F/T13 イェリネク連続上演『光のない。(プロローグ?)』小沢剛 演出・美術/よく分からないが面白い/ゴリラのフラダンサー2人にグッときた

『光のない。(プロローグ?)』の初日・初回を観た(11月21日 14時/東京芸術劇場 シアターイースト)。エルフリーデ・イェリネク作/小沢剛 演出・美術。

なんかよく分からないがとにかく面白かった。
分からないまま、経験した事/出来事をメモしてみたい。
ホワイエから長方形の劇場内へ入ると、座席はすべて取り払われ展示スペースのように黒いカーテンで四つの区域に仕切られていた。壁代わりの黒いカーテンに沿って、いろんなパネルやオブジェが天井から吊されており、どの展示物にもイェリネクの『光のない。(プロローグ?)』のテクストが刻まれている。まるで「耳なし芳一」のお経みたいだ。イエリネクのテクストは、『フェスティバル/トーキョー 12』に付録でついてくることを教えられ、いちおう読んではきたが、『光のない。』や『エピローグ?[光のない II]』以上に分かりにくかった。
最初に眼にするのは書のような縦長の大きなパネルで、黒地に白抜きの手書き文字が縦書きで記されている。板碑の文字を墨や鉛筆で写し取った拓本のように見えなくもない。板碑の場合は梵字だが、こちらはすべて日本語。末尾に「あなたにもごめんなさい、ハイデッガーさん」云々とあるから、テクストの最後の部分だ。左隣の、より小さいパネルには白地に釘で刻んだような文字。二番目の区域にはモミジの葉をうつし取った絵(?)や鉛筆での一筆書きのような抽象画、それからバスルーム等のモノクロ写真もある。三番目の区域の下手には、吊された台の上に形状の異なる複数の瓶が並んでいる。上手側には段ボールの箱を何個も積み重ねたオブジェが二基。箱を横につないだものもある。前者はトーテンポールのように頭上を超えて不安定に聳えている。ほかにも窓ガラス越しに庭を写した写真等々。これらのいずれにもイェリネクのテクストがお経のように丹念に記されているのだ。段ボール箱の文字はカッターで切り込んだものか。いずれにせよ、かなりの手間と労力を要したはずだ。さらに、一番奥の区域まで行くと巨大な岩があり、もちろんその側面にもテクストが読めた。これはなにかのおまじないか。
一通り見終わり、再度、始めから見直していたとき(開場から10数分ほど経っていたか)、二番目の下手のサイドドアからなんとゴリラが闖入してきた。ちょっとびっくり。ゴリラはわれわれ観客を威嚇しながら奥の方へ進み、しまいには例の岩の上で腹ばいになり動かなくなった。やがて、ただならぬ音と共に、すべての展示物は吊り上げられ、仕切りのカーテンも上がっていく。奥の上部からはスモークが漏れ始める。カタストロフィを疑似体験させるつもりか。奥から二番目あたりの下手寄りに、リコーダーを数本括り付けた台が上から降りてくる。台の側面にもイエリネクのテクストが施されていた。笛の指孔には人工の指があてがわれ、自動で開閉しながら奇妙な音楽を奏しはじめる。ほどなく、例の岩は奈落へ落とされ、いまや目を覚ましたゴリラがそこから牝牛の死体を次々と拾い上げる。全部で六頭か。ゴリラはその牛を何度も立たせようとするが、叶わない。するとゴリラは怒ったように牛たちの死体を山のように築いていき、その傍らで、寄り添うようにふて寝したのだ。なんかグッときた。プレルジョカールが振り付けたダンス版『ロミオとジュリエット』の納骨堂の場面を想起した。そこでは、表情をまったく変えないロミオもしくはジュリエットが、死んだ(仮死状態の)相手の身体を、生前の生きた姿に引き戻そうと抱き上げたり、抱きついたりする。まるで動物が死んだわが仔を舐めたり転がしたりするように。だが、死んだものはもはや動かない。感情を示す表情が(見え)ない分、ゴリラが抱く怒りや悲しみが逆にひしひしと伝わってきた。
やがて、劇場の真ん中あたりに白いスクリーンが降りてきて、海辺の映像が映し出される。手のひらのアップ。そこにもイエリネクのテクストが。360度パンするカメラ。被災地の海水浴場だろうか。海辺にはコンクリートの監視台があり、右手に灯台も見える(いわき市の薄磯海水浴場と塩屋埼灯台のようだ。塩屋岬を唄った美空ひばりの歌碑をテレビで見たことがある)。監視台の中段で、白いドレスに顔だけゴリラの〝女〟が首にレイをかけ、ゆったりしたハワイアンの音楽に合わせてフラダンスを踊る。やがてスクリーンが上がると、その背後にいつの間にか白いカーテンが降りており、ゴリラ頭にドレス姿のシルエットが見える。今度はリアルな〝ゴリラのフラダンサー〟の登場だ。思ったより小柄の〝ゴリラ〟がわれわれのすぐ間近でやわらかな、やさしい踊りを踊る。アンディ・ウィリアムズを想わせる甘い歌声。"two" の歌詞を人差し指と中指で〝二人〟と表したのが印象的。指先までとても繊細な踊り(後にネットで試聴したがやはり Andy Williams の声だったと思う。曲はたぶん “To You Sweetheart, Aloha”。終わりの方に 'We two will meet again' の歌詞がある)。曲が終わると、われわれを手招きして一番奥の区域へ導く。そこにはすでにフラダンサーの姿はなく、ブルーシートの大きな袋が所狭しと数多く置かれており、その上に別のゴリラが乗っている。死んだ牛たちと一緒に寝ていた全身毛むくじゃらのゴリラが。例の自動リコーダーが奇妙な音楽を鳴らし始める。正面の壁には「光のない。(プロローグ?)」の大きな文字が。袋のなかには除染で出た汚染土などの廃棄物が詰まっているのだろう。やがて、ゴリラは悶えながら、下へ沈んでいった。アテンダントの女性がサイドドアを開け、上演が終了したことを示唆する。廊下へ出るとそこにもブルーの袋が一つ。ホワイエにもひとつ置いてあった。時計を見ると、14:46。
うーん。やはりなんかよく分からないが面白い。イェリネクのテクストにある表象(上演/前に立てる)の問題については検証が必要だが(震災・原発事故の直後、気になって小島威彦訳のハイデッガー『技術論』を読み直し加藤尚武の解説書を参照したりしたのだが、よく分からなかった。今度は関口宏訳で読んでみよう)。昨年の高山明による『光のない。(エピローグ?)』と接続するような趣きもある(今年の『東京ヘテロトピア』は初日の13時からスタートしたが三つ目のポイント=芸劇前の広場で早々に気持ちが萎えた。制約=不自由ゆえに演劇を愛する怠け者には自由すぎるとめげてしまう)。
帰り際に渡されたプログラムに「フラダンサー プロフィール」が挟み込まれていた。全身毛むくじゃらのゴリラと、顔だけゴリラのフラダンサーは、三井幸子と我妻純子が演じたらしい。二人とも、スパリゾートハワイアンズ付属常磐音楽舞踊学院(福島県いわき市)出身のフラダンサーとある。我妻氏がゴリラ(雄?)で、三井氏が顔だけゴリラ(雌?)のフラダンサーだろうか。いずれにしても、ゴリラの動きは野性的で愛嬌もあり、牛の死体とのやりとりなどは見事だった。一方、ゴリラのフラダンスは、先に記したとおり、とてもやわらかできめ細やかな動きが見ていてとても心地よく、フラダンスのよさを間近で感じることができた。