平成25年度 地域招聘公演 オペラ《三文オペラ》/オペラ批判のオペラをオペラ歌手が歌い演じると・・・

オペラ《三文オペラ》を観た(7月12日/新国立中劇場)。昨年10月にびわ湖ホール中ホールで上演された舞台らしい。
〝オペラ《三文オペラ》〟と書くとリダンダントだが、新国立劇場の「地域招聘オペラ公演」だからこう記さざるをえない。つまり、この《三文オペラ》は、演劇俳優やミュージカル俳優ではなく、オペラ歌手がオペラとして上演する舞台なのである。
ただし、よく知られているように、ブレヒトはオペラの「美食的」かつ「享楽的」な要素をきびしく批判した。感情よりも理性を、感動よりも認識を重んじ、感情同化に代わる〝異化〟を主導したブレヒトである。「一晩のお慰みとして販売される」オペラへの批判は自然かつ必然だったブレヒト「現代の演劇は叙事詩的演劇だ――オペラ『マハゴニー市の興亡』のための注」千田是也 訳編『今日の世界は演劇によって再現できるか』)。このジャンル名をタイトルに含む《三文オペラ》は、作者によれば、「オペラの完全な白痴化に反撃しようとする試み」に他ならなかった(エゴン・フォス「三文オペラ――オペラではなく、オペラをテーマにした劇」に引用/アッティラ・チャンパイ&ディートマル・ホランド編『名作オペラブックス28』岩淵達治・早崎えりな訳)
三文オペラ》の初演時にオペラ歌手がひとりも出演しなかったのは、フォスによれば、「決して偶然ではない」。なぜなら「《三文オペラ》で要求される語り口(ディクション)はオペラの歌のそれとはまったく違うもので、むしろその原型は、カバレット[キャバレー]シャンソンに見出される。文学寄席(カバレット)では歌詞を正確に伝えることがなにより大事であり、音楽を演奏することは二の次だからだ」(フォス前掲書)
そういえば、蜷川幸雄の演出も(2001年8月/池内紀訳/彩の国芸術劇場)、こんにゃく座の舞台でも(2010年2月/加藤直訳・演出/パブリックシアター)基本的には役者による上演で(ただし蜷川は娼婦ジェニー役に韓国人歌手のキム・ヨンジャを起用)、音楽は前者では宮川彬良が、後者は萩京子が担当した。今回は上記のとおり、オペラ歌手がワイル(ヴァイル)の音楽を日本語訳で歌う。その結果は・・・。

三文オペラ Die Drigroschenoper (1928)
戯曲:ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)
作曲:クルト・ワイル(ヴァイル)(1990-1950)
日本語訳:小林一夫
【日本語上演/日本語字幕付】

【指揮】園田隆一郎
【ピアノ】寺嶋陸也
管弦楽】ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団

【演出】栗山昌良
【衣裳】緒方規矩子
【振付】小井戸秀宅
【照明】原中治美
【装置】増田寿子
【音響】小野隆浩(公益財団法人びわ湖ホール
【舞台監督】菅原多敢弘

キャスト
【メッキー・メッサー】迎 肇聡
【ピーチャム】松森 治
【ピーチャム夫人】田中 千佳子
【ポリー・ピーチャム】栗原未和
【ブラウン】竹内直紀*
【ルーシー】本田華奈子
【娼婦ジェニー】中嶋康子
【スミス】西田昭広*
【大道歌手】砂場拓也
【フィルチ】古屋彰久
【泥棒ウォールター】青柳貴夫
【泥棒イーデ】島影聖人
【泥棒ロバート】二塚直紀*
【泥棒マシアス】林 隆史
【泥棒ジェイコブ】山本康寛
【娼婦ドリー】岩川亮子
【娼婦ベティー】小林あすき
【年寄りの娼婦】林 育子*
【娼婦フィクセン】松下美奈子
【娼婦モリー】森 季子
びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバー


主催:(公財)びわ湖ホール/(公財)新国立劇場運営財団

台詞部分はほとんど観客目線。対話ですら、双方が顔をつきあわせることはほとんどなく、客席に向かって台詞を吐く。それはまあよい。よくないのは、歌うように声を響かせて発話する奇妙な台詞術だ。まるで宝塚と劇団四季を足して二で割ったような奇天烈な台詞回し。カバレットよろしく歌詞のみならず台詞も「正確に伝える」目的で、あえて極端にクリアな発話を心掛けたのかも知れない(歌に字幕は付くがむろん台詞にはない)。が、聴いていると次第に気持ちが悪くなり、結局、言葉の意味を最後まで追う気力が失せてしまう。特に、ブラウンとピーチャム夫人についてはそう。ポリー・ピーチャムも台詞で歌いすぎ。
肝心な歌の部分は、総じてきれいに歌おうとする傾向が強い。そのため、ほとんどのばあい歌詞内容と歌唱のスタイルに大きな齟齬が生じる。下世話な歌詞をいわゆるオペラのように美しく響かせて歌うとどうなるか。
そんな中にも例外はあった。ルーシー役の本田華奈子(メゾ・ソプラノ)が歌った「ルーシーのアリア」は、寺嶋陸也による華麗かつ骨太なピアノ伴奏と共に、聴き応えがあった。これは、初演時も「のちの新演出」でも「むずかしすぎる」ためにカットされた曰く付きのアリアだ(クルト・ヴァイル「ルーシーの〈使われなかったアリア〉について」『名作オペラブックス28』)。娼婦ジェニーの中嶋康子が歌った「ソロモンの歌」では思わず歌詞に釣り込まれた。ピーチャム役の松森治は、ほぼ唯一、台詞回しがまともで、歌唱も役柄にフィットさせていた。
演出家の「師匠は・・・いち早くブレヒトをこの国に紹介し・・・た千田是也師」で、「小生の修行はブレヒトから始ま」ったとの事(プログラム)。だとすれば、客席目線での歌うような棒読み台詞は、異化効果を狙ってのことなのか。もしそうなら、その効果は皮肉なかたちで現れた。途中休憩の後、私の近くの観客はごっそり帰ってしまったから。だが、異化の目的は、観客と俳優(歌手)との間に距離をつくること自体ではない。距離化もひとつの手段であって、目的はあくまでも観客に思考や認識を促すことにあるはずだ。感情同化を丸ごと否定する必要はない。ブレヒト自身がいうように「感動が認識へ駆り立てられる」ようにすればよい(「現代の演劇は叙事詩的演劇だ」)
そうだとすれば、やはりあのようなスタティックな台詞回しは考え直すべきだ。問題は台詞と歌の分離である。ブレヒトはいっている、「普通の会話、たかめられた会話、歌唱という三つの平面は、いつもはっきり分離されねばならない。・・・感情が度を越して、声が出なくなるはずのところで、歌が始まったりしては決していけないのだ」とブレヒト三文オペラのための註」千田是也訳『三文オペラ岩波文庫。なぜなら、現実的には不自然きわまりない振る舞いをリアルと受け取るコンヴェンションが、ひいては劇のイリュージョンが、強化されてしまうから(「死にかけている人間は現実的だ。だがその人間がその場で歌い出したら、たちまち非理性の世界に足を踏みこんでしまう。(それを見て聞き手が歌うのだったら、そうはなるまいが。)」ブレヒト「現代の演劇は叙事詩的演劇だ」)
普通の会話(台詞)についていえば、もっと動的な、生き生きとした台詞術を用い、ドラマ(フィクション)の仮構を恐れる必要などない。ドラマの愉しさやフィクションの喜びなしには、観客の途中帰宅を防げない。異化どころか、元も子もないことになる。歌をドラマから分離させれば、おのずとドラマのイリュージョン性は破られることになる。歌も、歌詞の内容に見合った、場合によっては泥臭く、生き生きとした歌唱を心掛けるべきではないか。間違っても美しく響かせようなどと思ってはいけない。結果的に、聴衆が美しいと感じることはありうるとしても。ブレヒトはいう、「俳優はただ歌うだけではなく、歌う人間を示さねばならない。俳優は自分のうたう歌の感情をあまり強調せずに(自分の食べてしまった食物を他人にすすめたりしていいだろうか?)・・・」(同書/ちなみに竹内敏晴の演技論と通底するものがここにある)。要するに、《三文オペラ》は、たとえオペラ歌手が歌い演じても、やりようによっては十分成立するはずである。(右の画像は1928年初演時のポスター/出典はWikipedia。)
終曲ののち、再度、音楽が開始され、今度は替え歌で「第三の三文フィナーレ」が歌われる。いわく、オペラを聴けばみな満足だから、びわ湖ホールへ来てください・・・、とかなんとか。出演者全員で明るく楽しそうに歌っている。ここで、はたと不安になった。この人たちは本当にブレヒト作品を真面目に上演しようとしているのだろうか、と。ブレヒトたちがいわゆる旧来のオペラ(われわれが知っているオペラ)を批判するために《三文オペラ》を創作したことはすでに述べた。そのフィナーレで、堂々とオペラを、オペラハウスであるびわ湖ホールを、称揚し、宣伝する。これはいったい・・・。
もうひとつ気になったことがある。客席左後方のスタッフと思しき陣営から、たびたび拍手や声援を送っていた。それ自体はよい。だが、発表会で身内を応援するようなノリで、まだアリアの後奏が続いている時とかに、突然、恣意的に拍手が起こるのだ。気持ちは分からなくもないが、これでは逆効果と言わざるをえない。一部の不自然な(自然発生的でない)拍手が起こる度に、客席ではどんどん白けた空気が漂っていった。