東京芸術劇場×明洞芸術劇場 国際共同制作『半神』/イヤフォンでの観劇/耳を塞いで街を歩く人々

野田秀樹の『半神』(韓国語ヴァージョン)を観た(10月25日 14時/東京芸術劇場プレイハウス)。

原作・脚本:萩尾望都 脚本・演出:野田秀樹

出演:チュ・イニョン チョン・ソンミン オ・ヨン イ・ヒョンフン イ・ジュヨン
パク・ユニ イ・スミ ヤン・ドンタク キム・ジョンホ キム・ビョンチョル
ソ・ジュヒ チョン・ホンソプ

主催:東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団
東京都/東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団
共催:明洞芸術劇場、独立行政法人国際交流基金(東アジア共同制作シリーズ vol.1)

企画協力:NODA・MAP、株式会社小学館
オフィシャル・エアライン:ANA

*東京文化発信プロジェクト事業

舞台の幕はすでに開いている。土俵のように少し盛り上がった円形の台が中央にあり、その奥から螺旋階段が上部へ通じている。正面奥の、舞台を見下ろすバルコニーから上手手前に着地する滑り台が付いており、そのさらに手前に数式がぎっしり書き込まれた黒板がある。円形台の奥にバンド(キーボード・チェロ・ヴァイオリン)が陣取り生演奏する。
まだ開演前だが、役者が一人、また一人と挨拶を交わしながら出てきてウォーミングアップをしたり、台本を見たりしている。全員韓国人。みな身体が強そう。柔軟性もある。日本と韓国の一時代前の歌謡曲が流れている。ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」や三味線伴奏の曲など。
役者たちは1時間50分ずっと出ずっぱり。強靱な身体と技術がなければとても不可能だ。当初は字幕の予定が、イヤフォンに変更された。これだけ台詞が多いと字幕では処理しきれなかったのだろう。タイミングの問題も、イヤフォンなら少しのずれですむ。実際どの役者がどんな台詞を吐いたのかほぼ全部分かった(女声の主は独りですべての台詞を読むのだから大変だったろう、時々噛んでいた)。だが、他ならぬこのイヤフォンがせっかくの演劇体験を台無しにしたことも事実である。片方の耳にイヤフォンを着けると、なるほど台詞の意味は了解できても、場内の空気――舞台上の熱や観客の反応等――が、感知しづらいのだ。結果、舞台と客席との交流は大幅に阻害され、役者たちがハイテンションで動き回り、集中して喋りまくったにもかかわらず、返ってくる客席の反応は弱々しく、単発のものになっていた。イヤフォンの装着が、数百人もの観客を他の観客から孤立した個のかたまりに変え、劇場内に相乗効果やうねりを起こせない状態にしたのである。
だが、こうした悪条件にもかかわらず、韓国の役者たちはじつによくやったと思う。いくら打てどもほとんど響いてこないのに、動きでも台詞でもきわめて強度の高いパフォーマンスを繰り広げていた。イヤフォンから聞こえてくる台詞の面白さと役者の動きを頭で同期させながら時々「ふふ」と小声で笑う以外、ほとんど静まりかえった観客を前に。おそらく韓国語を解する観客ばかりの(当たり前だが)ソウルではまったく次元の異なる公演だったはず。
人は、片耳を塞ぐだけで、これほどまでに他者との交感や交流が阻害されるのだ。しかし昨今は、外に出れば、街中でも車中でも、片耳どころか両耳にイヤフォン(なかにはヘッドフォン)を着け、視線はスマートフォンの小さな画面に釘付けの人間を多数見かける。駅の階段や通路で、前の人が牛歩のように遅々と進まない時は、ほぼ確実にスマフォや携帯の〝ながら歩行者〟である。歩いていてぶつかりそうになった相手は必ずといってよいほど両耳をイヤフォンで塞いでいる。イヤフォンで音楽を聴いている歩行者は、相手がかなり近づくまで決してよけようとはしない。両耳を解放している時と塞いでいる時とでは、おそらく対他的な距離感覚が異なるのだと思う。さらに、イヤフォンで音楽を聴いていると、外界の音(ノイズ)はほぼ遮断され、自分の内側の世界(好きな音楽)に浸りやすくなる分、自我が必要以上に肥大する傾向があるように思われる。もちろん、危ないので時々視線を外にやる。だが、その目つきは、穴倉から外界をのぞき見るような、あるいは邪魔な障害物を見るような、きわめて非社会的かつ険悪な表情であることが少なくない。自我を肥大させながら、いわば自分の殻に引きこもったまま外を歩き回る人々。これはかなり異様で異常なことなのではないか。こうした〝異様かつ異常な人々〟の中に身を置くのは、かなり不気味で気持ちの悪いことだ。いったい彼らは、街を歩いたり、電車に乗っているときですら、絶えず聴かなければならないほど音楽好きなのだろうか。どうもそうではない気がする。たとえば、私は音楽がないと生きていけない人間だが、イヤフォンで音楽を聴くのは新幹線等に長時間乗るとき以外、滅多にない。彼らが両耳を塞いで外を歩くのは、おそらく外界を遮断して、人に話しかけたり、話しかけられたりすることを回避するためなのだろう。社会に居ながら、非社会的な在り方を日常化している人々。これを長年続けていくと、人間の知覚の有り様はどう変化していくのか。また、その変化は、人間にどんな影響を与えるのか。考えてみると空恐ろしくなる。