アメリカン・バレエ・シアター『マノン』2014 全3キャスト(2)ケント&ボッレ組/セミオノワ&スターンズ組

二つのキャストについて簡単にメモする。

ジュリー・ケント&ロベルト・ボッレ組(2月28日 18:30/東京文化会館)。

前ブログに書いたとおり、間違えて買ったチケットだが、見ることができてよかった。
ボッレのデ・グリューを見たのは、ロイヤルバレエ来日公演(2005年)でバッセルと組んだとき以来、二回目だ。今回も踊りが大きく、ケント同様、役を生きる在り方で、プラスアルファがよく出ていた。レスコーのコルネホは、第一幕のソロでは強度の高い踊りで、足技も冴えていた(シムキンはさらに柔らかさも含まれていたが)。ムッシューG・Mのロマン・ズービンは、好色な味を出していた。
ケントはいわゆるマノンタイプではないが、自分の中に役との接点を見つけて踊っている感じ。ダンサーとしての成熟を見せられた。出会いのパ・ド・ドゥでは、ボッレとの交感から、踊りに情感が付加された。寝室のパ・ド・ドゥのあと、マノンに上着を着せられ出て行くとき、ボッレ=デ・グリューは、一度行きかけてまた戻り、抱擁する。この間合いが絶妙だった。なにか悪い予感がしたとでもいうような。入れ替わりに、レスコーとG・Mが来て、豪華なドレスを見せられると、ケント=マノンはそのドレスに吸い寄せられるように近づく。G・Mと出て行く前に、ベッドにしがみつくとき、良心の呵責というか罪の意識を感じているさまが見てとれた(ヴィシニョーワと比べると面白い。やはり、地が出るのだ。ケントの倫理性)。第二幕の高級娼館の場で、男たちに次々とリフトされるシークエンスでは、あまりスムーズではなかった。が、沼地のパ・ド・ドゥを含め、ケントは踊りやライン(かたち)より、舞台への献身や役を生きる内的な構えが観客にひしひしと伝わってくる。ボッレもそんなケントを全身全霊で支えていた。
結果、カーテンコールでは、熱い拍手とブラボーがわき起こった。最後には、スタンディングも(ヴィシニョーワ&ゴメス組ではここまで盛り上がらなかった)。喝采を受けるケントの態度は、自然体で気持ちのこもった、まさに善美な在り方だった。ボッレも同様。素晴らしい。客席は、2〜5Fはがらがらで、1Fもサイド(A席)はほとんど埋まっていなかった。それでも、舞台と客席がひとつになり、気持ちのよい充実した公演となった。途中、まさかこうした幕切れになるとは予想できなかった。ほんとうに舞台は見てみなければわからない。間違えて買ってよかった!

ポリーナ・セミオノワ&ジェームズ・スターンズ組(2月28日 13時/東京文化会館)。

全般的に味の薄い『マノン』だった。セミオノワの踊りはスポーティ。あまり精神がみえない、というか情感が出ない。第二幕のリフトされるシークエンスでは、人間がモノ化されることから生じる官能性や退廃が出なければならない。だが、セミオノワから情が見えないのは相手役にも問題があるかも知れない。
デ・グリュー役のスターンズは、挨拶のソロでは、少しあっさりしているが悪くない。だが、出会いのパ・ド・ドゥ、寝室のパ・ド・ドゥともに、二人の気の通い合いが乏しいため、喜びが爆発しない。沼地のパ・ド・ドゥで、セミオノワはギエムのような高性能な踊りを見せたが、受け手から気がはね返ってこないため、倍音が聞こえてこない。
レスコーのジェームズ・ホワイトサイドは、第一幕のソロでは足技等で十全に踊れていなかった。レスコーの情婦を踊ったヴェロニカ・パールトは、情感がよく滲み出るダンサーで、気に入った。物乞いの頭役のジョセフ・ゴラックは、物乞いにしてはノーブルすぎないか。この公演もかなり空席が目立った。1階以外は(特にバルコニーは)3割ほどしか埋まらず。


今回の『マノン』は3キャストでそれぞれ指揮者が異なっていた。セミオノワ&スターンズ組を振ったデイヴィッド・ラマーシュ(指揮者/音楽アドミニストレーター)は、細部に目が届いた丁寧な音楽作り。その分、音楽全体の構成感はやや乏しかった。ケント・ボッレ組のチャールズ・バーカー(主席指揮者)は、逆に、細部よりも全体の骨格や流れを重視。その分ドラマティックだが、やや荒削りな箇所が散見された。ヴィシニョーワ&ゴメス組を指揮したオームズビー・ウィルキンズ(音楽監督)は、構成感もしっかりあるし細部も行き届いてほころびがない。舞台上のドラマへの寄り添い方が絶妙で、素晴らしいバレエ指揮者。括弧内の肩書きはやはり伊達ではないようだ。


配布されたキャスト表には「高級情婦」「情婦」とあるが、これは誤記だろう。「情婦」だと「愛人」になってしまう。「レスコーの情婦」(Lescaut's Mistress)に引きずられたのか。Courtesans は「高級娼婦」、Harlots は「娼婦」または「売春婦」でよいと思う。