北とぴあ国際音楽祭2013《フィガロの結婚》/アクシデントが顕在化させた舞台芸術の醍醐味

フィガロの結婚》を聴いた(11月24日 14時/北とぴあ さくらホール)。

北とぴあ国際音楽祭2013
モーツアルト作曲 歌劇《フィガロの結婚
セミ・ステージ形式/全4幕/イタリア語上演・日本語字幕付


指揮:寺神戸(てらかど) 亮
アルマヴィーヴァ伯爵:フルヴィオベッティーニ
伯爵夫人:クララ・エク
フィガロ:萩原 潤
スザンナ:ロベルタ・マメリ
ケルビーノ:波多野睦美
マルチェッリーナ:穴澤ゆう子
バルトロ:若林 勉
バジリオ/クルツィオ:櫻田 亮
アントニオ:小笠原美敬
バルバリーナ:澤江 衣里
村の娘:広瀬奈緒/横町あゆみ
管弦楽:レ・ボレアード(オリジナル楽器使用)
合唱:北区民混声合唱

主催:(公財)北区文化振興財団
共催:東京都北区
助成:平成25年度 文化庁 地域発・文化芸術創造発信イニシアチブ/公益財団法人 三菱UFJ信託芸術文化財団/公益財団法人 朝日新聞文化財

寺神戸亮の「指揮ノート」によれば、今回は「音楽と作品そのものに集中できるような舞台にしたい」ため、当時と同様演出家をつけず、指揮者が「歌手の出入りや位置を決め、簡単な照明効果をつけるのみで、後は歌手達、演じ手の自然で自由な演技に任せ」るとの由(プログラム)。セミ・ステージ形式ならそれも可能だ。
開演直前「ケルビーノ役の波多野睦美が体調不良のため、穴澤ゆう子が声の代役を務めるので了承願いたい」とのアナウンスがあった。穴澤はマルチェッリーナ役で出演するメゾソプラノ。どのように代役するのか。そういえば両役は出番がかぶらない?
オケはステージのやや奥に位置し、その手前のスペースにソファーが置かれている。指揮者が登場し、序曲がスタートする。少し遅めのテンポだが、古楽器独特のバシャン・バシャンという拍節感が心地よい。
やがてケルビーノ役の波多野がふつうに舞台へ登場し、スザンナ役のロベルタ・マメリとやり取りする。だが声を発することはなく、代わりに穴澤がマルチェッリーナの衣裳のまま歌う。始めは下手奥の袖でスコアを両手に身体を半ば隠すように歌っていたが、やがて、ティンパニー横(中央より少し下手)の譜面台前に陣取った。オケ部分は照明を落としているため、指揮者がティンパニストへ穴澤の譜面台ライトを点けるよう指示する場面も。穴澤はケルビーノが歌わないときも必死で譜面を追っている。ほとんど初見かも知れない。一幕はなんとかこなしたが、二幕では、例の アリエッタ(Voi che sapete . . .)を歌ったあと引っ込んでしまい、その後のケルビーノのレチタティーヴォは、字幕は出るが、本人は口パクだけの奇妙なものになった。相手役のマメリや伯爵夫人のクララ・エクらはさぞやりにくかっただろう。だが、そうしたところはおくびにも出さず、役に集中して歌い、演じていた。
休憩時スタッフに問い合わせたら、声の代役は開演10分前頃に決まったとのこと。だとしたら、十分な打ち合わせの時間はなかったのだろう。
前半は、上記のようなアクシデントもあり、演出家をつけないことが裏目に出たような印象もなかったわけではない。が、他の出演者たちが〝非常事態〟を忘れさせる熱演で徐々に舞台を盛り上げていった。
特にスザンナのロベルタ・マメリは、2年前の《コジ・ファン・トゥッテ》におけるドラベッラ同様、芝居気たっぷりに動き回り、持てる力を全身で舞台に注ぎ込む。なかでも四幕の "Deh vieni non tardar" は集中度抜群で、寺神戸の指揮は自分の背後に立つ彼女に阿吽の呼吸で寄り添い、とても感動的なアリアとなった。フィガロの萩原潤は温もりのある造形。歌唱は部分的にはもっと安定感が必要だが、陽性の存在感で好演した。伯爵夫人のクララ・エクはドラマティックな歌声で舞台を音楽的に引き締めた。アルマヴィーヴァ伯爵のフルヴィオベッティーニは歌唱は少し軽いが、相変わらずお茶目で舞台を冷えさせない。ケルビーノ分も歌ったマルチェッリーナの穴澤ゆう子は、カーテンコールで聴衆のみならずオケからも一番の喝采を浴びていた。波多野睦美は演技だけの口パク出演は本意ではなかったかも知れない。だが、先発投手の最低限の役割がゲームを作ることだといわれるように、なにより舞台を〝作る〟ことを最優先した今回の寺神戸および波多野の決断は称賛されてよい。バジリオとクルツィオを受け持った櫻田亮は美声のうえにクリアなイタリア語で脇を固めた。カットされることの多い25番のアリアも楽しめた。澤江衣里のボーイッシュで素直な歌声はバルバリーナ役に合っていた。
四幕終景の伯爵がひざまずく 'Contessa perdono!'と伯爵夫人の呼応は、思いっきりゆったりしたテンポで歌われる。結果、全員での 'Ah tutti contenti/Saremo cosi' の賛美歌のような響きは時間が止まったように美しかったし、続くAllegro assai の疾走感は心が浮き立つようだった。
やはりモーツアルトにはチェンバロではなくフォルテピアノ(上尾直毅)が似合っている。
アクシデントがかえって全員の舞台への献身度をいっそう高め、結果、観客席との心的交流を喚起する素晴らしい公演となった。演技者と観客/聴衆が〝いまここ〟を共有しながら創り上げる舞台芸術ならではの醍醐味である。