ARICA 第24回公演『ネエアンタ』/山崎広太主演のベケットに基づく舞台/亡霊の現前に違和感

『ネエアンタ』の初日を観た(2月28日/森下スタジオ Cスタジオ)。
山崎広太がベケットに基づく舞台に出演するという。最近、ベケットの後期作品と舞踏との親近性について、また、米沢唯のジゼルを見ながらダンサーが亡霊を生きることについて、考えさせられたばかり。これは見逃すわけにはいかない。
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演出・テクスト構成:藤田康城
テクスト協力:倉石信乃
出演:山崎広太・安藤朋子
舞台監督:鈴木康郎
照明デザイン:岩品武顕
音響デザイン:田中裕一(サウンドウェッジ)
機械装置:高橋永二郎
美術製作:渡部直也
グラフィックデザイン:須山悠里
協力:前田圭蔵・久保風竹・茂木夏子・猿山修
制作:須知聡子
助成:芸術文化振興基金、公益財団法人セゾン文化財
主催:ARICA

ベケットのテレビ作品『ねえジョウ』(1966)に基づいた舞台。60名程度の階段席が設えられ、寝室を画する白い床を見下ろすかたち。正面奧にはカーテンが引かれた窓付きの白い壁。その上手寄りにベッド。下手側はオープンで部屋を画する壁はなく、冷蔵庫がある。上手手前にドア。すべてが白ずくめ。上部から吊り下げられた電球がひとつ。セットはこれだけ。
パジャマに赤茶色のガウンを着た「くたびれた中年の男」(山崎広太)がベッドの縁に座っている。やがて、「かつて男とつきあっていたが、既に死んでいるらしい」女の声(安藤朋子)が聞こえてき、「男の惨めな半生を語っていく」(藤田康城/プログラム)。声は、原作では「低く、はっきりと、遠くから聞こえてくるような、色合いの乏しい声、普通の話し方よりやや遅い調子を、厳格に守る」との指示(高橋康也訳)。安藤は、声にいくぶん不気味な色合いを込め、各センテンスの末尾で、男を焦らし弄ぶように、音を引き延ばして発語する。テクストは日本の観客に分かりやすくアレンジされ、宗教的なコノテーション等は弱められていた。
原作のテレビ映像は見ていないが、そのト書きには、女の声が語る各パラグラフ間の「約7秒」にカメラが「九回の前進運動によって」約10センチずつ「顔に近づいていく」とある。つまり、その都度カメラが男の顔をクロースアップする度合いを増していくわけだ。この舞台では、各パラグラフの末尾で、吊り下げられた電球が数回点滅すると同時に照明が弱められ、上手手前のドアが少し開き、風鈴のような、あるいはギターのグリッサンドを多用したような効果音(音楽)が聞こえてくる。声の主(霊)の気配を感じさせるうまい演出だ。原作では、男が窓やドアや戸棚(今回は冷蔵庫)を確かめる動作をおこなうのは冒頭だけ。一方この舞台では、テレビと舞台の〝文法〟の違いを考慮したのだろう、電灯の点滅後、男は毎回その動作を繰り返す。女(霊)の気配の淵源を断とうとするように。霊の気配が消えると照明が元に戻り、再び女の声が聞こえてくる。この繰り返し。その都度、背面の壁と上手寄りに置かれたベッドが観客側へ少しずつ近づいてくる。カメラのクロースアップと類似の効果を狙ったのかも知れない。
やがて、何度目かの電灯の点滅後、上手のドアが開き、今度は女の手が伸びてきてドアノブをまさぐる。あるいは、下手奥に置かれた冷蔵庫の背後で白い服を着た女が床を匍匐し、冷蔵庫を押して客席へ近づける。男は、その都度、ベッドから立ち上がり、ゆっくりと摺り足でドアの方へ歩いていき、ばたんとドアを閉める。あるいは窓辺へ近づき確かめるようにカーテンを開け、さっと閉める。あるいは冷蔵庫の方へ歩いていき、ドアを開け、中を覗き込み、ばたんと閉める。あるいは閉まった冷蔵庫のドアを叩く。はじめはその動作により、例の風鈴やギターの音(霊の気配)はぴたりと止むが、やがて、そうした制止の行為も効かなくなる。
すると、白い服の女は堂々と部屋に全身を現す。上手のドアから、あるいは下手の冷蔵庫の背後から。後者では、長い衣装のなかに高下駄でも履いているのか、男より数段背丈が高い。ついに男は発作を起こしたように全身を痙攣させ、激しく身体を揺らし始める。自身に取り憑いた汚い霊を振り払うように。懐かしい。ドリルで岩盤を砕いていくようなかつての〝広太踊り〟を想い出した。原作のテレビ作品は、男の顔(姿)を写しながら女の声が聞こえるだけ。後者が姿を現すことは一切ない。この舞台版では、手や身体の一部が観客に見えるのみならず、終いにはすたすた舞台へ登場し、ベッドで逆立ちしたり大胆な動きを見せる。最後に女はペットボトルから水を飲む代わりに口と手で潰し、かなり手前まで移動していたベッドと背後の壁をかけ声と共に元の位置へ一気に押し戻し、暗転となる。
広太が摺り足でゆっくり移動するだけで、そこには注視を促す密度が生じる。また、女の声が「男に振られ、ついに海で自死した「緑の女」の顛末を語る」とき、ベッドに座った広太の両手は、女の言葉に反応するように、微妙な動きを見せ、眼が離せなかった。
原作のように、女が声だけでまったく登場せずとも舞台は成立したのではないか。その場合、広太はもっぱら「踊らないことで成立するダンス」を実践することになっただろう(山崎広太/プログラム)。そのほうが舞台(虚構)の純度は高まったはずだ。一般的な娯楽性は反比例したかも知れないが。だが、実際は踊った。「幽霊の女」が舞台に登場したために、虚構の〝文法〟から、「言葉のない男」(広太)の踊りを許容した、あるいは要請したといってもよい。お陰で広太の踊りを見ることは出来た。女の身体の一部が舞台に現前するのはOKだと思う。だが、Inspired by Samuel Beckett だとしても、女がそのまま姿を現すのはやはり違和感がある。まして、最後の一連の大胆な行動は、虚構のルールから逸脱していないか。そもそも女のあの白い衣装は〝セゾン文化人〟(知人の言葉)のテイスト以外にどんなコンセプトがあったのか。こうした疑問は残ったが、見る価値のある興味深い舞台だった。