新国立劇場オペラ《椿姫》新制作

新制作された《椿姫》の初日と三日目を観た(5月10日 14:00,16日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

ラ・トラヴィアータ(道をふみはずした女)》(初演1853)
作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)
原作:アレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿を持つ女(椿姫)』(1848)/同名の戯曲(作1849・初演1852)
台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ
指揮:イヴ・アベル
演出・衣裳:ヴァンサン・ブサール
美術:ヴァンサン・ルメール
照明:グイド・レヴィ
ムーブメントディレクター:ヘルゲ・レトーニャ
舞台監督:村田健輔

ヴィオレッタ:ベルナルダ・ボブロ(本人の都合で降板したラナ・コスの代役)
アルフレード:アントニオ・ポーリ
ジェルモン:アルフレード・ダザ
フローラ:山下牧子
ガストン子爵:小原啓楼
ドゥフォール男爵:須藤慎吾
ドビニー侯爵:北川辰彦
医師グランヴィル:鹿野由之
アンニーナ:与田朝子
合 唱:新国立劇場合唱団(合唱指導:三澤洋史)
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

久々に指揮者(オケ)、歌手、演出の三拍子が揃った。素晴らしい舞台。
前奏曲。弱音の弦に艶がある。降りた幕にはアルフォンシーヌ・プレシ(マリー・デュプレシ)の墓碑銘がぼんやりと浮かび上がり、その背後に彼女の肖像画がうっすらと滲み出る。原作の小説『椿を持つ女(椿姫)』が主人公マルグリットの死後の場面(ある種の鎮魂)から始まるのと同型だ。やがて音楽は快活な音楽に変わり、紗幕の向こうにワインレッドのドレスを着たヴィオレッタの姿が見える。ピアノの上に立っていたのだ。「19世紀半ばに使われていた」(プログラム)このピアノは、全幕を通して舞台上に置かれる。当初、紗幕とは別に、薄膜のような波打つ繊維がヴィオレッタを包んでいたが、それが外されると、夜会服に身を包んだ男女がなだれ込んでくる。イブ・アベルの棒は攻撃的なまでにオケをハイテンポで駆動させ、パリ・オペラ座(ガルニエ)のフォワイエをイメージした華やかな夜会の世界へ観客をワープさせる。フロアや下手側の壁は鏡になっており、たしかに絢爛豪華ではある。が、同時に、やや暗めの照明効果もありどこか神話(フィクション)の世界を匂わせる。東フィルはいつになく艶やかだ。パーティでの人々の動かし方にも躍動感がある(ムーブメントディレクター:ヘルゲ・レトーニャ)。ピアノ上のヴィオレッタの横には、シャンパングラスをピラミッド状に積み重ねた〝シャンパンタワー〟が聳えている。ピアノから降ろされたヴィオレッタは頂上のグラスをそうっと手に取る。リスキーな演出! 他の人々も次々に。アベルは「乾杯の歌」も快速で飛ばす。アルフレードのアントニオ・ポーリは豊かな声量の持ち主だが、むやみに張り上げず丁寧にかつ誠実に歌う。その音楽的な真面目さがアルフレードの真面目さと見事に重なった。ヴィオレッタのベルナルダ・ボブロも音楽(楽譜)を大切にする歌い手(当たり前だが)。特に装飾音符の歌い回しが信じがたいほど十全かつ正確で、聴いていてとても気持ちが好い。こんな「乾杯の歌」を聴いたのは初めてだ。
ヴィオレッタのシェーナとアリア。上手寄りのやや前方に独り取り残されたヴィオレッタは、シャンパンのボトルを床に置き「ああ、きっと彼だったのよ・・・」 と立ったまま歌う。同じメロディーを別の歌詞で繰り返す件り(よく省略される)からボブロは床に腰を下ろし、やがて横になりうずくまりながら歌うのだ。この身体表現は、高級娼婦ヴィオレッタ(マルグリット=デュプレシ)の出自である「寒村の行商人の娘」に、その少女の内面にわれわれを誘う。「無垢な娘だった私に、/不安な望みを/描いてくれたの、とても優しい/将来のご主人様は・・・」(「オペラ対訳プロジェクト」以下同様)。周知のように、後半のアリアでは、こうした「神秘的で気高い愛」へのナイーヴな思いを「愚かな考え」として一蹴し、打って変わって快活に歌い出す。だが、ボブロはありがちな勢いに任せた歌い方はせず、どこまでも音楽的な美しさを失わないきめ細かな歌いぶり。いわば華麗なコロラトゥーラの裏面に、先の内省的な憂いをつねに宿しているような感触なのだ。全幕を通し、パリの裏社交界で「快楽から快楽へと遊ぶ」高級娼婦のなかに、つねに寒村の無垢な少女が見え隠れする人物造形。強くこころを動かされた。
第2幕第1場。何もない空間に例のピアノが中央に置かれている。上方には群れをなすカモメの飛翔と白いパラソルが見える。アルフレードのアリアは、初日は、音楽性よりも声を強く押し出したい衝動が若干優った。が、三日目は、歌が内側から生きられ立体化されたような素晴らしい歌唱。ヴィオレッタと父ジェルモン(アルフレード・ダザ)との対話は、聴き応えがあった。ヴィオレッタが、別れることをいったん拒絶したのち、娘(アルフレードの妹)の縁談の話を聞くに及び、アルフレードとの愛の生活を断念し、自己犠牲を選び取る。この心的プロセスが、ピアノを軸に歩き回る二人の動きから、空間的に表出されてとても効果的。ダザの、息子を思う父としての力強い歌唱も見事だった。だが、肝心の息子との対話では、なぜか、少し力みが入り、「プロヴァンスの海と大地を、誰がお前の心から奪ったのだ」のアリアはいまひとつ。歌うことより声を強くだすことが優先された結果、さほど父性が感じられず。その前の、ヴィオレッタが手紙を書くシーンでのクラリネットのメランコリックなソロは素晴らしかった。
ここで30分休憩。第2幕の前半「パリ郊外の田舎家」の場と、フィナーレの「フローラ邸」の場を割ってインターヴァルを取ったのは、話の筋道上、適切だったと思う。
第2幕第2場。フローラ邸の舞踏会だが、1幕同様、後方の壁にガルニエ宮をイメージした幕が掛かっている。ただ1幕よりも少しデフォルメされていた。後半、裏切られ侮辱されたと誤解したアルフレードは、カードの勝負で得た大金を人々の前でヴィオレッタの顔に投げつけるシーン。「彼女は全財産を、/私への愛のために手放したのです。 盲目で、臆病で、惨めだった僕は、/全てを受け入れたのだ。/だが、まだ時間はある!/この身の汚名をそそぎたいのだ。/皆さんを、証人としてお呼びした、/彼女に借りを返したということの」。ここで、うしろの〝ガルニエ宮の壁〟が後方へ倒れ、上から札が舞う。アルフレードが二人の愛の生活に掛かった費用をヴィオレッタに返済する。これは、アッティラ・チャンパイもいうように「彼女の愛の奉仕に対する報酬を支払う」ことに他ならない。つまり、アルフレードは衆人環視のなかで、ヴィオレッタをまさに娼婦として扱ったのである。これ以上の侮辱はないだろう。だが、この後ヴィオレッタは、夜会の出席者や父ジェルモンたちから強い同情を受けることになる。後悔するアルフレード。この合唱付き八重唱は聴き応えがあった。このあたりから、ヴィオレッタ(アルフォンシーヌ・プレシ)が神話化されるプロセスが視覚化されているように感じた。人々から同情されるヴィオレッタは上手寄りのピットに突き出た部分まで前進し、幕切れには、ヴィオレッタ独りを残して幕が降りる。少しのあいだ照明が彼女を照らすがやがて暗転。この演出が続く三幕の印象的な幕切れの伏線になる。
第3幕。第1幕への前奏曲と同じテーマ。悲痛な音楽のなか、降りた幕の中央には円形の〝窓〟が開いている。その上部(下向きの三日月型)は三分の一ほど降りており、臙脂色のカーテン(幕)の絵が描かれている。ロケットペンダントのイメージか。その窓の向こうに、ベッドならぬピアノの上に横たわるヴィオレッタの姿。ベッドの下手側にアンニーナ(与田朝子)が仕えている。ヴィオレッタは一幕と同じワインレッドのドレスを羽織り死の床にいる。ピアノの後方には(初日の1階では気づかなかったが3階左バルコニーから見ると)前場で倒れた壁がそのままそこにある。ヴィオレッタと下手側のアンニーナの間には、1幕冒頭と同様の、もやもやっとした薄膜が介在し、両者を隔てている。すでにヴィオレッタは他の人物たちとは別の世界に居るようだ。「さようなら、過ぎた日よ」のソロは、歌詞の意味がしみじみと響いてきた。駆けつけたアルフレードとの二重唱も、例の薄膜で二人を隔てたまま歌われるが、切々と迫ってくる。やがてジェルモンもやって来る。・・・そしてヴィオレッタはひとりワインレッドのドレスを引き摺りながら円形の窓をくぐって前へ進み、上手寄りの突き出た部分へゆっくりと歩み出る。すると、丸い窓の上部がゆっくりと降りてきて、まるで瞳を閉じるように閉まっていく。この間、薄膜の向こうのアルフレードやジェルモンらは下手の方へ後ずさりし、後景に退いていく。「不思議だわ!」「痛みが止んだのです。/私の中で甦った・・・動いている、/いつにない強さが!/ああ! きっと生きられるのね・・・」。劇場の字幕では「私、もう一度生きるのね」だったか。ヴィオレッタはワインレッドのドレスの端を右手で持ち、それを上にあげたまま、暗転。その後の、アニーナとジェルモンの「おお、神よ、お救い下さい」や医者の「お亡くなりになりました!」「何という悲しみなんだ!」等の歌詞(歌)はすべてカットされている。「私、もう一度生きるのね」から、冒頭の場面へと接続するためか。つまり、ヴィオレッタは再びフィクション(オペラ)のなかで生きるのだ。何度も何度も。実際、数日後には、このドレスを身に纏ったヴィオレッタがまたピアノの上に立ち、観客の前で生きはじめることだろう。演出・衣裳はフランス人のヴァンサン・ブサール。自国の話だけに思い入れがあるのかも知れない。《アンドレア・シェニエ》を演出したフィリップ・アルローもそうだった(あれはフランス革命の話だ)。
今回は歌手もよかったが、東フィルが見(聴き)違えるような演奏を聴かせてくれた。コンサートマスターの渡辺美穂は、3月のバレエ公演「テーマとヴァリエーション」でもコンマスを務めていた。そのときブログに書いたとおり、彼女は現在東フィルの団員ではない。ゲストコンマスということらしい。
初日ではよりによって1幕最後のヴィオレッタのアリアでケータイが鳴り、またビーンというノイズ(たぶん補聴器)が何度か聞こえ、信じがたいタイミングで信じがたい咳払いもあった。新国立劇場の客席ノイズは余所の公演に比べて少々目(耳?)に余る。劇場はマナーについて啓蒙してもよいのではないか。咳は誰でも出る。だが、その仕方、そしてタイミング等は改善できるはず。補聴器については、他のホールでは注意アナウンスをよく耳にするが、この劇場で聞いた覚えはない。高齢者の比率が飛び抜けて高いこのオペラ公演では、何らかの対策を講じる必要がありそうだ。
2017年の再演メモ
2022年の再演メモ