F/T13 イェリネク連続上演『光のない。(プロローグ?)』宮沢章夫 演出/イェリネクへの見事な応答/『想像ラジオ』のエコーも

エルフリーデ・イェリネク 作/宮沢章夫 演出『光のない。(プロローグ?)』の初日を観た(11月30日 19:40/東京芸術劇場 シアターウエスト)。

作:エルフリーデ・イェリネク
翻訳:林 立騎
演出/美術:宮沢章夫
出演:安藤朋子 谷川清美 松村翔子 牛尾千聖 大場みな
照明:木藤 歩
音響:星野大輔
協力:ARICA 演劇集団円
制作協力:遊園地再生事業団 株式会社ルアブル
主催:フェスティバル/トーキョー実行委員会
   東京都/豊島区/アーツカウンシル東京・東京文化発信プロジェクト室・東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)/公益財団法人としま未来文化財団/NPO法人アートネットワーク・ジャパン
協賛:アサヒビール株式会社、株式会社資生堂
助成:公益財団法人アサヒグループ芸術文化財
平成25年度 文化庁 地域・文化芸術創造発信イニシアチブ

土俵のように土を盛り上げて作られた長方形の舞台。ただし、下手側は奥に〝廊下〟程度の幅を残して抉り取られ、能楽堂を想わせる真横から舞台を臨む座席がそこに数列設けられている。そういえば廊下は能舞台の〝橋懸かり〟に見えなくもない。
この日 F/Tの他会場公演で遅延が出たため、はしご客が間に合うよう開演を10分遅らせてスタート。
普段着にデイパックやショルダーバッグをかけた四人の女性が裸足で次々に登場し、言葉を発しながらいろいろな日用品を、舞台の矩形を縁取るように置いていく。ピンク電話、地球儀、鍋、石、赤いガソリン携行缶等々。唯一生きている鉢植えの植物(花?)は手前中央に置かれた。生(life)の象徴か。四人に遅れて五十台の女性(安藤朋子)がシテのごとく下手の橋懸かりからゆっくりと摺り足で登場。彼女らの声にはエコーがかかり、時おり強調される言葉がさらに増幅されて響く。台詞はイェリネクのテクストだが、反復や語の入れ替えがあり、たまにイェリネクの言葉に突っ込みを入れる(宮沢の)台詞も混じる。「表象は、上演は、失敗する、それがわたしにはもう見える・・・」(イェリネク)「私は紙とペンを失ったので、ことばを伝えるためには頭で覚えるしかなかったあー」の一節は、何度も繰り返される。後者のフレーズはイェリネクのテクストではないと思われるが、三十代の女性(牛尾千聖)が吃りながら絞り出すように繰り返し発語された。
五十代の女性が懐から取り出しだ数枚の紙でカンニングしながら〝哲学的〟な条りを読み上げる。その紙片を四十台の女性(谷川清美)と二人で暴力的に奪い合うシーンでは、他の女性たちが「・・・必要なら力づくで、暴力は結局どこにもあるから」の台詞を吐きながら、互いの身体を小突いていた。
中ほどで突然エレキギターの激しい音楽が流され、照明も落とされる。一人の女が白い箱に後ろ向きで座っているが、他の若い三人が飛び跳ねながら、舞台に置かれていたモノを次々に取り去っていく。その間、一人の女性(松村翔子)が散らばった例の紙片(イェリネクのテクストが記された)を元の順序に重ね直し、デイパックから取り出したホチキスできちんと留める。このシークエンスでは、逆光のなかで飛び跳ねる彼女らのシルエットが背後のホリゾントに反映しとても美しかった。これは災厄の表象か。やがて、女たちは再び日常品を次々に並べ始めるが、よく見ると、モノが以前とは微妙に違う。中央にあった生を示唆する植木鉢はない。代わりにそこにはラジカセが置かれ、たぶん音楽が流れていた(席が後方のためよく聞き取れなかった)。他にもモノクロの家族写真を入れたフォトフレーム、目覚まし時計、マイホームを想わせる白い2階建て家屋の模型、家庭用シュレッダー(ホチキスで綴じた先の台本はここで一枚ずつ破砕されることになる)等々。
台詞のなかに、『光のない。(プロローグ?)』以外のテクストが混じると、逸脱への突っ込みが即座になされる(ちなみに三部作最初の『光のない。』にある「チューニングアジャスター」は電子機器チューナーではなく、主にヴァイオリン等のE線に装着して弦の音程をネジで微調整する器具)。そのなかで、「女たちに自分の墓は作れない」(?)の言葉が聞こえた。ツェランの「詩のフーガ」のパロディか。ほどなく、舞台奥に四着の白いブラウスが上から吊される。いつの間にか薄暗くなった舞台から、四十代の女性(谷川)を残し、他の四人の女たちはゆっくりと摺り足で下手の橋懸かりを通って去って行く。能の終曲のように。「墓」の台詞あたりから、彼女たちが死者の亡霊のように見え始め、グッときた。だが、まだ退場しきらないうちに、先のハードなエレキロックが大音量で流され、カタルシスを打ち破る。その間、残った女性が客席に向かい、テクストの最終行にあるハイデッガーへの謝辞を大声で叫ぶ、「あなたにもごめんださい、ハイデッガーさん、ただこれが最後にならないでしょう! そう思います」。
結局、イェリネクのテクストはすべて発せられたのだろうか。舞台に置かれた様々なモノは、2年前の『トータル・リビング1986-2011』同様、遺品に見えた。あのときは、モノ(生前使っていた日用品)を媒介に、こちら側の人間による〝鎮魂〟のセレモニーだった。今回は、日本の伝統芸能である能のスタイルを取り入れて死者たちの霊を呼び出し、観客の眼前にその身体を現前させ、その声を聴かせ(「ここで前に立て」=「表象し、上演」し)ようとした。だが「表象は、上演は、失敗する、それがわたしにはもう見える、表象の、上演の欺瞞、それをあなたはここに見る。だがわたしが欺くのではない! あなたが欺く!」――この〝警鐘〟を宮沢章夫は「死者たちからの悲壮な叫び」と読む(プログラム)。結果、震災と原発事故の被災者や犠牲者を、死者たちを「表象(上演)することの欺瞞」という叫びに誠実であるためには、表象/上演しつつ脱表象/脱上演せざるをえない。それが、アドルノの戒めを踏まえたイェリネクの方法への応答なのだろう。見事な応答だった。舞台を見ながら、死者の声に耳を澄ませ「死者と共にこの国を作り直していくしかない」という、いとうせいこうの『想像ラジオ』(2013年3月)のエコーも感じた。
『トータル・リビング』で感取した生理的な違和感は、今回ほとんど感じなかった。イェリネクのテクストと、ARICAや円やチェルフィッチュなど外部の役者の存在が大きかったと思う。