『ジャンヌ』―ノーベル賞作家が暴く 聖女ジャンヌ・ダルクの真実―

バーナード・ショーの『ジャンヌ』(聖ジョウン)を観た(9月13日 19時/世田谷パブリックシアター)。
ネットで『MIWA』との抱き合わせが入手条件だったため、11月の『ピグマリオン』への前奏と自分に言い聞かせ、見ることに。ただ、終演は22時13分。長かった。

『ジャンヌ』(聖ジョウン)(1923)
[作]バーナード・ショー(1856-1950)
[翻訳]中川龍一/小田島雄志
[演出]鵜山 仁

[美術]乘峯雅寛 [照明]中山奈美 [音響]清水麻理子
[衣裳]原まさみ [ヘアメイク]鎌田直樹 [演出助手]稲葉賀恵 [舞台監督]北条孝

[出演]
 笹本玲奈今井朋彦/伊礼彼方/大沢健/浅野雅博/馬場徹
 石母田史朗/金子由之/今村俊一/酒向芳/石田圭祐/新井康弘/
 小林勝也中嶋しゅう/村井國夫


[主催]公益財団法人せたがや文化財
[企画制作]世田谷パブリックシアター
[後援]世田谷区
[協賛]トヨタ自動車株式会社/東邦ホールディングス株式会社
[助成]平成25年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業

石造りの壁をベースにしたセットとピアノ曲。『ヘンリー6世』三部作(2009年/新国立中劇場)に出ていた役者が数人。演出はオーソドックス。〝いわゆる〟を打ち破るような革新性は見出せない。それは想定内で、今回はショーの台詞を聞きに来たのだ。が、ジャンヌ役の女優の台詞がなぜか聞けない。というか、ジャンヌが舞台に居ると、一人だけ〝文法〟が異なるような違和感が(ジャンヌ役だからそれでもよいと判断したのか)。声は大きいし、音としてはよく聞こえる。だが、台詞回しや抑揚のつけ方が、いわゆるミュージカル的で、つねに漫画的なヒロイズムがまとわりつく。結果、ことばの意味を解そうとする意欲が萎えてしまうのだ。いまここで、ことばが(抑揚などつけないで)身体のなかから紡ぎ出されてくるような臨場感はない。このひとは基本的に、他の役者と対話するより、歌をうたって気持ちよくなりたいのかも知れない。
総じて達者な役者が多かったが、とりわけシャルルに扮した浅野雅博の、その場を生きる柔らかな演技が印象的。
作品としては、ショーの皮肉が散見され、翻訳者のひとりが言うように、やや理屈っぽいといえなくもない(プログラム)。エピローグは面白かった。未だ、社会はこの聖女を受け入れるほど成熟してはいない、と。ナショナリズムの歴史性。宗教改革以前の歴史に、プロテスタンティズムを読み込む確信犯的アナクロニズムの面白さ。聖職者や教会の媒介なしに直接〝神の声〟を聞いた田舎の小娘がフランス軍を勝利へ導くが、やがて賞賛が恐れへと転化し、異端として火刑に処される。この世から抹殺したのち聖女として祭り上げる社会。本来は、こうした個人と社会との関係にフォーカスされた歴史的なプロセスが、演劇的に可視化される作品なのだろう。
イギリスの演出家ジョン・ケアードは言う――「日本の俳優にはどうも、大きな声で速く台詞は言うけど、その時考えてない人が多い(笑)。でも、それではショーの作品はできません。役者は常に速く考えなければいけない。思考なしでは、芝居の価値がなくなってしまう」(鵜山仁との対談/プログラム)。たしかにそうだが、一方で、だからこそ、あるべき方向へ役者を導く(direct)ために演出家(director)が存在する。これもたしかだろう。