新国立劇場 演劇『アジア温泉』/「ロミ&ジュリ」のアジア版/韓国人俳優のパトス

シリーズ「With——つながる演劇・韓国編——」『アジア温泉』の初日を観た(5月10日/新国立中劇場)。

作:鄭 義信 Chong Wishing
演出:ソン・ジンチェク Sohn Jinchaek


翻訳:パク・ヒョンスク Park Hyunsook
美術:池田ともゆき
照明:沢田祐二
音楽:久米大作
振付:クッ・スホ Kook Sooho
音響:福渾裕之
衣裳:前田文子
演出助手:城田美樹
舞台監督:北条 孝


キャスト[台本順]
大地:キム・ジンテ Kim Chintai
かめ:キム・ジョンヨン Kim Jungyound
ひばり:イ・ボンリョン Lee Bongryeon
カケル:勝村政信
アユム:成河 Songha
フユ:梅沢昌代
もぐら:キム・ムンシクKim Munsik
つる:カン・ハクス Kang Haksoo
カラス:ソ・サンウォン Seo Sangwon
かささぎ:チョン・ジュンテ Chung Juntae
たぬき:チョン・テファ Chung Taehwa
うさぎ:キム・ユリ Kim Youri
さる:千葉哲也
ひよこ:ちすん
ねこ:山中 崇
牛蔵:谷川昭一郎
馬蔵:酒向 芳
土蔵:森下能幸
楽師:朴 勝哲 Park Seungcheol
楽師:江部北斗
楽師:キム・シユル Kim Siyoul


ヘアメイク:川端富生
歌唱指導:ルンヒャン Runghyang
擬闘:渥美 博
演出部:加瀬幸恵/飯田大作/梅山 茂/村川実知子/増田直子
コーディネーター:パク・ヒュンスク Park Hyunsook
通訳:洪明花 Hong Myunghwa
字幕操作:宋美幸 Song Miheng
プロンプ:チョウ・ヨンホ Cho Yonho


主催:新国立劇場 New National Theatre, Tokyo
協力:芸術の殿堂(Seoul Arts Center)
   韓国国立劇団 National Theater Company of Korea
後援:駐日韓国大使館 韓国文化院 Korean Cultural Service

中劇場での演劇公演で満足したことはほとんどない。ただ、今回は10列目が最前列で舞台と先頭客席を同じ平面にし、両者の距離が近く感じるよう工夫してはいる。私は5列目のほぼ中央から観た。
「アジアのどこかにある島」で温泉が湧くとの噂が流れ、島民とよそ者が土地の買収をめぐって争う。対立する者同士(よそ者のアユムと島民大地の娘ひばり)の恋愛。『ロミオとジュリエット』を思わせる仮面舞踏会。やがて大地(キム・ジンテ)がアクシデンタルにアユム(成河)を殺害してしまう。死んだアユムを前にひばり(イ・ボンリョン)はジュリエットのように後追い自殺を遂げる。ナイフで自死するイ・ボンリョンの演技は痛覚への刺激と同時に笑いを誘うが、その感触はこれまで経験したことのない独特のもの。ベースには、尋常ならざるパトスの激しさがある。パトスといえば、大地の元愛人フユ(梅沢昌代)が、かつて自殺した息子(りす?)の遺骨を掘り返そうとする場面。大地の正妻かめ(キム・ジョンヨン)はそれを必死で止めるのだが、一方で、フユの身体に顔を埋め、強烈な情念の叫び声を絞り出す。日本の役者にはとても出せない(と思わせる)声。素晴らしい女優だと思う。台詞は少なくともそれはよく分かる。ラストは、ある種の和解を示唆するアユムひばりの死者婚礼の儀式(クッ)が祝祭的におこなわれる。
アユムを好演した成河は、よそ者と島民とをつなぐ役にふさわしい撓やかさと体温を感じさせる。身体のキレがよく、歌もめっぽう巧い。巫女(ムーダン)のうぐいす役は、歌も踊りも強度が高く、存在感が圧倒的。アユムの兄カケルに扮した勝村政信は、よそ者性はよく出ていた。が、その台詞回しは若干独りよがりの感なきにしもあらずで、大声でも小声でも何を言っているのか分からない。大地の番頭のようなもぐらを演じたのは、キム・ムンシク。『焼肉ドラゴン』で、客が残したうどん汁を運搬中に全部こぼした顛末を、焼肉店の次女(占部房子)に泣きながら話したあの役者だ。今回も、時々日本語を交えながら道化の役を柔軟に演じた。千葉哲也が扮するさるとちすんが演じたひよこは、フェリーニが『道』で造形した大道芸人ザンパノと頭の弱いジェルソミーナを想起させる。カケルの役は千葉で見たかった。
『ロミ&ジュリ』ばりの対立を軸とする主筋のフィクションを、牛蔵(谷川昭一郎)・馬蔵(酒向芳)・土蔵森下能幸)の東北三人組と、さるひよこのリヤカーコンビが、客をいじりつつ、コミカルに媒介する。主筋の人間関係は必ずしも分かりやすいとはいえないが、そこへ(震災被害を匂わせる)東北三人組とリヤカーのコンビが加わるため、さらに雑然とした印象。写真を撮りまくるねこ山中崇)の存在はメディアへの諷刺かも知れないが、いまひとつしっくりこない。主筋(イリュージョン)を担う役者群のほかに、観客へ直接話しかける非イリュージョン的な役回りを二種類おいたのは、ブレヒト的な異化効果を狙ったというよりも、「お行儀がいい」「日本の観客を巻き込む」ためらしい(プログラム)。演出家のソン・ジンチェクはいう、「私がこれまで実践してきたマダンノリスタイルは観客参加型なので、そのプランを取り入れたいと考えています。リアリズムで書かれた鄭さんの戯曲を祝祭劇スタイルで作ってみたいんです」(HPの沢美也子によるインタビュー)。祝祭的な演出は、蜷川を想起しないでもないが、アジアの土着的な味と、シェイクスピア等の西洋古典のフレーミングが相乗的に作用していたかどうか。主筋と直接関わらない二種類のクラウン達については、「観客を巻き込む」意図と非イリュージョン的な異化効果がいくぶん相殺していたように感じた。少なくとも初日を見たかぎりでは。回を重ねれば変わっていくかも知れないが。

日韓の役者は基本的にそれぞれの母語を用い、後者には字幕が付く。韓国語が分からない観客は、後者同士の対話より、日韓の対話時が視線の移動に忙しく少々厄介だ。「アジアのどこかにある島」との設定は、両国間の政治的な問題を示唆させないための配慮かも知れないが、『その河をこえて、五月』(2002年/2005年)や『焼肉ドラゴン』(2008年/2011年)にみられた、異言語使用の必然性を弱めてもいる。

それにしても、日韓両国の俳優が共演すると、前者の存在の〝軽さ〟が否応なく眼に付く。後者には〝ふっくら感〟というか〝奥行き〟があり、体温も高そうに感じるのはなぜだろう。オペラやバレエの場合も同様だ。身体性、無意識の領域の大きさ。ただし、前者のなかでも、千葉哲也などは、後者の感触をもっている。必ずしも民族や文化の問題ではないのかも知れない。