シンポジウム“芸術と科学” ―心はどこにあるのかー/アンドロイド演劇『さようなら』

標記のシンポジウムに組み込まれたアンドロイド演劇『さようなら』を観た(11月22日 17時/東京藝術大学 音楽学部第6ホール)。

シンポジウム“芸術と科学” ―心はどこにあるのかー
青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト

17:00 *アンドロイド演劇『さようなら』(25分)
17:40 石黒浩 講演会「ロボット研究における芸術と技術」(60分)
18:50 対談:石黒浩×平田オリザ「心はどこにあるのか?」(50分)


*作・演出:平田オリザ東京藝術大学・アートイノベーションセンター特任教授)
*ロボット・アンドロイド開発:石黒浩大阪大学&ATR石黒浩特別研究所)

*出演:アンドロイド「ジェミノイドF」 /菊池佳南 /河村竜也
*アンドロイドの動き・声:井上三奈子


主催・企画:東京藝術大学社会連携センター、東京藝術大学アートイノベーションセンター

まずは平田オリザ作・演出『さようなら』について。
開演前から「椰子の実」の音楽がカラオケで流れている。逆光のためはっきりとは見えないが、すでに舞台には二人の女性が椅子に座っている。下手がアンドロイドで、上手のロッキングチェアに座っているのが人間の女性だ。だが、そういえるのはあらかじめチラシの舞台写真を見ていたから。さもなければどちらがロボットでどちらが人間か分からなかったかも知れない。それくらい、二人はよく似ている。
開演時間になると、いったん暗転し、再び灯りが点くと、あるいはその少し前から女性の声が下手から聞こえてくる。ピアノ椅子のような丸椅子に座ったアンドロイド(ジェミノイドF)だ。はじめは向き合っている上手の女性に話しかけているのかと思ったが、「ぼく」という言葉で、どうやらそうではなく、詩を朗読していることが分かってくる。冒頭の詩はアンドロイドによれば谷川俊太郎との由。あとで探してみると『はだか』所収の「さようなら」だ。次はランボーの「酔いどれ船」の一節。二人のやり取りから、この女性(菊池佳南)は不治の病にかかっており、彼女の父親がそんな娘を慰めるためにこのアンドロイドを買い与えたことが知れる。死が目前の娘としてはもっと励ますような詩を所望するが、次の若山牧水の短歌もさほどポジティヴな感興を引き起こすことはない。「それが、いまの私に相応しいとあなたが思うのならそれはそれでよい」というような言葉を娘はアンドロイドに返し、彼女の元へ歩み寄り、その左手を右手でとり自分の頬に触れさせる。それから、アンドロイドが詩を朗読していくうちに、きわめてゆっくり溶暗しはじめる。「わたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもう/ただしくんよりもとおくへきたとおもう/ごろーよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもう/もしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりも/ごろーはいつかすいようびにいえをでていって・・・」。
暗転後、今度は逆にゆっくりと溶明する。詩の朗読は続いている。「このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう/しらないうちにわたしはおばあさんになるのかしら/きょうのこともわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしら」。この時もはや上手のロッキングチェアーに女性の姿はない。それでも、アンドロイドは朗読を続ける。「ここよりももっととおいところで/そのときひとりでいいからすきなひとがいるといいな/そのひとはもうしんでてもいいから/どうしてもわすれられないおもいでがあるといいな/どこからかうみのにおいがしてくる/でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける」(谷川俊太郎「とおく」)。
そこへ宅配便の配達員を思わせる服装をした若い男(河村竜也)が上手から入ってくる。少し調子を崩したアンドロイドとのコミカルなやり取り。男は携帯で指示を仰ぎ、アンドロイドの背中のスイッチを切る。リセット。アンドロイドの回復。男は携帯でアンドロイドの所有者(?)とやり取りし、配送の伝票を切る。送り先は海水浴場。男はアンドロイドに告げる。今度は誰もいないところで詩を読んでください。大勢人が死んだんです。5キロ圏内は入れないので、そこからはあなたのお仲間のロボットが運びます云々、いいですか、と。アンドロイドは応える、それでお役に立てるのなら・・・。男が電源を入れたままでアンドロイドを担ぎ出そうとすると、アンドロイドは島崎藤村の「椰子の実」を朗読しはじめる。モノのように男の背中に担がれたまま。このときなぜかグッときた。アンドロイドが担がれたために声の出所が彼女の口ではなく背後に置かれたスピーカーからであることがはっきり分かった。にもかかわらず、フクシマの誰もいない海水浴場で詩を朗読するために運び出される彼女の、アンドロイドの〝心情〟が身につまされたのだ(心はどこにあるのか)。「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ/故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月/旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる/われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ・・・」。上記の通り、いずれも詩の選択が絶妙だ。じつに素晴らしい演劇作品。
石黒浩講演「ロボット研究における芸術と技術」について。
これがめちゃくちゃ面白かった。こんなに笑い興奮した講演は久し振り。パワーポイントを使いながら話すのだが、それはあまり関係ない。きわめて興味深い認識や鋭い洞察が、石黒氏の口から、奔流のように猛スピードで迸り出てくる。したがって、以下は当日走り書きした不正確なメモ(笑い転げた話は記してないのできわめて選択的)。
頭だけだと賢くなれない。経験する身体が必要。ソフトバンクのロボット「ペッパー」の件で孫さんと「カンブリア宮殿」に出たときの裏話。この番組はオンエアを見たので、とても面白かった。人間を知るためのロボット研究。認知科学、心理学、脳科学等々に比しての有効性。平田オリザと一緒に演劇を作ることで得た認識。人間らしさ。人と関わるロボット。無意識的、反射的動作。研究には境界がつかない。名前もない。付けられない。最新の研究というものは本来そうしたもの。人間存在とは何か? この研究をしていると、当たり前のことがそうではなくなる。アイデンティティにはピークがある(桂米朝アンドロイドの話)。アンドロイド(「ジェミノイドF」)は真のアイドルである。彼女はトイレに行かない。疲れない。美しさとは何か? 美しくすると、どんどん人間(らしさ)から離れていく。シンメトリー。人間はシンメトリカルではない。感情とは何か? 見て感じるのか? 自分が〝持っている〟から感じるのか? 心とは何か? 相互作用からそれがあると感じるのではないか(『さようなら』のジェミノイドFにグッときたのはその証し、『変身』のときもそう)。社会的状況における人間らしい振る舞いは演劇から学んだ。感情は言語を越えた通信手段。アンドロイドは人が箱の中から語るスカイプとはリアリティが違う。ロボットを遠隔操作していると、それが自分の身体と化す。身体感覚の転送。自分を身体として受け容れる。脳と身体は繋がってはいない。人間は自分を知らない。全ては想像、予測である。経験とは何か? それは自分の脳の中にあるだけではない。社会に共有されているのではないか。想像で関われるアンドロイド。電話で相手をぶさいくと思う者はいない。そのイメージはすべてポジティヴ。uncanny valleyについて。手掛かりが少ないと想像で補う。ハグビー。4935円也。存在感。二つのmodality。声+体。見かけ+体。匂い+体。声+匂い。幼稚園での読み聞かせでハグビーを使った例。劇的変化。かたちは5000年前の土偶と同じ。ロボットを通して人間を考える。予定通り60分ジャストで終了。
石黒浩平田オリザの対談「心はどこにあるのか?」質疑応答
アンドロイドを使った作品は全部で6本。『さようなら』は3本目。初演は2010年のあいちトリエンナーレ。ロボットは動かないという条件から詩の朗読を考えた。アンドロイド演劇『変身』は来年5月に再演予定。『変身』を見れば今日の講演は要らない(石黒氏)。心は実在しない。他者が認知することで在るとされるもの。何によって認知するのか。客席からの質問、アンドロイドの声の出所について。自閉症の子は、アンドロイドとなら関われるが、人間は怖いという(平田氏)。ロボットの方が話しやすい。ロボットは嘘をつかない。人間は人間らしいのか。人間の定義は? ロボットを使うとこの問い(定義)が揺らいでくる。巧い役者は何を認知してそう言われるのか、解析する。自分に興味を持っていない人は喋らないと思う(石黒氏)。
客席からの質問(もっとあったが省略)への平田氏の応答はやや攻撃的、石黒氏のそれはやや当惑気味。自分たちの先駆的な試みや研究への理解のなさ、認識の低さに(これまでも)よほど苛立っているのだろう。よく分かる。平田氏の手際のよい進行で19:40に終了した。