新国立劇場 演劇『つく、きえる』

シリーズ「With ─つながる演劇・ドイツ編─」『つく、きえる』の初日を観た(6月4日/新国立小劇場)。

作:ローラント・シンメルプフェニヒ
翻訳:大塚 直
演出:宮田慶子
美術:土岐研一
照明:佐藤 啓
音響:長野朋美
衣裳:高木阿友子
ヘアメイク:川端富生
演出助手:大澤 遊
舞台監督:澁谷壽久
配役
眼鏡をかけた若者:中村 蒼
自転車を持っている娘:谷村美月
Z夫人(頭を二つ持つ女):田中美里
A氏(口のない男):松尾 諭
A夫人(石になった女):枝元 萌
Y氏(燃える心臓を持つ男):津村知与支
Y夫人(蛾):河合杏南
Z氏(死んだ魚):大石継太


公演とサッカー日本代表のW杯最終予選がダブったため、試合中継を録画予約して劇場へ。・・・帰宅後、口直しにオーストラリア戦の録画を見た。Yahoo やテレビのニュースをいっさい見ないで。ビールを飲みながら。・・・ブラジル行きは決まったが、勝てなかったのか。
芝居は、正直がっかりした。ただし、台本を読んでいないため、本そのものがつまらないのか、演出等のせいなのかはよく分からない。上演から勝手に逆算すると、ほかに遣り様があったのではないかと思えなくもない。再度の口直しに、その〝勝手〟を書かせてもらう。
作者は「フクシマでの出来事を考えるような作品」を創作するに当たり、まず「コメディをやろう。恐怖には笑いをもって立ち向かおう」と思ったという(プログラム)。なるほど、3組の夫婦については戯画的な可笑しさを狙ったと思わせる部分もないではない。だが、見たところとてもコメディとはいえない舞台だった。北斎の「神奈川沖浪裏」から津波が打ち寄せるイメージが映し出されたら誰も笑えないし、海中のイメージや「Lacrimosa」の音楽も同様だが、それだけではない。ただ、やり方次第では、たとえば、役者の台詞回し等を工夫して、もっとクールに、ある意味、人工的な乾いたトーンでやれば(それに近い役者もいたが)、抽象的なエロティシズムが出せたのではないか。ハロルド・ピンターの芝居のような。ブラックコメディー風に。
シンメルプフェニヒは時間が前後する『昔の女』(倉持裕演出/2009年)しか観ていない。彼の「登場人物は極度に簡素化された舞台に一種の「語り手」として登場し、自分の行動を客観的に物語る」らしい(翻訳者=大塚直「シンメルプフェニヒの劇世界」プログラム所収)。なるほど、今回の舞台でも震災が起きた「あの日」の自分の行動をナレーションの視点で「客観的に」語っていた。

内省する主体の「心の声」のようなテクストが提示される。と同時に、今度は主観的にその「語り」をなぞるかのように報告された物語を身体化していくのである。(大塚)

タデウシュ・スウォボジャネクの『NASZA KLASA』(高瀬久男演出/文学座アトリエ)にも独特の「語り」があった。そこでは対話と傍白(独白)の2種類を巧みに語り分け、後者では、当事者自身がその出来事をのちに「過去」として振り返り省察しているように感じさせる効果があった。観客は歴史の現在(いまここ)を目の当たりにしながら、それを過去の出来事として俯瞰的に見る視点を同時に与えられたような(文学座アトリエ公演『NASZA KLASA ナシャ・クラサ』 異なる話法の語り分けについて - 劇場文化のフィールドワーク)。
他方、今回の芝居には基本的に対話がない。ほとんどない。第2幕「きえる」の冒頭、3組の夫婦が密会のホテルから帰宅後、倒れた椅子を元に戻しながら交わすやりとり等を除いて。では、シンメルプフェニヒの「語り」(傍白/独白)はどんな効果を狙っているのか。この問いは、演出家が台本に潜在する様々な可能性を最大限に生かしうるフレーム構想のなかで(それこそ演出家の仕事だが)すでに何度も反芻した問いだろう。だとすれば、演出家はそれをどのように解釈し舞台化したのか。いまいえるのは、語る役者(役)へ観客が安易に感情移入するの阻んだこと。それが見る者に想像し考える余地を与えた可能性はあるが、たんに「つまらない」と思わせただけかも知れない。あるいは・・・。演出家はいわゆるリアリズムとは異なる方法(フレーム)を確信的に見出していたのかどうか。少なくとも面白がって演出しているようには思えなかった。それほど面白くない本だったのか。
港の小さなホテルを運営する「若者」と、丘の上の時計台で仕事をしている「娘」は携帯メール(SMS)でやりとりしていた。一方、そのホテルで3組の夫婦は定期的に密会していた。だが、「あの日」(月曜日)不倫を重ねていた3組の夫婦は生き残り、プラトニックな恋愛をしていた二人の若者はおそらく津波で死んだ。たぶん。よく分からない。
谷村美月は惨禍における〝星〟を表象しえた。大石継太と枝元萌は台詞回しが軽妙でクリア。田中美里は姿形がきれい。津村知与支は動きは自在だが少し叫びすぎの感も。中村蒼はまさに好青年。河合杏南は安定した台詞と動きに味を加えたい。松尾諭は『てっぱん』での人間味がここでは幾分〝重い〟との印象も。
舞台を見るかぎりでは、同じく東日本大震災とフクシマ原発事故の問題を取りあげたイェリネクの『光のない。』(三浦基演出)や『光のない II ―エピローグ?』(高山明構成・演出)の方がはるかに演劇的なクオリティは高いといわねばならない。もちろん、台本を読めばまた別の可能性が見出せるのかも知れないが。
似たような主題もしくは設定で、日本にも優れた演劇作品がある。ひとつは深津篤史の『珊瑚囁』(栗山民也演出/2009年)。新国立演劇研修所2期生の修了公演用に創作された作品で、神戸の震災時にコンクリート等で下敷きになった死者たちに声=言葉を与えた鎮魂歌だが、作者は「ファンタジー」と呼んでいた。もうひとつはチェルフィッチュの『三月の5日間』(岡田利規演出/2004年)。残念ながら生の舞台を見ていないが、アメリカによるイラクへの空爆という深刻だが遠い国際情勢と渋谷のラブホテルでの若い男女のアフェアとの対比が、やはり主体を移行させた独特の(確信的に演出された)「語り」で展開される作品(DVD)。
笑い(コメディ)は文化的なローカリティが障害になることもある。『効率学のススメ』でもかなりスベっていた。中途半端なコメディより、直球の悲劇にした方が文化のバリアをクリアしやすいかも知れない。