジャー(貝川鐵夫)に、驚いた様子で問い質すガムザッティ。これは自分の罪をソロルに隠す芝居なのか。そうは見えなかった。では父の単独の仕業? 米沢は、ガムザッティがニキヤの死に関与していたかどうかは不明だが、父親の策略を止めえたのは彼女しかいなかった。ゆえに「やはり罪深いと思う」といっている(プログラム「主演ダンサーから見た『ラ・バヤデール』)。あとは客席に解釈を委ねるということだろう。ニキヤが死ぬ前、ハイ・ブラーミン(マイレン・トレウバエフ)が愛の受諾と交換に解毒剤を差し出すとニキヤは再度ソロルを見るが、ソロルはうつむき、ニキヤは絶望して解毒剤の瓶を捨てる。ただし、1877年初演時のリブレットには交換条件の記述はなく、ただ解毒剤を与えるだけ。つまり初演では、ハイ・ブラーミンの卑劣さはいまほど強調されず、同時に、ソロルが愛の誓いを破った以上、この世に残る意味はないというニキヤのひたむきな愛と絶望の深さがいっそう際立つことになっていた。
三幕二場の「影の王国」。ハープ(景山梨乃)の音が鮮やか。山降りの群舞は以前とは味がやや異なるが、やはり美しい(研修所から入団したばかりの小野絢子が先頭を務め、そのびくともしない連続アラベスクがいまも印象に残っている)。ソロルとニキヤの踊り。長身のムンタギロフのリフトは驚くほど高く、幻影のニキヤが浮遊するように見えた。ヴァリエーションでは後への反り返りが、床に手が着くほど。かたちとしてはルジマトフを想起させるが、これ見よがしでない点が好ましい。白いベールを使った左右両回転の難しい踊りも小野はきれいにこなした。ヴァイオリンソロ(水谷彰)の難しいパッセージもOK。三幕四場の「寺院の前」。後悔するソロルにガムザッティとの結婚という現実が押し寄せる。だが、神の怒りに寺院は崩壊し、傷ついたソロルの前に白いベールを持ったニキヤの幻が再び現れ、彼を導くが、途中でソロルは息絶える。グッときた。この音楽には鐘が使われており、終曲した後に、なぜか『マノン』の沼地のパ・ド・ドゥや『はげ山の一夜』後半の夜明けを告げる音楽が聞こえてきた。ランチベリーの編曲ゆえか。
今回は小野絢子と米沢唯の全幕での共演を実現したことが大きかった。二人がドラマティックに絡むシーンを見るという贅沢。小野とムンタギロフの相性もよさそう。小野の踊りが大きくなり、かつ演技に自発性が加わったのは、ムンタギロフと米沢の存在が与っていたかも知れない。相乗効果とはこのことだ。踊りが充実しているうえにドラマが立ち上がり、音楽(演奏)の質が高いとなれば、いうことはない。客席はよく分かっている。ダンサーのみならず、オケや指揮者にも大きな歓声があがった。この劇場では珍しく落下音等が少なかったのも、舞台の質と無関係ではないだろう。帰宅後も、あとあとまでいろんなシーンの音楽が頭で鳴っていた。
再度このキャストで見てみたかったが断念した。土曜日は長田佳世・菅野英男・本島美和、日曜日は米沢唯・福岡雄大・長田佳世のキャストが組まれている。特に米沢はガムザッティからニキヤに変わる。どんなニキヤ像になるか、とても楽しみだ。