あうるすぽっとシェイクスピアフェスティバル2014 地点『コリオレイナス』

地点の『コリオレイナス』を観た(8月29日 19:30/あうるすぽっと)。
三浦基の演出作品を観るのは、イェリネクの『光のない。』(2012年11月/東京芸術劇場プレイハウス)で強烈な異和を感じて以来、二作目。

原作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:福田恆存
演出:三浦 基
音楽監督:桜井圭介
出演:安部聡子(コロス)、石田 大(コリオレイナス)、小河原康二(男)、窪田史恵(コロス)、河野早紀(コロス)、小林洋平(コロス)
演奏:桜井圭介、Norico
舞台美術:杉山 至+鴉屋
照明:藤原康弘
衣裳:堂本教子
舞台監督:大鹿展明
主催:あうるすぽっと(公益財団法人としま未来文化財団)/豊島区
企画・制作:地点
助成:平成26年文化庁地域発・文化芸術創造発信イニシアチブ

舞台の左右に柱のような棒が立ち、その基部には人が座れる多角形の台になっている。天井の中心部から縄が八の字型に左右へ垂れ下がり両側の柱の天辺へ繋がっている。社の屋根を象ったのか。柱の棒にはカラフルな短冊状の飾りが何枚も付けられ、先の縄と共に、神社の注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)を連想させる。ローマならぬアジア的神殿。あるいは能舞台か。正面奥にアップライトピアノがあり、その前に布が敷かれピアニカや打楽器等が置かれ、桜井圭介とNoricoがここに座って演奏(結局ピアノは弾かず、内部弦をハープのように引っ掻いていた)。
役者は五人ともデニム地をインディゴで染めたような衣裳で、(仮)面を持つ。コリオレイナスだけは虚無僧のように深編み笠(天蓋というらしい)を被り、尺八ならぬバケット(フランスパン)を持つ。いろんな役をこなす四人のコロスはラッパ(コルネット)を肩から吊り下げ、時折、吹いたり(窪田史恵以外は雑音しか出ない)マウスピースを口に当てたまま喋ったりする。細川俊夫のトランペット協奏曲みたいだ(あれは喋らず歌っていたが)。ひとり普通のシャツにズボンの男が、時々、下手から登場し、正面を横切り上手へ退場する。
役者の強靱な発声と巧みな動きに驚嘆。『光のない。』でもそうだった。特にタイトルロールの石田大は、「ちっくしょうめらう(畜生め等)!」の繰り返しが印象的だが、台詞回しのヴァリエーション・レンジが半端でない。腹からの声で凄みを利かせる政治家タイプから、テレビドラマ「のだめカンタービレ」で竹中直人扮するミルヒー(実は有名指揮者シュトレーゼマン)の胡散臭い西洋人訛りもあれば、アニメ声優も顔負けの〝良い子〟まで。表情を含めると生瀬勝久も入っていたか。とにかく変幻自在で圧倒的。音楽のように、あまり意味を結ばず、音として感受される点は『光のない。』と同様。ただし、後半での母親(安部聡子)の台詞はかなり強調やデフォルメが施されながら、その発語が作り出す空間が広々と拡がり、意味がストンと入ってきた。
「ワールド・シェイクスピア・フェスティバル」(2012年)の一環としてロンドン・グローブ座に依頼され制作されたとの由。つまり、原作を熟知した客が前提だ。それならプロットを大幅に削っても問題はなかろう。だが、日本でやると(たとえ「あうるすぽっとシェイクスピアフェスティバル2014」だとしても)大方にはやはり話が分かりにくいと思う。たぶん強烈な異化やおちょくりだけが突出し、何が異化され、おちょくられているのか、あまり判然としないのではないか。それでも、目まぐるしく転調される発語や演技に客席は(やや神経的な)笑いを誘われていた。だが、その笑いは、桜井圭介の音楽同様、チープで低俗のラインすれすれだ。
それにしても、この演出家の取り組みは孤高というか、コリオレイナスみたいだ。民衆(衆愚)に迎合せず、みずから餌(フランスパン)を与えようとはしない。よくやるなあと思う。役者の質はかなり高い。発話の巧みさだけでなく芸もある(窪田史恵のトランペット、河野早紀のバレエ等々)。
舞台を見ながらチェルフィッチュとの近さを感じた。そういえば、共に平田オリザと関係がある。一見すれば、モダンで洗練された印象のチェルフィッチュと、ある意味、暑苦しく泥臭い地点(ジャンボ尾崎池田勇太ばりのダボダボズボンを穿いた三浦のことではない)とでは対照的。だが、共に自分の世界(才能)に拘り、それを曲げずに舞台化する。後者は二作しか見ていないが、そう感じた。国内より海外での評価が高い点も共通する。『光のない。』を再度見たい気もするが、KAATはちょっと遠いし・・・。