「rendance 世代間の対話」/Whenever Wherever Festival 2013/即興性をめぐって

「rendance 世代間の対話」を観た(10月13日 18:00/森下スタジオ B)。この日は錦糸町新日本フィルの定演を聴いた後、地下鉄で森下へ。Whenever Wherever Festival は第5回とあるが、見るのはこれが初めて。テーマは「即興の再生」。ダンスというより舞台芸術一般への興味関心から簡単にメモする。

出演:
アダチマミ、石黒節子、大倉摩矢子、川田夏実、木野彩子、
アキオキムラ、古関すまこ、齋田美子、櫻井拓斗、新宅一平、
杉田丈作、鈴木一琥、砂川佳代子、武元賀寿子、田中いづみ、
田村智浩、中保佐和子、根岸由季、松本雄介、武藤容子 ほか


プログラム・ディレクター:山崎広太
プログラム・コーディネーター:佐藤美紀、印牧雅子
企画/主催:ボディ・アーツ・ラボラトリー
助成:公益財団法人セゾン文化財団/芸術文化振興基金

開演前、一階のソファーで本を読んでいると、奥で若い女性4人が一斉に煙草を吸い始めた。灰皿らしきものがあるのでOKなのか。煙(の臭い)は容赦なくこちらへも漂ってくる。堪らず外へ避難。すると、若い男性が出てきて煙草に火を点け、外の自販機前で缶に灰を落としながら吸い始める。こうでなくっちゃ。開演5分前を過ぎた頃、男たち数人がパイプ椅子を二階へ運び始めた。その一人は山崎広太だが、背筋を伸ばし腰を落とした佇まいが、昔見たハーウッドの芝居『ドレッサー』で平幹二朗扮するノーマンそっくり。ノーマンは、劇団の老座長(三津田健)に献身的に尽くす付き人でアル中のオネエ系。
タイトルの「rendance」は連歌(renga)のrenとdanceを合わせた造語らしい。
靴を脱ぎスリッパに履き替えて横長のスタジオへ入る。パイプ椅子が三方の壁に沿って(正面は二列に)並べられ、中央にマイクスタンドが見える。観客は出演者20余名と混ざって座ることに。だれが出演者なのか私にはほとんど区別できない。スタッフを含め全部で50人ほどか。
最初に山崎広太がマイクの前で簡単な趣旨説明。ちょっと分かりにくかったが、これまでの反省から今回は「ダンス」よりも「ことば」にフォーカスするということか。連歌のように、次々に〝踊る〟というより〝ことば〟を紡いでいく。そこから「即興」について再考したいのだろう。
世代を超えた「ダンサー・振付家・舞台関係者」20余名が、一人3分ずつ(守ったのは数名に過ぎず1時間の予定が2時間15分もかかった)中央のマイクの前で話をする。終わると紙袋から籤を引き次の人を決める。トップバッターだけ山崎氏が籤を引いた。
ただ喋るだけの人。踊りながら登場して喋る人。喋りながら踊る人。喋ったあと何かする(踊る)人、等々。
おじの手術の話をしたGパン女性の語りは印象的。途中で横を向き、「どう話を続けたらよいのか」とでもいうように頭を抱え腕を組み何度も中断する。再びマイクに向かい、直前に話したフレーズを二度、三度、あるいは四度、繰り返してから、先へ進む。まるで語りのゼンマイを巻くみたい。これを数回反復して終わる(というか時間が話を切断する)。結局、本人が予告したような、涙を流す(聞き手に流させる)カタルシスは訪れない。はじめからその気はなかったのだと思う。が、語りの強度はかなり高かった。つまり、ことばを紡ぐときの身体のありようが濃密。ことばが〝いまここ〟で内側から湧出していくプロセスが身体を通して可視化されるような感触(実際はあらかじめ綿密に準備していたとしても)。後に彼女は、アルコール依存症の話をした男性に呼び出され、絡みのダンス(動き)をすることになる。
追突の話をした中年男性が、最後に、ポリ袋から金属の長いホース(?)を取り出して息を吹き込み「新しい音」を披露した。
白髪を一本初めて発見した36歳の女性の動きはチェルフィッチュを想起させる。あの奇妙な動作がなければ即興性(臨場性)はかなり弱まったのではないか。
相馬の民謡が流れるなか喋りながら踊った中年女性の下駄音(タップ?)は日本的というよりアジア的だった。
道に迷い森下の街を25分も歩き回った岡山出身の女性は、昔、おじの占いで結婚の運気が高いと告げられた話。当時すでに結婚していたにもかかわらず。だが、このオチよりも、登場時のぐにゃぐにゃした踊りや佇まいの方に濃い味わいがある(迷っていた彼女に偶々森下の交差点で道順を訊かれ会場まで同行したのだが、その在りようがすでに味わい深かった)。
この日稲刈りをしてきた男性の、カマキリがイナゴを食べる話。経験の厚みが語りに強度を加えていた。
サーカスで働いていた女性は、隣席の小学男児を喜ばそうと、キリンの運搬方法について話した。が、その子は椅子で爆睡。
小学生ダンサー拓斗くんの踊りは伸びやかさのなかに秩序があり、気品も漂う。26日には「子供(拓斗くん)が大人(コンドルズの振付家・ダンサー藤田善宏)に振付る」らしい。
「気が弱い男」の一人芝居(演技)はいくらか笑いを取った。だが、そこでは即興性よりも作り物(フィクション)性が勝り、語りのゼンマイを巻いた女性とは対照的。拓斗くんの「そこのメガネ、声が小さいぞ!」は仕込みか? 「気が弱い男」の話をするのでも、演じるのもなく、その場(いまここ)で生きること。それが即興性に、「即興の再生」につながるのではないか。そのためにはどうすればよいか。自分をさらけ出す? だが、どの〝自分〟を?
最後に山崎氏から締めのことばを指名された88歳の女性は、出演者ではなかったようだが、話も動きも破格でじつに面白かった。即興の極致といえなくもない。誰も真似はできない。
いや、どの出演者のパフォーマンスもそう。真似することなどできない、オリジナルなものだった。
いつ自分の出番が来るのか分からないまま待つのは楽ではなかったろう。特に後半は。見る方も結構しんどかった。それにしても、世の中(というよりダンサー)にはじつに色々な人が居ることを間近で味わうとても奇妙な時空間。いま思えば、結果的に「世代間の対話」が成立していたといえなくもない。マイクや音源の調整はもっときっちりやって欲しいが。これも即興の要素なのか。