新国立劇場オペラ《松風》[新制作・日本初演] 初日と2日目の感想

オペラ《松風》の初日と2日目を観た(2月16日 19:00, 17日 15:00/新国立劇場オペラハウス)。
やっと細川俊夫のオペラが新国立劇場で上演された。素直に嬉しい。声のパートをトランペットやオケにアレンジした「松風のアリア」だけは2013年にサントリーホールで聴いていた。オペラといっても、サシャ・ヴァルツが演出・振付した「コレオグラフィック・オペラ」。細川氏がヴァルツと知り合うことで生まれた新しいオペラらしい。

全1幕〈ドイツ語上演/字幕付〉(2011年5月 モネ劇場 世界初演
作曲:細川俊夫
指揮: デヴィッド・ロバート・コールマン
演出・振付: サシャ・ヴァルツ
美術:ピア・マイヤー=シュリーヴァー、塩田千春
衣裳:クリスティーネ・ビルクレ
照明:マルティン・ハウク
ドラマツルグ:イルカ・ザイフェルト
音楽補: 富平恭平
ヴォーカル・アンサンブル: 新国立劇場合唱団
管弦楽: 東京交響楽団
ダンス: サシャ・ヴァルツ&ゲスツ


松風: イルゼ・エーレンス
村雨シャルロッテ・ヘッレカント
旅の僧: グリゴリー・シュカルパ
須磨の浦人: 萩原 潤

初日は1階15列の中央から。舞台を見ながら、ヴァルツの踊りや動きと細川の音楽が必ずしも合っていないように感じた。音楽が創り出す静寂や沈黙をもっと活かせる演出家が他にいるのではないか、と。これが率直な第一印象だ。一方で、ヴァルツが細川の音楽にもたらしたのはある種の〝豊さ〟なのかとも思い直す。これはこれでひとつの世界だと。
《海、静かな海》(2017)では、平田オリザが台本の元を書き、彼が演出した。ハンブルクには行けずBS放送で見ただけだが、細川音楽の特質がよく分かる(聴き取れる)舞台となっていた。そう感じた。初日を見ながらヴァルツの演出に違和感を覚えたのは、こちらが能の世界と地続きの文化に生きているからか。
蜘蛛の巣のようなセットで上から二人の女性が降りてきて、宙吊りで歌う。これは僧侶の夢(脳内)の中なのか。後半は二人が住む小屋の骨組みだけの、あとは何もない空間で展開される。コロスはピットのカミテ、僧侶はシモテで歌う。狂乱の舞の後、強まる風の音と共に、上から大きな松葉(針葉)が降ってくる。次々と。風の力で葉が落ちていく長大な時間の経過を表しているのか。松葉の堆積に埋もれた死者たち? 夢の中で数百年前の歴史を遡っていた時間が、一気に巻き戻され現在へと還帰してくるような印象を受けた。もっとも心動かされたシーンだ。ラストは、そこから白い服の女性がゆっくりとカミテ手前に歩いてくる。とてもゆっくりと。再び死者の霊が物語を始めるかのように。そこでゆっくり溶暗して終わる。
ソプラノ(イルゼ・エーレンス)の質の高い歌唱と動き。メゾソプラノシャルロッテ・ヘッレカント)の歌唱の深さとパトス。バス(グリゴリー・シュカルパ)は正確な歌唱だが、僧侶としてもっと奥行きが欲しい気もした(若すぎるのか)。バリトン(萩原潤)はOK。コロス(ヴォーカル・アンサンブル)は、ドイツ語がやや甘い印象も。

2日目は2階の左バルコニーから見た。今度は少し細かくメモする。何もない空間に無音でダンサーが登場。シモテにコロスが。手足をゆったり伸ばす、勅使川原三郎ばりの、太極拳のような動き。志摩の浦の自然をダンサーたちの身体運動で創り出す。波の音や風の音等々。やがて旅の僧がカミテから登場。松の木の謂れについて尋ねると、二人の貧しい潮汲み姉妹と在原行平との悲恋を語る浦人。ダンサーたちは須磨の浦の松林をかたどったり二人の女性と行平との関わりを連想させる動きを見せながら、様々に踊る。顔のない男は松の木を表象しているのか。やがて奥から蜘蛛の巣のような網のようなスクリーンのセットが見える。さらに、その網と繋がった数本の紐の端を持つひとりの女性が手前(客席の方)に進み、その紐を顔のない男(松)に引き継がせる。男は紐を持ったまま階段を降りてピットの中へ。その間、カミテにいた旅の僧は先の紐をくぐりシモテへ移動して横たわり、眠る。その後、僧役の歌手はピットのややシモテ寄りに、コロス(ヴォーカルアンサンブル)はピットのカミテ寄りに陣取る。蜘蛛の巣セットはいつの間にか舞台の手前に迫って来ている。僧侶が見ている夢の世界をわれわれ観客の方に侵食させ、共有させる仕掛けか。
・・・潮汲み女の姉妹がシモテから現れ、水の滴る音のなかスクリーンの前で潮を汲む。すると蜘蛛の巣ネットの上部(天)から白服を着た二人の女が現れ、ネットに絡まった宙づりのまま歌い始める。「めぐるめぐるこの車・・・潮曳きの車・・・」。《神々の黄昏》で運命の綱をあざなうノルンみたいだ。下方には一人の女性ダンサーが・・・。ネットの前で二人のダンサーが踊る。同時に、ネットの向こうで同じ動きをする別のダンサーたち。・・・塩田千春の蜘蛛の巣のようなセットは、ふたりの女が妄執に絡め取られたありようを表すようだ(塩田の美術は2009年に岡田利規演出のデーア・ローアー作『タトゥー』で初めて見た。あの時も宙吊りになった沢山の白い窓枠のような家具のような物体の集積だったと記憶する)。
・・・潮汲み女に一夜の宿を請う条りを僧がピットで歌う。女たちは一度は断るが僧だと知って承諾する。・・・この前後で蜘蛛の巣ネットは消え、姉妹が住む小屋の骨組みのみのセットがそれに代わる。行平に寵愛されたエピソード等々・・・
松風は松の木を愛しい行平だと思いこむ。村雨は一度はそれをたしなめるが、やがて彼女も行平と認める。姉妹の対(共同)幻想。男のダンサーが行平の形見の烏帽子を長い棒の先に刺し、走り回る。顔のない男(松)と松風とのからみ(パ・ド・ドゥ?)と同時に、別のふたり(分身)が同じ動きを後方で。松風が顔のない男(松)にへばりつくシーンは交合なのか。ちょっとコミカル。
・・・やがて天から大きな松葉(針葉)が降ってくる。次第に強まる風雨の音と共に。その間、人々は奥で背中を向けて佇んでいた(昨日は横たわる人々の上に落ちたと思い込んでいた)。松葉が落ちきると、ややシモテ奥の二人のダンサーが、落ちた松葉の下に身体を入れて重なった松葉を背中で持ち上げる。他のダンサーたちは死体のように地に横たわる。そしてひとりの白服の女性がゆっくりカミテ手前の方に歩いてくる。摺り足ではないが能のようにたいへんゆっくりと・・・。
コロスの発する息の音や鈴の音。フルートも横笛や尺八のように息の音を発しながら演奏。パーカッションの即興のような打音等が印象的。あとは波や風や水滴の音(これはテープらしい)。女性二人の幽玄な歌唱・・・。
この日はアフタートークが1時間おこなわれた。出演は細川俊夫とサシャ・ヴァルツに司会の柿木伸之+通訳(ドイツ語)。1階はほぼ満席で2・3階にも結構埋まっていた。これだけ盛況なトークはこの劇場では初めて見た。細川氏は相変わらずユーモラス。司会者のパラフレーズは長すぎないか。内容は略すが、ひとつ印象的だったやりとりがある。2011年5月初演の直前に東日本大震災が起き、二人は強い衝撃を受けた。演出プランの変更について議論したが、結局は当初のプラン通りに行った。と、ここまではプログラムの作品ノートに記されている。ただし、トークの際、細川氏は、例の松葉が落ちてくるシーンなどは、震災の影響があるのではないかとヴァルツに問うたのだ「どうなんでしょうか」と。すると、彼女は、それはない、あれは、われわれも自然の一部であることを示す、希望のイメージだ、というような意味のことを言ったように思う(正確ではないが)。あの場面でグッときたことは上記の通りだが、それは、たぶん死者と歴史(時間)のイメージを感じたから。だが、演出家は「希望のイメージ」で作ったという。これも彼我の文化の違いだろうか。
プログラムの上演記録を見ると、過去13公演のうち、ヴァルツ演出は10公演(今回を含めると11)だが、3公演は別の演出で上演している。2013年のアメリカ公演ではChen Shi-Zhengの、15年のドイツ・キールでは新国立でもお馴染みのマティアス・フォン・シュテークマンの演出だ。ダンサーを使わない通常のオペラ演出なのだろう。どんな舞台だったのか。見てみたい。
「能」に基づくオペラがドイツ語上演され、それを日本人が字幕を通して観る/聴く。作曲家に委嘱したのがヨーロッパの劇場だから当然そうなる。だが、やはり日本語で創作された細川俊夫のオペラを観て/聴いてみたい。細川氏にはぜひ日本語のオペラを創って欲しい。そのためには、日本の劇場が彼に委嘱しなければならない。それはいつになるのか。ただ、今回の公演では(も)初日・2日目とも聴衆の態度は目(耳)にあまるものがあった。何度も落下音はするし、2日目には沈黙時に大きな足音を立てて出て行く者もいた。この国の劇場(音楽)文化が成熟するにはまだ時間がかかるのか。それまでわれわれは日本語の優れたオペラを持つことができないのだろうか。